2014年7月6日 聖霊降臨後第4主日 「神の収穫に生きよ」

マタイによる福音書9章35~10章15節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日の説教題を「神の収穫に生きよ」と変更して、御言葉の取りつぎをさせていただきます。

「収穫は多いが、働き手が少ない。」(9:37)今日の福音で主イエスはこのように言っております。収穫、それは農業における刈り入れを意味します。その収穫が多いと聞けば、田畑一面が黄金色に輝く麦の穂でびっしりと埋め尽くされている豊作の光景を思い浮かべます。豊作を目の当たりにして、喜びと驚きの声をあげている農夫の姿が垣間見えてまいります。

今日の説教を考える上で、私自身が一番困ったことは、どうもこの収穫の多さ、豊作という生の感覚が伝わってこないことでした。農業とは無縁の世界で生きてきた私にとっては、頭の中では、その豊かな豊作の実りが、人々の生活を豊かにする恵みであると想像できるのですが、どうもその豊かさが生で感じられない、リアリティーを感じることができないのです。

しかし、私が言いたいことは、そういう目に見える自分の体験話ではありません。この収穫の豊かさにリアリティーを感じないというのは、単に農業生活と縁がなかったからというのではなくて、今聖書が伝えている、主イエスが私たちに言われておられますこの収穫とは何であるのか、何を顕しているのかということについて、問うているということです。確かにそれは文字通りの豊作を現しますが、そこには働き人が少ないとも言われています。刈り入れる人が少ない、人手が足りないのです。

この言葉は、よく献身者を募る時に用いられる聖句と目にかかることがあるかと思います。働き人は少ない。そう、牧師、神学生の数が足りない。教会の数に対して圧倒的に足りない。だから、各教会から、献身者が出るように、励んでください、お祈りくださいと言う。どうも「働き人は少ない」という言葉に納得して、「収穫」という言葉が後に来ているように感じます。そこには現状だけに目を囚われて、収穫という豊作を感じられなくなっている教会の課題があるのかも知れません。その要因としては、献身者の減少ということも言えますが、教会の勢生が伸びず、礼拝出席者、献金額の減少ばかりが目に見えてしまい、どこが収穫なのか、豊作に見えるのかと言った具合に、私たちの目を遮るのです。

今日の福音でありますマタイによる福音書9章35~10章15節には、主イエスの伝道活動と、12使徒の選出、そして12使徒の派遣ということが記されているように、一貫して「宣教」、「伝道」ということがテーマとして述べられています。今、この六本木教会でも、伝道について、そのあり方について真剣に話し合っています。伝道の模範解答がどこにあるかと言えば、聖書の御言葉以外にないのですが、この御言葉を受け止める私たちの姿勢が求められているのです。

冒頭の35節で、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とありますように、この主イエスの働きこそが、そのまま私たちの教会に委ねられていると言って良いでしょう。そして、この御言葉は、主イエスがガリラヤで伝道を開始した時にも言われています。主イエスは伝道を始めるに当たって、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)と言われました。マルコ福音書では、1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われています。天の国、神の国は近づいた、もうそこまで来ている、この国に招かれているのだから、悔い改めなさい、すなわち神様の方に方向転換しなさいと、主イエスは言われたのです。

主イエスは、ご自身を訪ね求めてきた群衆に対して「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9:36)というまなざしを向けられました。飼い主のいない羊というのは、率直に言って死を意味します。羊は飼い主、言わば羊飼いがいないと生きてはいけない、狼に食べられて死んでしまうということが聖書では言われていますが、群衆はそのような状態にあると言われるのです。ですから、悔い改める、それはこの真の命の飼い主の下に立ち返ることを意味しているのです。

「弱り果て、打ちひしがれている」人とはどういう人でしょうか。この時代の人々と現代の私たちの状況を単純に比べることはできませんが、現代の日本における弱り果て、打ちひしがれている人というのを、それなりに私たちの身近に感じることはあります。生きていくことは真に辛いことだからです。

飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている私たち。人には言えないような苦しみ、悲しみ、痛みといった闇を一人一人が抱えて生きています。決して人前では見せない闇であり、見せられないもの、そういう自身の恥や弱さといったものを隠さなくてはならない。そんな自分の姿は自分自身にしかわからないのかもしれません。人には決してわかってもらえない、受け入れてもらえない、だからそういう負の自分を隠さなくてはならない。隠しつつも、しかし、自身の心の底はどこか揺さぶられている、落ち着きがなく、何かに圧迫されているような不安を見出すものです。

