2009年6月14日 聖霊降臨後第2主日 「新しい生き方を」

マルコ2章18節~22節

 
説教  「新しい生き方を」  大和 淳 師
さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人が断食していた。彼らは来てイエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか?」
イエスは彼らに言われた、「婚宴の間にいる子たちは、花婿が一緒にいるのに、断食することができようか? 花婿が一緒である限り、彼らは断食することはできない。
しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る.そうなれば、彼らはその日に断食するであろう。
だれも、縮ませていない布切れを古い衣に縫いつけはしない.そんなことをしたなら、継ぎ当てた新しい布切れは、古い衣を引き裂き、破れはもっとひどくなる。
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋も駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れるものである」。

  今日からまたマルコ福音書の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思いますが、ここには断食ということが出てきます。そもそも旧約聖書のレビ記には、年に一度、贖罪日の時に断食することだけが規定されていましたが、イエスの時代の頃には、今日の箇所にあるファリサイ派の人々は週二度、月曜日と木曜日に断食していたようです。またルカ18章には、そのことを誇りとするファリサイ派の人々のことが書かれています。また同じく挙げられている洗礼者ヨハネの弟子たちもやはり厳しい断食していたようです。そもそも洗礼者ヨハネの教えは、何より悔い改めでしたが、その悔い改めの行為として、断食を行っていたのでしょう。これもマタイ11章18節を見ますと、その彼らの断食を評して、「悪霊につかれている」と人々が言っていたようです。つまり、正気の沙汰ではないと思われたほどであったのでしょう。

   ところが、イエスは、そのように断食を弟子たちに課さなかったし、自らも断食の習慣を持とうとはされなかったようです。それどころか、今日の直ぐ前の箇所にあるように、むしろ、食事を絶つのではなく、共に食事をする人でした。ですから、先のマタイ11章には、〈ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。〉、イエスについて、こう人々が評していたと記されています。ですから、ここで「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」、というこの問いも、非難の意味がこめられていたのかも知れません。つまり、弟子たちのことを取り上げつつ、しかし、そこには徴税人や罪人の仲間であるイエスに対する非難を遠回しにしているのでしょう。

   しかし、それに対するイエスの答え、それは、実に意表を突くたとえでした。〈イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。〉(19-20節)。今は、いわば結婚式、婚礼の真っ最中なんだ、このイエスと共にある人々は、その婚礼の客なんだ。だから、どうして、そんな時に断食する必要があるだろうか、と。そして、しかし、「花婿が奪い取られる時が来る」。その時には、嘆き悲しむであろう、と。

   この「花婿が奪い取られる時」とは、ご自身の十字架にかかられることであると言います。それは、この言葉はイザヤ書53章8節の「私の民の背きの故に、彼が神の手に掛かり、命ある者の地から絶たれた」の預言、この「奪い取られる」とイザヤ書の「絶たれる」は、ギリシャ語では同じ言葉なので、つまり、十字架にかかられたことを意味しているというのです。そこから、キリスト教が断食をするのは、キリストの十字架にかかられた日、聖金曜日である、マルコは、そのことを教えているのだ、と解釈する人もいます。しかし、ここで明らかなこと、それはこの主イエスの言葉は、断食をするかしないか、あるいは、いつするのかということではなく、何よりこのキリストと共にあること、共に生きること、キリストと共に喜び、そして、キリストと共に苦しむこと、それがご自分の弟子たちであることを語っている、そう言っていいでしょう。言い換えれば、わたしたちの喜びも苦しみも、このキリストから来るのだということです。パウロは、フィリピの手紙の中でこのことを端的に次のように言います。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1章29節)。苦しむことも、恵みとして与えられているだよ、わたしたちは、とパウロはそこで語りかけています。喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、と。

   しかし、苦しいときに、それは恵みとして与えられている、わたしどもはなかなかそう思えない、いえ、苦しみが恵みと思えないから苦しむだ、そう言っていいでしょう。だから、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、とは到底思えない、かえってつまずく、そう言っていいでしょう。けれども、いずれにせよ、そんなわたしどもの思いは、いわば実は自分は変わろうとせず、言うなれば、自分ではなく、神の方を変えようとする、あるいはまた自分の周囲、他者や環境だけが変わることを押しつけてようとしているわたしであると言えるかも知れません。そして、この自分を変えようとしない、変えたくない、その背後には、実際自分を変えようとしても、なかなか自分の思うとおりには変われない、変わらなかった、そういう思いがあるからでしょう。

   だから、ここで主イエスは〈だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉、そう言われますが、この言葉を、決して変わらない、まだ〈古い革袋〉であるわたし自身が、み言葉、イエスさまという〈新しいぶどう酒〉を受け入れてもだめになるだけだ、そんな意味にしかとれないわけです。つまり、〈新しい革袋〉になれない自分なのだから、もし、このことを真剣に受け取るならば、どうしたら〈新しい革袋〉になれるだろうと悩み苦しむ以外にないわけです。しかし、それは、自分、わたしの思い通りに変わりたい、つまり、自分で自分の思い通りに変わろうとしているだけなのです。そうして、そのような自分の弱さ、貧しさ、惨めさ、それはわたし自身、わたしのものではない、そう思い続けているからではないでしょうか。

   ところで以前、渡辺和子先生の御著書からニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に残されているという、一人の患者が書いた言われるというこんな詩を知りましたが、これは紹介したこともあるので、ご存じの方もおられるかも知れません。

   〈大きなことを成し遂げるために/力を与えてほしいと神に求めたのに/謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった/偉大なことができるように/健康を求めたのに/よりよきことをするようにと 病気を賜わった/幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして/成功を求めたのに/得意にならないようにと 失敗を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが/願いは すべて聞きとどけられた/神の意に添わぬ者であるにもかかわらず/心の中の言い表わせない祈りは/すべて叶えられた/私は 最も豊かに祝福されたのだ〉それで、この詩を記した人は思わぬ病や事故で体が不自由になってしまったのでしょうか。かつて健康を願い、成功と賞賛を求めたこの人の祈りは、求めたものは一つとして与えられなかったのに、しかし、神の意に添わぬわたしなのに、わたしの心の中の願いはすべて叶えられたと言うのです。それで、〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉というその〈新しい革袋〉とは、結局、わたしが想い描く立派な自分、有能である、常に正しく、あるいは強く、他から尊敬されるような、そういう新しい自分なのではなく、まことに弱さ、貧困、あるいは病気、失敗・・・そのようなわたしである、いや、それを通してこそ、神は恵みをわたしに与えてくださる、ということ ― 喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。だから、そのように自分を、わたしを変える、変えてくださるよう祈る、まことにそこにこの十字架のキリストが立っておられる。そのことが〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に〉ということである、そう言えるのではないか、と思うのです。〈新しいぶどう酒〉、〈新しい革袋〉とは〈永遠に変わらないぶどう酒〉、〈永遠に変わることのない革袋〉、そう言い換えてもいいでしょう。と言うのも、聖書において、新しいということ、これはもちろん、今までなかったと言う意味で新しい、そのように使われますが、しかし、聖書がいう本当に新しいとは、もっと根本的に決して変わらないもの、永遠に変わらないもの、つまり、神ご自身のみ、あるいはその神から来るものだけなのです。

   それで、渡辺先生はこう言われていますが、先の詩を書き残した人も、直ぐにそのように受け止められたわけではないでしょう。きっと、眠れない夜を幾夜も送り、時に絶望し、嘆き悲しみながら、祈り求め続けたのでしょう。でも求めたものは一つとして与えられなかった、だが神さまは心の中の願いをすべて叶えてくださった、わたしの思いではなく、本当に意に添わないはずの、そのわたしに必要なもの、永遠に変わらないものをいつも与えてくださるのだ、心の中の願い、わたしがわたしである安らぎを与えてくださったと。だから、弱さを通してこそ、神さまはわたしに本当に必要な新しい革袋、決して永遠に失われることのない革袋を用意し、与えてくださる。それがキリスト者としての新しい生き方、このキリストと共に喜び、キリストと共に泣く生き方なのです。

   だから、わたしたちが経験する出来事のひとつひとつ、たとえ、それがどれほど辛い、悲しいことに思えたとしても、それらは無意味なものでも、不条理なものでもない。それも神が与えた出来事と考えられる時に、今は恵みとは分からない、思えないけれどもそれでも自分の人生として受け入れて生きていくことができるようになるということでしょう。わたしたちには、今恵みとは分からなくても、共にいてくださる神においては神のご意志、愛、み恵みが変わることなく貫かれている ― そのことを信ずることができるなら、あるいは、その愛、神のご意志が貫かれることを祈り求めるならば、その時にこそ、わたしたちは不安を乗り越えることができるのではないでしょうか。
そもそも、わたしたちは神の御手の中にある全体の一部を知っているに過ぎないのです。しかし、それは逆に言えば、神は全てを知っておられる、ということ。全ては神の御手の中にあるということ。その神の御手、ご意志とは、決して冷たい運命や宿命、あるいは暴君のようなものではない、このわたしをただひたすら愛するが故に、このわたしの全てをご存じである ― このことを信じる、この身に帯びていく ― そこに既に〈新しい革袋〉、新しい生き方が始まるのです。もっと言うならば、どんなことにおいても、喜びも、苦しみも神が与えてくださったことだと信じることが、私たちの人生を新しい、どんなことにおいても決して変わらない生き方にするでしょう。キリストが変わらずにそこに立ち、共にいてくださるのです。

   さまざまなことがあるでしょう。受け入れがたい現実に直面することだってあるでしょう。しかしこの試練も、自分の思いに反するようなことが続くときでも、この人生は神に与えられたものなのなのです。だから、あなたの人生は無意味であるはずがない、理不尽のまま、不条理のままであるはずはないのです。〈新しいぶどう酒は新しい革袋に〉、そういう生き方が既にわたしたちの中に始まっているのです。