2009年5月17日 復活後第5主日 「喜び」

ヨハネ15章11~17節
大和 淳 師

これらの事をあなたがたに語ったのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい.これがわたしの戒めである。
人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、だれも持つことはない。
わたしが命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友である。
わたしはもはや、あなたがたを奴隷とは呼ばない.奴隷は主人が行なっていることを知らないからである.わたしはあなたがたを友と呼んだ.わたしは父から聞いたすべての事を、あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない.むしろ、わたしがあなたがたを選んだのである.そしてあなたがたを立てた.それは、あなたがたが出て行って実を結び、あなたがたの実が残るためであり、あなたがたがわたしの名の中で父に求めるものは何でも、彼があなたがたに与えてくださるためである。
わたしがこれらの事をあなたがたに命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節) ― 「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるため」、そのために、キリストはわたしたちにみ言葉を語られる、全てはこのためであると言うのです。キリストの言葉、わたしたちがそれを聞くのは、まさにこの喜びのためなのだ、と。つまり、これは「今あなたがたの持っている不確かな喜びを全く揺るがない、確かな喜びとするために、わたしはこれらの言葉を語ったのである」、そういうことです。

と言うことは、キリストは、当然わたしたちの喜び、わたしたちが今持っている喜びとは、如何に弱く、不確かなものであるかを、わたしたちは本当には喜べないものであるということを、この方は本当によく知っておられるのです。いや、それどころかもっと直接に、19節では「世はあなたがたを憎む」、あるいは16章20節では「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」、その16章の終りでは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、そのようにキリストは言われるように、わたしたちが、今ここでは苦しみを持ち、泣き悲しむような人間であり、憂いて生活し、悩みを抱えて生きている、それがわたしちの真の姿であることを、本当に御存知であり、それ故、「喜びが満たされるため」、そうおっしゃっておられるのです。

ですから、わたしたちが、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」、このキリストの言葉に耳を傾け、自分のものにするということ、それは、でも自分のことを振り替えれば、どうしたって本当には喜べない、むしろ悩んだり、悲しんだり、苦しんでいるものであること、そういう自分であることを忘れて、謂わば無理にでも喜ぶ、喜ばなければならない、そういうことではないのです。

むしろ、それはこういうことです。わたしたちは、やはり喜べない、喜びたい、本当の喜びが欲しいのに、いやそれ故に悩んだり、苦しんだりする、悲しまなければならない、そういう自分であるということ、そのことを、この方の前に隠す必要はない、むしろそのようなありのままの自分を本当に思っていいのだ、ということです。それ故にこそ、キリストはあなたに言われるのです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」「わたしの喜びがあなたがたのうちにある」ようにして下さるのです。キリストご自身の喜びを、またあなたのものに、あなたの喜びとして下さるというのです。

ですから、思い切って主に言っていいのです。「でも主よ、どこに喜びがあるのでしょうか。このわたしの中に・・・。主よ、喜びを求めて様々なことをしてきたのです。でも、いつも喜びは裏切られました。泡のように浮かんでは消えました。だから思い悩むのです。苦しいのです。人一人も愛し通せない自分です。いや、自分自身さえ本当に大事にできないのです。だから、本当は忘れていたいのです。そんな自分を真剣に考えることは、ただあまりにも悲しいからです。あまりにも自分が惨めだからです。汚れてしみだらけの自分を取り替えることはできないからです。主よ、だから、あなたの言われるような、一点の曇りもない喜びは、今更どこにもないのです。わたしの中にも、わたしの周囲にも。」と。

そもそも、わたしたちが本当に喜べない、それは、たとえば、希望、本当に確かな希望を持っていない、それゆえ、今ある喜びも全くつかの間の喜びになってしまう、そう言えるでしょう。だから、それこそ今あること、周囲のことに常に引きずり回されてしまう訳です。他人と比べて、ああ何て自分は不幸だろうと思ったり、あるいはこの方はるかにが多いかも知れませんが、自分より不幸な人、みじめな境遇な人を見て、自分はまだましだ、いい方だとか思ったりする、そういうどこか気楽な人生を歩んだりする訳です。しかし、本当に確かな希望を持っていないがゆえに、たとえば災難や、あるいは周囲にちょっとした暗いことがあると、もう動揺してしまって、自分を見失ってしまう訳です。それは明日がない、本当の希望がないからです。だから、重い過去を引きずるようにしか、人生を感じられなくなってしまう、そう言えるのです。言い換えれば、本当の意味で明日がない、明日を感じられない、そういうところでは、逆につかの間の喜びというか、刹那的な人生観しか持てなくなる。人生が投げやりになっていく。それは今が楽しければそれでいいという風な生き方になりかねません。つかの間の喜びでしかなくなるわけです。

