2011年4月3日 四旬節第4主日 「ユダヤ会堂からの追放」

ヨハネによる福音書9章13〜25節
説教:高野 公雄 牧師

人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

ヨハネによる福音書9章13〜25節

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

体の具合が悪くなると、お腹を冷やしてしまったからかなとか、夜更かししすぎたからかななどと、思い当たる原因を考えて、対処の仕方を考えるのではないでしょうか。体の不調の原因は、自分が罪を犯したためとまでは考えないにしても、自分の不注意とか不摂生のせいだと反省することしばしばです。

障がい者に対しても同じような考え方をすることが多いと思います。わたしの経験ですが、生まれつき目の不自由な人が教会に訪ねてきました。わたしが彼女にまず尋ねたのは、目が悪いのは小さいときからなのかとか、いまどの程度目が効いているのか、というようなことでした。彼女は、わたしの問いに誠実に答えてくれたのですが、わたしの質問は彼女にとって何の意味があったでしょうか。

二千年前のイエスさまの弟子たちにも同じようなことが起こったことが聖書に述べられています。

≪さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」≫

目の見えないこの男は物乞いをするしかありませんでした。そんな社会の片隅に追いやられている人に、イエスさまは目を向けられます。弟子たちは彼の目が見えないのは「生まれつき」だと知っていたということは、すでに何度かこの男の前を通っていて、彼の噂を聞いていたのかもしれません。しかし、素通りしたのではこの人の人生はなにも変わりません。イエスさまが目を留め近づかれたということが、一切の始まりです。イエスさまは弟子たちに答えます。

≪「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」≫

福島県に住む人々は津波と原発事故で苦しい状況に置かれただけでなく、放射線の影響についての誤った風評による被害にも遭っています。二重の痛みを負うことになり、本当に気の毒です。この男の場合も、生まれながらに目が見えないだけでなく、それは本人の罪のためだ、いや親の罪のためだと論じられることで、さらなる痛みを負わされていたのです。イエスさまはこの負の連鎖をきっぱりと断ち切ります。これは本人のせいでも親のせいでもない。ひとごとのように因果応報を論じる、そんなことはこの人にとって何の役に立つと言うのか。むしろ、神さまがこれからこの人をどう恵まれるか、どう導かれるかということに目を向けようではないか。こうイエスさまは諭されます。これはすでにこの人にとって望外の福音であったに違いありません。

わたしが出会った目の不自由な人の場合を思い起こします。彼女が求めていたのは、人生の指針であり、人生の支えです。彼女は先に光が見えない、出口が分からない、暗いトンネルの中にいるような心境で、明かりとなってくれるキリストを求めていたのでしょう。彼女は当時、大学3年生で、大人として生きるために道を求めていたのだと思います。実は、わたしも大学生になって初めて教会を尋ねたのですが、社会人として、大人として生きるために、自分の生き方の芯となるものとしてキリスト教を学ぼうとしたのでした。五里霧中の状態で自分がどう生きるべきかを探し求めていました。それはまさに、生まれつき目の見えない人が、物乞いをしている状態だったと言えます。

聖書の中のこの人は、イエスさまと出会って、視力を回復させてもらいました。しかし、神のみ業は、この奇跡的な癒しに限られません。むしろ、聖書がわたしたちに語るところによれば、彼の心眼が開かれたことの方が重要です。

四旬節は、もともと復活祭に洗礼を受ける志願者が信仰を告白する準備のときでした。今日の福音、ヨハネ9章もこの時期に読まれる伝統的な個所です。生まれつき目の見えない人がイエスさまと出会い、闇から光へと移される、闇から光へと生まれ変わる物語です。

聖書の表現では、目が見えないこと、耳が聞こえないことは、神を知らずに、または神を信じずに生きていることのたとえです。聖書は、その状態を「罪」と言い表しています。イエスさまを世の光として認めることができない状態です。しかし、イエスさまは自らその盲人に近づき、彼の目を開かれます。自分を照らす世の光としてイエスさまを知ること、それが救いであり、新しい命を生きることであります。

ですから、盲人が見えるようになることは、聖書の表現では、神のみ業が現われたことであり、世の救い主が現われたことであり、イエスさまこそまことの救い主であることを指示しているのです。イエスさまのみ言葉≪シロアムに行って洗いなさい≫は、イエスさまを救い主と信じて洗礼を受けなさい、新しく生まれ変わりなさいという福音的な勧めに他なりません。

自分が目の見えないこと、耳の聞こえないことを認めて、門をたたく者、求める者には、必ず門が開かれ、探すものが見つかります。しかし、見えると言い張る者は、実は見るべきものを見てはおらず、闇に留っていて、それが闇であることを知りません。

さらに、聖書は、イエスさまを自分の目を開いてくださった方と知った男は、ユダヤ教の会堂から追放されることをも辞さず、イエスさまをメシア、キリストであると告白したと語ります。

≪ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。≫

このことは、少し説明を要します。イエスさまの在世中には、キリスト教徒という概念はありませんでしたし、キリスト教徒をユダヤ人社会から追放するという決定もありませんでした。ヨハネ先生は福音書を、ただ過去の出来事を歴史として書いたのではなく、自分の教会の信者たちの直面している状況に合わせて書いています。ヨハネ先生が福音書を書いたのは一世紀の末だと考えられていますが、その当時には、キリスト教はユダヤ教の一派とは認めらなくなり、クリスチャンはユダヤ教の会堂から締め出され、破門されるようになっていたのです。ヨハネ先生は自分の教会に集う者に向かって、イエスさまは信じる者を必ず守ってくださるから、追放されることを恐れずに信ぜよ、と教えているのです。

ところで、今日の日本社会でキリストを信じて生きることもまた、容易なことではありません。世俗的、実利的なものの見方、考え方が行きわたり、神を仰ぎ見るわたしたちは昔の人か異星人のような異質の存在となっています。また、地鎮祭や法事との付き合いも欠かせないのが悩ましいところです。そんな中でも、キリスト者として気骨をもって生きよ、もう一度その覚悟を固めよ、とイエスさまはわたしたちに呼びかけています。イエスさま自身、わたしたちの救いのために罪人としてユダヤ教指導者によって棄てられました。イエスさまを信じ従うわたしたちもまた、イエスさまと同様の道を歩み、苦難をとおって栄光へと至るのです。しかし、わたしたちはこの点において、あまりに不徹底であると思います。わたしたちはかつては闇の中に住んでいましたが、いまは主の恵みを知り、命の光の中に生かされています。この幸いを喜び、イエスさまと出会った盲人のように、決然と、心の底から主に感謝し、主を賛美しましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン