2014年7月13日 聖霊降臨後第5主日 「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

マタイによる福音書10章16〜33節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「礼拝にようこそおいでくださいました」とは言いますが、私たちこそが神様によって礼拝に招かれているのですから、本当は逆なんですね。私たちは毎週この礼拝へと招かれ、神様の身許に帰ってくるのです。本来の帰る場所はここなのです。ですから、この礼拝から日常生活、社会という場に出て行くわけですから、礼拝式文の最後の部分は「終わりの部」ではなく、「派遣の部」というのです。そして、神様の祝福をもってして遣わされていくのです。

マタイ福音書の一番最後の箇所にも主イエスの弟子たちに対する派遣の祝福の言葉が記されています。28章20節ですが、こういう言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」主イエスが共にいる、インマヌエル「神は我らと共におられる」ということです。それも世の終わりまで、いつも共におられると主は私たちに約束してくださいました。私たちの一週間はこの祝福の言葉をもってして始まります。この主との交わりにおいて、主の眼差しの中で、私たちは生かされていくのです。何とも心強い、真に支えとなる約束ではないか、主がいつでもどこでも共におられるなら、絶対に平安だというという思いを私たちは抱くのでありますが、今日の福音書において、私たちが遣われていく現実世界の過酷さ、厳しさ、これから起こりうる出来事について、主ははっきりと私たちに語っておられます。

ペトロを始めとした12弟子が選出され、彼らは主イエスによって派遣されます。その際、主イエスは16節で、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と弟子たちに言われました。狼の群れに羊を送り込む、それは何とも無慈悲な言葉に聞こえます。さらに原文では「狼たちのド真ん中に羊を送り込む」と言いますから、羊は狼たちの視線から死角になる場所がないのです。常に、その姿を狼たちのド真ん中で晒し続けているわけですから、逃げ場はないというのです。これが12弟子を最初に派遣された主イエスの言葉でした。とても祝福の言葉とは思えません。狼は羊を食い物にし、屠ります。それは17節と18節で主イエスが弟子たちに「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」と、言われるように、迫害という形で狼の本質が現れてくるというのです。

この迫害という言葉に、今日の私たちはあまり共感を得ることはできないかもしれません。戦時下の日本に置いては、国からの厳しい迫害が確かにありましたが、それでも、今日、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王の前に引き出されるなんてことはまずないでしょう。

しかし、狼の群れ、主イエスはこの世を、私たちの生きている社会に対して、このように言われましたが、それはあながち的を得ている言葉ではないでしょうか。昔もそうでしょうけれど、現代はストレス社会です。世間の荒波は容赦なく私たちの人生に覆いかぶさってきます。本当に理不尽、不条理なことが毎日のように起こる。だから、気づかぬ内に、心身共に疲れ果てている、誰しもがそういうことを経験しているのではないでしょうか。狼の群れ、はたまたそれは暴力、戦争の絶えない状況を差し示します。決して避けることはできない問題でしょう。主イエスのこの言葉は、決してこの聖書が記された時代だけに向けられたものではなく、非常に厳しい現実的な世界を見つめておられるが故に、語っている言葉なのです。

主イエスはこの世界に、狼の群れに、弟子たちを、私たちを派遣すると言われるのです。狼の群れというだけなら、私たちもまたこの世界における一匹の狼という事になるでしょう。狼の群れの中にあって、うまくその中に溶け込んで、無難に歩んでいけば良いのですが、そうではなく、主イエスは「羊を送り込むようだ」と言われるのです。そう、羊なのです。狼に屠られる羊です。羊とはどういうことか、それは全くもってしてありのままの私たち、裸のままに私たちが遣わされていくということです。羊は自衛力がありませんから、先頭に立って、羊たちを導く羊飼いが必要です。羊飼いがいないと生きてはいけません。派遣されていくあなたがたは、狼の群れの中で、そのような羊として歩んでいくようなものだと主は言われたのです。けれども、狼の群れの中で、その共同体における常識や、価値観の中に完全に溶け込んでいけとは言われないのです。狼の群れの中で確かに生きている羊です。同じ動物です。でも、狼の群れには属していないということ、ようするに、この世に生きつつ、この世には属していないということです。それが主イエスの弟子として、生きる道、その歩みそのものなのです。

狼の群れの只中で、羊として歩んでいく。その際、主イエスは16節の後半でこう言われるのです。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」蛇のように賢く、鳩のように素直に、そのような心構えを持ちなさいと言われました。創世記3章1節に「野の生き物の中で最も賢いのは蛇であった」とありますように、蛇は最も賢い被造物として、知られています。エヴァを誘惑したずる賢いというイメージのある蛇ですが、この賢いという言葉は「分別がある、思慮深い」という意味で、理性的な知恵というよりは、実践的な知恵を意味します。同じマタイ福音書7章24節で、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」と主イエスは言っていますが、この賢いと同じ言葉です。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は・・・」賢い、とありますように、この実践的な賢さというのは、主イエスの言葉、神様の御言葉を土台とした賢さなのです。「主を畏れることは知恵の始め」(箴言1:7)と箴言の言葉にもありますように、この世の処世訓のような知恵、人を騙し、自分を偽る知恵ではなく、神様との交わりにおける真に羊を生かす知恵なのです。

ここで主イエスは狼の羊の群れの中で、迫害を受ける羊のような弟子たちに、殉教しろとは言っていないのです。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」と言われました。逃げろ、そう言った知恵を与えたとも言えるでしょう。ただ熱心さだけに留まれとは言っていないし、はたからこの世の常識や教訓と言ったものに反抗して、立ち向かえとも言っていないのです。時には道をそらせて、けれども、諦めるのではなく、主の知恵に立ち返る、御言葉を宣べ伝え続けよと言われます。最後まで耐え忍ぶとはそういうことです。城を枕にして討ち死にをしろ、それが伝道者の鏡などとは言わないのです。

主イエスはもうひとつ「素直さ」について言われます。鳩は無邪気、平和のシンボルというイメージから、よく聖霊の象徴とされていますが、この素直さというのは混じりけのない純粋さということを現している言葉です。さきほど、7章24節で「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は」と聞きましたが、賢いものはこの御言葉を聞く、自分の思いや、この世の良識と混じることなく、一心に聞く姿勢が求められています。ですから、ここで言われている「素直さ」とは、何でも感でも受け入れる純朴さということではありません。むしろ、混じり気のありそうなものを拒絶する態度でもありますから、決して生易しいという言葉ではないのです。また、「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」というこの神様の霊を受け入れる素直さであります。霊が語る真理、すなわち主の御心です。話すのはあなたがたではない、あなたがたの良識や、合理的に納得の行くことを語るのではないということです。真に私たちに驚きをもたらす神の福音が語られるのです。私たちの思いもよらぬ神様の御心、神の義の中にこそ、福音は啓示されているとパウロが申しますように、私たちはこの愛の御心をただ恵みとして受け入れるということ、その素直さが主イエスの言われていることなのです。

ですから、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」狼の群れの中で、羊はそう生きよと言われる。この実践的な知恵に生き、純真な素直さに生きるということにおいて、遣わされるものは、羊飼いに導かれる羊なのです。御言葉を土台とする知恵であり、素直さだからです。

狼の群れの中にあって、すなわちこの世の荒波の中にあって、私たちは何を持ち得ているのでしょうか。狼のような鋭い牙、そのように対抗できるものを持っているかもしれません。弱い狼もたくさんいることでしょう。打ち負かすことはできるかもしれない。しかし、絶対に打ち負かすことができない狼の勢力があります。それは「死」です。死の勢力の前に、私たちは無力なのです。誰しもが必ず向ける終焉の力です。それは今も変わらぬ力としか言いようがないでしょう。この死から来る、悲しみ、苦しみ、痛み、また怒り、憎しみ。これらの勢力の前に、なすすべもない、その現実を垣間見るのは狼の群れというこの世の中においてです。

けれど、主ご自身がこの狼の群れというこの世の只中に来られたのです。弟子たちも、私たちも狼であったし、またいつでも狼になり得るのです。しかし、主はこの狼の群れを裁くためではなく、救うために来られたということです。究極的には死を滅ぼすためにです。主イエスの十字架と復活において、それは実現しました。ヨハネ福音書の告別説教の中で、主イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」主イエスは狼の群れというこの世に勝って、私たちを導くのです。だから、尚私たちはたじろぐ必要がない、絶望することはないのです。この方が狼の群れのど真ん中にあって、私たちと共におられるからです。蛇のように賢く、鳩のように素直に生きていく。その歩みの土台となるのが、このお方、世の勝利者であるキリストなのです。蛇のように賢く、鳩のように素直に、そうそれはこのキリストに繋がるということ、このキリストから与えられる命に生かされることなのです。

昨年の4月、NRKの全国伝道フォーラムが代々木オリンピックセンターで行われましたが、そのテーマは「ルーテル教会ってどんな味」というものでした。講演に招かれたのは、東京御茶ノ水女子大学の先生である江口再起先生というお方で、ルーテル学院、神学校でも教えておられる、ルターの研究者です。講演の中で、江口先生が「ルーテル教会というのはおおらかだね」と言われた言葉が今でも非常に印象に残っています。もちろん、このおおらかさというのがルーテル教会だけに限られたものではありませんが、これはまさに、狼の群れの中にあって、羊のように信仰生活を歩んでいく私たちの姿に当てはまるのではないでしょうか。このおおらかさ、それはこの世にあって、どのような境遇にあろうとも、恐れることはなく、堂々と歩めばいいということ。信仰者だからと言って、この世の常識に振り回れることなく、隣人と共に生きていくということ。それは全く怖いものがないからという自信からくるものではありません。臆病な羊には変わりようがないのです。けれど、そんな私たちであっても、びくつくことはない、この世に勝利したもうたキリストが共におられると、弟子たちに、そして私たちに約束してくださったからです。おおらかさの根拠とはまさにそこにあります。

蛇のように賢く、鳩のように素直に。それはこのようなおおらかさにも垣間見える歩みであります。強がるわけでもなく、びくつくわけでもない。今を精一杯生きていくということ、迫害されたら逃げればいい、玉砕なんかするな。でも御言葉を帯びて、前進していくということだけは忘れないでほしい。そして、私たちには真に帰る場所があるのです。新しい一週間、狼の群れの中に入っていく、尚厳しい現実の歩みが待っています。けれど、蛇のように賢く、鳩のように素直に。何か特別な生き方が求められているわけではない、むしろ人々から好意をもたれたい一心で、特別な生き方をしたいという煩いから解放されて、狼の群れの中で、隣人と共に歩んでいく。背伸びをして無理するのではなく、おおらかに、ありのままの私として、接していけばよいのです。主は弟子たちに何も持たせずに、遣わしていったからです。ただ主が愛してくださる器として、私たちの存在は良しとされています。この愛の福音に生かされてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。