しかし、何と言ってもわたしたちが喜びを失うのは、この後、キリストが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と言われている、このことに関わります。つまり、わたしたちが喜びを失うのは、「たがいに愛し合う」ような、愛し、愛される、共にいる人間がいないときです。独りぼっちであるからです。つまり、こういうことです。たとえば、宝くじで一億円当たったところで、やっぱり自分ひとりだけでそれを使うことを考えれば、最初は嬉しいでしょうが、むしろ、大金を独り占めしようとし始めるなら、一億円は喜びであることから、苦痛、重荷になっていくでしょう。何故なら、喜びとは、本来誰かと一緒に喜ぶことだからです。あなたを喜んでくれる人がいる、あるいはまた一緒に悲しんでくれる人がいるということです。もっとも、それにも関わらず、一億円あったら、そんな浅ましい思いを持ち続けるわたしがいるわけですが・・・。

それで、9節でキリストは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」、そのように言われ、そして、だから「わたしの愛にとどまりなさい」と命じておられます。原文を見ますと、この「愛にとどまりなさい」という「とどまりなさい」という言葉と、この「わたしの喜びがあなたがたの内にあり」の「内にある」は同じ言葉です。一方でキリストの愛のうちに留まりなさいと言われ、同じように、ここではキリストの喜びが留まるためである、そう言われているわけです。実に愛と喜びは切り離せないものなのです。それが、このキリストであり、この神の愛なのです。そして、ここでキリストの言われる愛にしろ、喜びにしろ、ともかく主語は、全くキリスト、つまりこの喜び、あるいは愛する主体は常にキリストです。その意味では、わたしたちは、その愛、喜びを徹底してただ受けるだけなのです。つまり、一方的に、このキリストから、わたしたちに与えられる、やってくるものである訳です。実は、そのことがこの15章のはじめから一貫していることなのです。

少し振り返りますと、キリストは、はじめに「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、わたしたちに言われました。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と。わたしたちは、このキリストにおいて、キリストと言う「ぶどうの木」の枝であるとされていました。だから、このキリストにつながっていれば「豊かな実を結ぶ」(〃)けれど、もしキリストから離れるなら「あなたがたは何一つできない」(〃)。ここで、ともかくわたしたちはキリストから離れることはできないと言われている。「あなたがたは何もできない」、これは実にはっきりとした、強い言葉です。全く、ことごとく何もできないと言われるのです。したがって、もし、わたしたちが喜べない、喜びのないものに人生がなってしまっている、あるいは端的に愛することができないということ、それはただ、わたしたちは決して幹、木そのものではなく、一本の枝、折られてしまったら「投げ捨てられて枯れる」枝だからだと言うのです。しかし、わたしたちは、既にキリストというぶどうの木の枝なんだということ、いや、わたしだけではない、一人ひとり、わたしたちの目にはバラバラに見える一人ひとりが、同じ幹から命をもらって生きている、実がなるよう支えられている同じ木の枝なんだということ。 ですから、わたしたちはこの自分自身、この自分で「実を結ぶ」、そういう風に、あたかも自分自身が「ぶどうの木」であるかのように考え、生きている訳ですが、しかし、実はその自分の足元、その下に、このわたしが今このありのままで「実を結ぶ」ようにしっかりとわたしをつないでいるキリストという命の木、支えがあるのだ、ということ。だから、「喜びが満ちあふれる」、それはただこのキリストの愛、大きな力強い、そのぶどうの木に、枝として留まる、ただそれだけがここで求められている、あえて言えば、それだけでいいのだと。このキリストの愛のうちに生きる、しかも、わたしだけではない、すべての人が愛され、大切な枝として、わたしと共に生かされている、そのことを知ることが求められているわけです。

