2011年5月22日 復活後第4主日 「道 真理 命」

ヨハネによる福音書14章1〜14節
説教:高野 公雄 牧師

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

ヨハネによる福音書14章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音書は、イエスさまが弟子たちに語りかけた励ましの言葉《心を騒がせるな》で始まります。イエスさまは最後の晩餐が済みますと、弟子たちに別れを告げる説教を始めます。その説教でイエスさまは、いよいよ最後の時が来たことを告げます。そして、《わたしが行く所にあなたたちは来ることができない》(13章33)と言い、ユダヤの裏切りとペトロの離反を予告します。当然のこと、弟子たちは動揺したことでしょう。そこでイエスさまは《心を騒がせるな》と語りかけます。心を乱してはいけない、という倫理的な話ではありません。心の乱れを、わたしがこれから話す言葉によって克服しなさいという励ましです。

しかし、その励ましが必要なのは、二千年前の弟子たちに限りません。現代人はみな不安のうちに生活しています。いまほど精神科医が、心理カウンセラーが必要とされている時代はありません。現代人は自分たちがどこから来てどこへ行くのか分からなくなっています。いわば「ふるさと」を失ってしまったのです。それで、本人が自覚すると否とにかかわりなく、現代人はみな不安なのです。イエスさまはそんな私たちに対しても語りかけます。《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある》と。ここで《父の家》とか《住む所》と言われているのが、私たちの「ふるさと」、「人がそこから来て、そこへ帰る」所です。私たちの「ふるさと」は、イエスさまの示された父なる神のみ許にあるのです。

しかし、トマスには、そのことがまだ明白ではないと感じられました。《主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか》と問いかけます。この問い《主よ、どこへ行かれるのですか》は、ペトロもまたすでに13章36で訊いています。なるほど、目的地が分からなければ、そこにゆく道を知ることはできません。この質問は、はからずもイエスさまから偉大な言葉を引き出すことになりました。《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。つまり、イエスさま自身がわたしは道であり、真理であり、命であるというのです。イエスさまの道は、十字架と復活の道です。十字架は、《あなたがたのために場所を用意しに行く》歩みであり、復活は、《行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える》歩みです。《こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる》のです。

イエスさまに従ってこの道を歩むのが、イエスさまの弟子の人生です。イエスさまの後に従って歩む道とは、13章34によれば、《わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》ということであり、マルコ8章34によれば、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》、つまり己が苦しみを十字架とみなして、イエスに従うということなのです。

《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。この言葉は日本人には評判が悪いです。日本人のもつ宗教意識は一般に、「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という古い道歌が言うように、宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるというもののようです。ところがキリスト教は、正しい道を歩まなければ、目的地に行き着くことはできないと言います。そしてヨハネ福音書はここで、イエスさまこそが正しい道であり、イエスさまによらなければ、だれも父のもとに行くことができない、目的地に行かれないと主張します。イエスさまを知ることは、神を知ることです。これこそが、キリスト教をキリスト教たらしめる基本原則です。この原則を最初にはっきりと書き記したのがヨハネです。これがキリスト教をユダヤ教から独立させた決定的なポイントです。

《あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。》

私たちがそこから来てそこへ帰るそのところ、すなわち神のみ許を知っていさえすれば、神を信じることができさえすれば、不安な心も落ち着くことができるでしょう。でも、現代人である私たちはもはや神を信じることができず、ふるさとを失い、不安から逃れられずにいるのです。8節で弟子のフィリポは言います。《主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます》と。これは私たちみんなの心にある望みでもあるのではないでしょうか。神が見えさえすれば、信じることができるのに、人はその神を見ることができないのです。

イエスさまの答えはこうです。《フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ》。すなわち、私たちは肉眼で神を見ることはできないけれども、地上を歩まれたイエスさまの言葉と業をとおして、私たちひとりひとりに対する父なる神のみ心、愛を知ることができる。私たちはイエスさまを介して霊の目でもって神を見ることができるのです。それなのに、私たちはなんとしばしば神を見失い、神を疑うことでしょう。わたしたちは繰り返し繰り返し《こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか》というイエスさまの悲しみを帯びた慈しみの声を聞き、《わたしを見た者は、父を見たのだ》という諭しの言葉を聞かなければならないのです。多くの神々がいるのか、または神などという存在はいないのか、私たちには分かりません。しかし、私たちはイエスさまの言葉と業のうちに、私たちを赦し、愛する神のみ心を知ったがゆえに、神を信じるのです。その他に子細はありません。

ヨハネはすでにこのことを、福音書の冒頭に言っていたます。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》(1章14)。また《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》(1章18)。

使徒言行録11章26に《このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである》とありますが、キリスト者(クリスチャン)という呼び名は、もと「キリストかぶれ、キリスト狂い、キリスト馬鹿」というような蔑称だったと思われます。確かに、キリスト者は、キリストの心を自分の心として生きる者であります。私たちはキリストのことしか知りません。キリスト馬鹿つまりクリスチャンという呼び名を喜んで受け入れようではありませんか。そして、私たちは、日々、イエス・キリストとの生き生きとした交わりをもち、イエス・キリストと共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン