2009年8月30日 聖霊降臨後第13主日 「人を汚すもの」

マルコ 7章1-15節

 
説教  「人を汚すもの」  大和 淳 師
さて、パリサイ人とある聖書学者たちがエルサレムから来て、イエスの所に集まり、
彼の弟子たちが汚れた手、すなわち、洗わない手でパンを食べているのを見た。
(パリサイ人とすべてのユダヤ人は、昔の人たちの言い伝えを固く守り、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしないからである.
また彼らは、市場から帰った時には、身を洗ってからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅器をすすぐことなど、受け継いで固く守っている事が多くある)。
そこでパリサイ人と聖書学者たちは彼に尋ねた、「なぜあなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えにしたがって歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか?」
イエスは彼らに言われた、「イザヤはあなたがた偽善者のことを、よくも適切に預言したものだ.こう書かれている、『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている.
彼らは人の戒めを教えとして教えながら、むなしくわたしを礼拝している』。
あなたがたは神の戒めを放棄して、人の言い伝えを固く守っている」。
イエスはまた言われた、「あなたがたは自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めを捨てたものだ。
モーセは言った、『あなたの父と母を敬え』.また『父や母をののしる者は、殺されなければならない』。
ところがあなたがたは、『もし人が父や母に、あなたがわたしから得るものはみなコルバン(すなわち、神への贈り物)ですと言えば、
その人に、父や母のためにもう何をしなくてもよい』と言う。
こうしてあなたがたは、自分たちが伝えてきた言い伝えによって、神の言から権威を奪っている。また、これと同じような事を多く行なっている」。
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて、彼らに言われた、「みな、わたしの言うことを聞いて、理解しなさい。
外から人に入って人を汚すものはない.むしろ人から出て来るものが、人を汚すのである。

 「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。キリストは、そのようにファリサイ派の人々、律法学者を批判されます。ことの発端は、「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者」がいたからでしたが、ファリサイ派の人々、そして、エルサレムから来たと言う律法学者の人々が、それを見ていたのです。手を洗わないで食事をする、それは、単に衛生上の問題ではなく「昔の人の言い伝え」とあるように、全くの宗教上の理由からです。あえて言えば、非は手を洗わなかった弟子たちにあります。ところが、主イエスはここで弟子たちをたしなめることなく、ファリサイ派の人々を叱責されるのです。

そして、そのファリサイ派の人々、律法学者たちへのイエス言葉はまことに痛烈です。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。[この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。]あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6~8節)。このイエスの言葉は、ファリサイ派の人々、律法学者たちに向けられたものです。とは言え「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」、これもまた、全くわたしたちに関係のないことだろうか。そう思うのです。イエスのファリサイ派の人々に対する批判は更に続きますが、13節では、「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」。最初に「神の掟」とここで言われていたのが、ここで端的に「神の言葉」と言い換えられ、それが「無」にされている、と言うのです。神の言葉を無にしている。福音を無にしているのだ、と。神の言葉は、自らの生活、自分の日常生活では関係ない、まるでそこに無きもののように無視し得るのだ、そう言われるのです。それは、手を洗わなかった弟子たちも同様でしょう。そして、このわたしたち自身、わたしたちはそうではない、わたしは神の言葉を無にしていない、そう言える人がいるだろうか。わたしたちは、わたしたちなりの仕方で、神の言葉を無にする、そういうものになっているのではないでしょうか。

神の言葉を無にしている、ここで主イエスが何を見ておられるのか?神の言葉を無にしている、つまり、まったくわたしたちのこの生の足もと、あるいは、わたしたちの心の根の問題です。それ故、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、まるでとどめをさすように、ただ単にファリサイ派の人々たちだけにではなく、そこにいた群衆すべてに向かって、そう言われるのです。人を汚すもの、わたしを汚すもの、わたしを躓かせるもの、それは「外から」ではない、徹底してわたしの内、わたしの中から出て来るものが、わたしを汚すのだ、と。

キリストは、まったくわたしたち自身の罪、神の言葉を無にしている、神ご自身を無にしている、そのようなわたし自身に向き合うことを求めておられるのです。わたしたちが、あれこれの人を批判する、問題にする、だがしかし、あなたの内はどうなのか、そのように問うておられる、と考えてもいいかも知れません。だから最早主イエスは、それをファリサイ派の人々、律法学者たちに言うのではなく、「群衆に」、つまり、彼らだけではなく、すべての人間に向かって言われ給うのです。

主イエスは何よりそのありのままのわたしたち自身をご覧になっておられる、。主イエスの視線を辿っていくとありのままのわたしたち自身があるのです。

そこでもう一度、この物語のはじめに戻ってみたいのですが、このことは他ならない、当のことの弟子たちを巡って起きたことでした。この主イエスの視線から離れて彼らを見ていると、そもそも何故、弟子たちは手を洗わなかったのだろう、そう思います。2節を見ますと、弟子たちみんな洗わなかったのではなく、中の幾人かが洗わなかったのです。ということは大多数の弟子たちは洗ったのです。しかし、目につく程度の人が手を洗わなかったということです。彼らだって、ユダヤ人でしたから、小さいときから親たちにしつけられてきたことではないでしょうか。つい、うっかりしたのでしょうか。それとも、手を洗う暇もないほど忙しかったのでしょうか。それに対して弟子たちの言葉、言い訳や弁明は記されていません。そしてイエスご自身もまた、手を洗わなくてもいいとか、いけないとか一切おっしゃってはいません。しかし、落ち度と言えば落ち度であり、そのような非難の口実を与えた責任もあるでしょう。それは決して小さなことでもないでしょう。イエスもたかだか手を洗ったか、洗わないかのことではないかという風に問題にされていないからです。

つまり、まことにだらしがない、いい加減、そのように非難されても仕方がない弟子たちがまずそこにいるのです。そしてその弟子たちを見つめるイエスの眼差しを思うのです。わたしどもであったら、こう言うかもしれません。ほんの一握りの者たちのために、全体が非難を受けている、と。しかし、主イエスは彼らをそのように全体から切り離してご覧にはなっていないのです。あたかもそれはまた彼らすべてが負うべきこと、パウロが「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(1コリント12:26)と語るように、あるいは「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(〃12:22)と言われるように、そのように眼差しを注いでおられる、担って下さっているのです。そこに注がれている愛の深さを思うのです。ファリサイ派の人々への言葉が厳しく、激しければ激しいほど、イエスが守ってくださるものの大切さを思うのです。この方が、あのだらしのない弟子たちの中で、担ってくださっている重荷を思うのです。そのようして生かされているわたしたちが見えてくるのです。

誰一人かけてはならないのです。このファリサイ派の人々さえ。そして、大切な言い伝え一つ守れない弟子たちもまた必要とされていることを思うのです。それが何より最初にあるのです。まったくわたしの内側、誰にも見えない心の中、その奥底をご覧になっておられる、まさに汚れそのものであるわたし自身をご覧になりながら、だが、それに先立ってそのようにまずわたしたちを深く憐れんでおられる、愛し通されるこの方の眼差しがあるのです。

ですから「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、それはこういうことです。このキリストの眼差しの中で、わたしたちはその自分、わたし自身と向き合うのです。敢えて言えば、除いても除いても内から出てくるわたしの「汚れ」、だが、そこにこの方は共におられるのです。そのようにしてわたしたちはこの方の十字架の前に立っている。何よりこの方はその汚れの底に立たれる方です。内から出てくるわたしの「汚れ」、何よりそれをご自身に負ってくださる方、それがキリストなのです。だから、この方ととあなたと、神とあなたを最早引き離すことはできない。わたしたちの心を暗くするようなことが、外から絶えずあなたに内に来るあれやこれのことがあなたを汚すのでもない。あなたはありのままにわたしと共にいなさい、と。わたしがあなたの内側にいる、と。

D.ボンヘッファーは「共に生きる生活」という本の中で「あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることを許される。そのことを神に感謝せよ。何故なら、神は罪人を愛し、罪を憎み給う方だから」(D.ボンヘッファー「共に生きる生活」111頁)と言っています。つまり、教会は、ややもすると、敬虔な者の交わり、正しい者の交わりとなり、過つ者、破れたる者であることを許されなくなってしまうものになると言うのです。しかし自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないのです。だから、わたしたちは、教会、他の兄弟姉妹が必要なのです。その中にキリストはおられからです。問題・罪のないキリスト者がキリスト者なのでありません。あるいは、問題のない教会が良い教会なのでありません。教会が教会であるのは、共に重荷を、問題を担っていけること、あるがままのわたしを共に担ってくれる兄弟姉妹がいることです。いえ、重荷を、問題を担っていることが不幸なのではないのです。どんな重荷を、問題を担っていようとも、決して失われることのないわたしであり続けるために、このキリストはありったけの愛をもって、わたしたちを支えてくださっているのです。

人は正しいと思えば思うほど己れ自身と向き合うことをしなくなるのです。そして、またこのキリスト、この真の愛なしに己と向き合うことは、卑屈になるだけです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」からです。しかし、自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないし、またそうする必要もない。このキリストに担われてこそ、わたしたちは悩み、罪を自ら向き合い担っていける、克服しえるのです。そこにキリストの眼差しを感じながら、そこにこそ注がれている、担ってくださっているキリストを信じながら、共に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ように生きていくことです。もちろん、だから傷つきます。後から後から溢れてくるいわば自分の汚れに打ちのめされるような思いをするのです。だから繰り返し、この主イエスの愛に帰るのです。この主の愛に導かれて生きるのです。