もちろん、最初に申しましたとおり、わたしたちの内には絶えず不安がある訳です。そうは言ってもこの木から、自分は離されてしまっているのではないか、というような不安、あるいは苦しみがあるわけです。あるいは、やはり自分は本当に人を愛することはできない、あるいは、むしろ、愛されていないのではないかという苦しみ、不安です。希望がないと感じる悩みです。孤独を感じる悲しみです。わたしたちの眼には、何と言っても闇の深さしか写らないからです。

しかし、そういうわたしたちに、このキリストは力強く、そのわたしたちのぶどうの木として、わたしと共にい給うのです。十字架という死の苦しみ、その深い人生の谷底まで降り給い、死さえも、この方から、わたしたちを離すことができないほどに、わたしを結び付けていてくれる、その愛を貫かれたのです。あなたの苦しみ、悲しみ、悩み、それはあなたひとりの、その枝だけの痛みではないのです。一つの枝、一本の枝の痛みは、そのまま木全体の苦しみであり、このキリストの苦しみであるのです。

全くに、このキリストは、それだからこそ、枝であるわたしたちなしには存在し給わない。幹のない、幹から離れた枝は枯れるように、しかし、またその幹、ぶどうの木は、枝なしには存在しないのです。キリストは、あなたなしにい給わないのだということ。わたしたちは、キリストというぶどうの木の枝であるということ、それは、キリストかわたしたちなしには存在しようとされないし、それ故にこそ、わたしたちはこのキリストなしには存在しないということなのです。 それ故、今日のみ言葉の真ん中で、こういうことが語られています。キリストは、このように言われるのです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」 ― この15章の少し前、同じヨハネ福音書10章では主イエスはご自身を「わたしは良い羊飼いである」とされ、わたしたちを羊にたとえられていました。そして、この15章の冒頭では今度は、ぶどうの木とぶどうの枝にたとえられました。それで、この羊飼いとぶどうの木の比喩を比較してみますと、羊飼いと羊の関係より、ぶどうの木とぶどうの枝は、更にキリストとわたしたちとの関係がよりはるかに緊密な、強く結ばれた関係として語られていると言えるでしょう。羊飼いと羊は、何と言っても別々の二つのもの、つまり、導く者と導かれる者、師と弟子の関係のように、親密であっても、しかし、両者には決定的に相違があると言わなくてはならないのですが、しかし、ぶどうの木とぶどうの枝は、何と言っても同じ一つのもの、どちらも一方を欠いては存在し得ないような、まさに一体化された、羊飼いと羊の関係より一層強い緊密な関係として、主イエスはわたしたちを見ておられるということ。そして、それに続く今日のこの箇所では、更に強まって更にその緊密さ、密接さを増すように「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、この方は、ご自身とわたしたちを更にもっと暖かな親密さの中に立たれる、そのようにわたしたちに中に踏み行って来られてくるのです。そのようにして、十字架のキリスト、復活された方は、わたしたちの希望、支えとしてわたしたちの中に立っているのです。

わたしたちの愛は喜びよりも、あるいはそれと同時に、どこかに必ず悲しみ、痛みを伴います。何と言っても不完全だからです。そのことは本当は、わたしたちを全くぶちのめすようなことです。どんなに人を愛そうとも、限界がある。相手に届かない、苦しんでいる兄弟姉妹を前に無力にならざる得ないのです。私事で恐縮ですが、長女を授かったとき、この子を愛する深い喜びを与えられました。しかし、まだその小さかった命を抱いていたとき、あぁ、やがて、この子と別れる時が来るのだ、そういうことを思ったのです。どんなに愛しても、限界がある、そのことにあらためて愕然としたのですが、だが、しかし、この子を、わたしを導くのは、このわたしではない、このお方がおられる。このお方が必ず、このわたしの不完全さ、いや、どんなに罪にまみれた愛であろうと、最もよきことを必ずしてくださる、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、だから、お前はなし得ることを最善を尽くすがいい。そのことを知ったとき、むしろ、限界があり、不完全であるが故に、弱さの故に、感謝と喜びがあることを知ったのです。「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、この主があなたの足元で、あなたを支え、いつくしみ、養ってくださっています。勇気をもって、わたしたちの前に立ちはだかる困難、闇に立ち向かっていきましょう。あなたはひとりではないのです。