ルカによる福音書 16:1~13
説教:安藤 政泰 牧師
説教概要
不正な家令の物語りと言われている、この福音書の箇所は又理解するのに難しいところとしても有名です。
8節 「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。」また聖書は9節ではその友人のつくりかたについて「不正の富を用いてでも、自分のために友をつくるがよい」とも述べています。
この箇所が何故理解するのに難しいのでしょうか。それは、倫理的に聖書の述べるところを考えようと無意識のうちにしているからではないでしょうか。
私達は聖書に倫理的基準を求めているのでしょうか。または具体的に生活の指針を見付けようとしているのでしょうか。聖書に記されている文字道理の生活をし、そこに記されている通りの倫理的基準に従って生活しようとしているのでしょうか。
先に引用したように主人はその不正な家令をほめました。しかし、その家令の何をほめたのでしょうか。その不正そのものを褒めたのでしょうか。
主人のものをくすねたこの家令は、その主人から会計報告を求められました。この家令は色々と策を考えます。そして、一層悪いことに、主人の負債をまけてやる事を思いついきます。それは、首になった時の事を考えて、後の生活の道をつける、という事です。
主イエス・キリストはこのような、「不正の家令のやり方を褒めて」います。友人をつくるさいの仕方についても考えてみたい。
自分自身の身に迫った危険に対して、この家令は有りったけの知恵を働かせて対処しました。
私達はこのような実行する力を持って信仰について考え行動しているでしょうか。様々な問題を考えてなかなか実行出来ないのが私達の現実では無いでしょうか。特に信仰にもとずく愛の行動、行動については、即座の判断と実行が必要ですし、自分自身の信仰については厳格である必要があるでしょう。
自分の力の限界を考え、自分の思いの不純さを考え、更に相手にどの要に受け取られるかをおもんばかり、実行に映せないのが今の私達の現実ではないでしょうか。
聖書はこの不正な家令の行動そのものを褒めて、また勧めているわけではありません。聖書は私達と神との関係の持ちかたについて述べています。
人には、考えてから行動する人、行動しながら考える人の二つのパターンがあると言います。
私達は信仰に於いては考えてから厳格に行動に映すものであり、又、その愛の行為に於いては、主イエス・キリストに導かれるままに、行動しながら考える者でありたいです。