主はそんな私たちを、憐れみの眼差しで見つめておられます。私たちの闇を見透かす光の眼差しです。また、飼い主のいない羊のように、あたかも死の闇の只中にある者たちに向けられる命の眼差しです。それが主の「憐れみ」でありますが、「憐れむ」この言葉は良きサマリア人のお話や、放蕩息子の例え話と言った有名な聖書の物語の中にも出てくる言葉です。これは人間の同情や憐れみ、言わば見下ろす、見下すというニュアンスの意味をもつ言葉ではありません。この言葉の原語は、「はらわたが痛む」という意味です。すなわち「内蔵が痛む」ということです。主イエスは「はらわたが痛む」ように、痛まれた、痛みを覚えたというのです。それは飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれ、痛みの只中にある私たちのところに来てくださったということです。主イエスのまなざし、神のまなざしは常に私たちの痛みを知っていることでしょうし、見ておられることでしょう。しかし、主は傍観者に留まり得ることは出来なかった、この私たちの痛みに対して、いてもたってもいられないほどに、主の御心が突き動かされたのです。その御心は、私たちのこの痛みの只中にこそ、ご自身の愛する御子をお遣わしになられた。マリアの胎を通して、私たちの痛みの只中に御子が生まれ給うたのであります。

主イエスの宣教は、福音を伝えるということは、まさにこの憐れみから来ている、憐れみから始まったのです。飼い主のいない羊を救うために、神様の愛のわざを行って回る、その憐れみの生涯、憐れみに始まった生涯に尽きるのです。この主イエスの憐れみは、やがて十字架に帰結致します。自らが十字架という究極の痛みを負われ、その命、痛みの代価として、私たちへの赦し、とりなしの祈りを、十字架上でなされたのです。

飼い主のいない羊を憐れまれた主イエスは、弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37―38)と言われました。収穫、刈り入れの時がやってきたのです。これは、主イエスが福音宣教開始の時に言われた、「天の国が近づいた」というその時と重なります。神様のご支配がやってきたということです。ですから、その天の国、神の国の福音宣教という畑の収穫ということがここで言われているのです。何をもってしての収穫、豊作なのか、それは目に見える実り、今垣間見える良き結果ということではなく、この収穫をもたらすのは、収穫の主である神様であるということ、それは憐れみの御心から来ているのです。飼い主のいない羊、それは本来なら、そのまま刈り取られて、火に投げ込まれてしまう境遇にある者かも知れません。良い実りをもたらさないものであれば、そこに生かしておいてもしょうがないのです。しかし、主イエスは、収穫の主は、そうはなさらない。火に投げ込んで、滅ぼすようなことはなさらないのです。

今や、私たちはこの収穫の時を生きているのです。既に収穫がもたらされている。主の憐れみによって、命をとして与えてくださった憐れみの収穫にあって、働き人が少ないのです。それは教会の現状に限られたことではなく、あのパウロの世界宣教に見られるように、地の果てに至るまで、すなわち全世界という規模、この収穫の畑において、働き人が圧倒的に少ないのです。その収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさいと主イエスは言われました。祈りなさいと言うのです。私たちの伝道も祈りから始まるように、その働き手をも願いなさい、祈りさないと言われるのです。

主はその最初の働き人を、12使徒という形で12人を選びました。ペトロを始めとするこの12人は、飼い主のいない羊のような群集とは違った者たちであるとは決して言えません。ペトロは漁師で、最後には主イエスの十字架に従うことができず逃げてしまいますし、トマスは疑い深いと言われますし、徴税人のマタイ、ローマ帝国に反発して、暴力行為に尽きない熱心党のシモン、挙句には、主イエスを裏切るイスカリオテのユダと言った人たちです。

そして主イエスは、彼らを派遣する際に、何も持っていくな、旅支度をするなと言われました。荒涼とした大地での旅路に、旅支度はするなというのは無茶な話だ、非常識だと私たちは思います。しかし、彼らの姿を通して、伝道とはそのように何も持ち得ないということ、この真実を語っています。主によってなされる宣教、伝道の業とは、主の憐れみを届ける、伝えるということに他なりません。主の憐れみを届ける彼ら自身が、本来何ももっていないからです。神様のみ前にあっては、自分自身の魅力、価値観のある物などはないのです。全くもってして何も持ち得ていない。弱り果て、打ちひしがれている群衆と変わりないのです。彼らが何か救われる条件を満たしたから、弟子となったわけではなく、ただ主の憐れみによって、彼らが立ち起こされていったということです。彼らが、また私たちが自身の痛みに押しつぶされたのではなく、また完全に取り去られたのでもない。この自分の痛みと共に生きておられる主が共におられる、それが伝道、宣教において、主の憐れみに生き、この憐れみを届ける者たちの歩みなのです。

伝道の困難さが叫ばれる時代に私たちは生きています。しかし、主のまなざしは飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている私たちを捕らえています。私たちは、自分自身の正しさ、世間的な価値観、正しさに立とうとする反面、憐れみに欠けた正しさが、時に自分を、他者を追い込み、痛みを覚えます。主はその只中に、人間たちの正義と正義がぶつかるその只中に、御子イエスを通して、憐れみをお与えになったのです。

主の憐れみによって、収穫がもたらされました。私たちはこの収穫の只中に生きていることを実感したい。その収穫の実り、憐れみの豊かさは、もはや私たちが、私たち自身では何も持ち得ていない器であるということ、そこに立たされているところにあるのです。私たちはこの収穫の喜びの中にあって、主の憐れみを信じて生きる自分自身をありのままにさらけだし、恐れることなく、新たな一歩を踏み出せば良いのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。