2010年5月23日 聖霊降臨祭 「教会とはだれですか・・・」

説教:五十嵐 誠牧師

◆聖霊が降る

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2;14ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

教会は特別な暦を持っています。週報の表紙にあります。今日は

「聖霊降臨祭・日」です。ギリシャ語で「ペンテコステ」と言いますが、それは「50」を意味します。ユダヤ教では「五旬祭」と言い、三大祭りの一つです。麦の収穫を祝う祭りです。またモーセがシナイ山で律法を授けられた記念の祝祭でもありました。キリスト教会ではイエスの復活から50日目が「聖霊降臨日」になります。イエスは復活後0日間地上におりましたが、天に昇られた後10日後に起きた出来事を覚えて教会は守ります。詳しいことは使徒言行録2章を見てください。

人はみな誕生日があります。教会にもあります。教会は誕生以来、2000年の年月を経ています。教会の誕生日は今日、「聖霊降臨日」です。この日エルサレムに教会が出現しました。教会とは、何でしょうか。正しくは、教会とは誰ですかです。「教会」という言葉で、何を想像しますか。この六本木教会を描いているでしょう。教会というと、よく町で見かける、屋根に十字架を掲げている建物を・・六本木教会は一見教会らしく見えませんが、よく見ると教会です。建物をイメージします。しかし、それは正しくありません。教会が建物として存在するようになったのは、5世紀以後だからです。キリスト教がローマ帝国の国教にになってからです。イタリアやドイツなどいきますと、巨大なゴッシックの教会があります。日本でも、横浜の海岸教会やお茶の水のニコライ堂などが有名です。ローマのバチカンのペテロ大聖堂は素晴らしい。スペインのバルセロナのガウディの「サクラダ・ファミリア教会」も尖塔がしていてます。

それ5世紀以前の教会は・・紀元一世紀から迫害時代は・・一般の信者の家でした。「家の教会」でした。迫害時代はローマのカタコンベ・catacombe でした。カタコンベとは「地下墓場」です。今でも遺跡として残っています。信者たちは隠れて集まり、礼拝し、儀式を守り、信徒の交わりをしていました。そこが「教会」でした。

今述べたことから分かるように、教会とは建物ではないと分かります。教会とは何ですかではなく、教会とは誰ですかっですが。誰かですが、それは・・その答えは「人々」です。新約聖書には多くの手紙があります。ローマ、コリント、エフェソ、ガラテヤ、コロサイなどですが、それはその都市の教会の信徒宛てに書かれたものです。使徒の働きを書いた「使徒言行録」がありますが、イエスの弟子たちは福音を携えて各地に・・世界に出ていきました。彼らは教会という建物を建てた訳ではありません。彼らはその地に「信者の集まり、群・グループ」を造ったのです。ですから、教会というのは建て獲物ではなく、人々・信徒の集まりを言います。ここ六本木教会というのは、ここに集まっている信者たち・・礼拝をし、礼典(洗礼・聖餐)を行い、信徒の交わりをしている人々を意味します。建物ではありません、建物は場所の意味です。建物があったら、そこに信徒の群・教会が あるということです。

難しくなりますが、聖書で「教会」と訳されている言葉はギリシャ語で「エクレジア・ejkklhsiva」ですが、それは日本語では「教会」と理解していますが、他に、「集会・集まり、信者の群」などと訳せます。ですから、「教会」を好まない人は別の表現をします。

パウロという弟子の言葉を借りれば、教会とは「キリストの十字架によって救い出され、神に召し集められた集団・エクレジアであるのです。日本語の教会はいい表現ではないと言います。なにか「Teaching Society」を連想するからです。教会は「学ぶ所」となるからです。また、英語でChuchというのは「主に属する者」と言う意味のギリシャ語かあ来ています。

先ほど、今日は教会の誕生日と言いましたが、紀元34年頃、パレスチナのエルサレムに誕生しました。詳しくは使徒言行録2章を読んで下さい。イエスが天に帰られた後、10日後に、約束されていた「聖霊」が、この日、集まっていた一人一人の弟子の頭の上にとどまりました。異常な出来事です。さらに驚くことが起きました。聖霊に満たされた弟子たちが、聖霊が語らせるままに外国の言葉を話しました。イスラエル生まれの弟子たちが、祭礼に来ていた巡礼者に、その国の言葉で話したからです。十何カ国語です。巡礼者は驚き言っています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。

その後、弟子のペトロは説教をして、この出来事は預言の実現であること、そしてキリストの十字架と復活の福音を述べました。それを聞いた人々はこう言いました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか、言った」。「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。と。

そして、この「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。

この日、ここに、最初の教会・三千人の信者からなる信徒の群・集まりが誕生したのです。エルサレムに、ローマのバチカンのような大聖堂が出来たのではありません。信徒の教会生活がよく出ています。

弟子たちは救いの福音をもって、各地に伝道して、信徒の集まり、集会・教会を造りました。その働きを書いた書物が「使徒言行録」です。読みますとその苦労が分かります。その集まり・教会は弟子の努力や手柄で造られたものと考えられますが、そうではありません。この書物を別名「聖霊行伝」と言います。聖霊の働きで、福音を聞いた人々は、イエスを救い主と信じ、その集まり・教会を造りました。

それは今の私たちも同じです。聖霊は私たちに働く力です。言ってみれば、私たちの生活の・・それはクリスチャン生活の全てに大事な力なのです。私たちはよく「お陰さまで・・」と言います。「如何ですか」に対してこう答えます。それで納得しています。私も言いますが、本当は「はい、聖霊のおかげで・・」が正しいのです。率直に「聖霊のお陰さまで・・」と言いたい。

クリスチャンは「聖霊」を神、キリスト共に重んじています。聖霊は三位一体の神として、信じらています。これについては来週、江本牧師から聞いて下さい。

私たちは「聖霊のお陰で、イエス・キリストを知り、信じ、洗礼を受け、今に至るまで生かされているのが、クリスチャン生活です。それはクリスチャンが「聖霊」を与えられ、、今持っているからです。いつ何処で聖霊を受けたか、与えられたかですが、そう洗礼を受けたときです。それを忘れてはなりません。忘れている方が多いと言われます。

聖霊を受けているですが、感情的な興奮をするとか、外国語を語るとかではありません、私は友人の教会に説教に行きますが、その教会は聖霊を強調していまして、私が説教をしていますと、信者さんが「アーメン」とか「ハレルヤ」を連発します。話しにくいです。また、お祈りをすると「アーメン」とか「アー主よ」とか「アーメン、主よ」とか言います。そういわないと聖霊がないような気分になります。ルーテル教会は正反対で静かですね。感情に左右されないで、冷静です。私が説教しても、お祈りしても、途中に「アーメン」とか「ハレルヤ」も入りません。」だから、ルーテル教会の信者さんには聖霊がないとは言えません。聖霊は深く、静かに、力強く働くし、働いているのです。しして、感情だけでなく、かもの思いを理性や知性で理解するように働くき、導くのです。静かですが「聖霊によって与えられる義と平和と喜び、力」(ローマ14:17)を持ち、経験しています。

聖霊は今朝の福音書では昇天にあたって、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」といわれました。

聖霊はここでは「弁護者」になっています。この弁護者というのはギリシャ語では「パラクレートス・paravklhto”」で、意味は「側へ助けのために呼び寄せられて来ている者の意味から、力強い味方、肩を持ってくれる者,同情をもって弁明してくれる人,弁護人」です。紀元4世紀の教父・教会の指導者は「慰め主」と訳しています。聖霊は共に居て、教え、慰める神として理解しています。そう理解したいと思います。私たちクリスチャンは「聖霊は真理を教え、慰めと励ましを与える方と」理解したい。そうすると、「心配するな、悲しむな」というイエスの言葉を信じることが出来るのです。

聖霊は多くのことをわたしたち・クリスチャンのためにしてくれます。私たちは「わたしたちに与えられた聖霊によって,神の愛がわたしたちの心に注がれている」ことを確信でき、どんな場合にも希望を持つことが出来ます。(ローマ5:1-5)。ですから、私たちには「袋小路」ありません。一人で悩むことはありません。聖霊が共にいて、祈って下さるからです。(ローマ8:26)。そのことを信じて、確信して、信仰生活を力強く歩いていきたい。

今日の説教は少し難しいかもです。先だって、」中学生から「先生のお話は難しい」と言われました。少しでも実感できたら幸いです。聖霊について改めて考えることが出来ればと思います。聖霊は立派な概念でも考えでもありません。聖霊は信仰生活を、クリスチャン生活を活性化する大きなとからです。それを経験したい。

アーメン