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2009年4月10日 受苦日礼拝 「夕方になると ~命の始まり~」

マタイ福音書27章57~61節

 
説教  「夕方になると ~命の始まり~」  大和 淳 師
夕方になって、ヨセフという名の裕福な人が、アリマタヤから来た.彼自身も、イエスの弟子となっていた。
この人はピラトの所に来て、イエスの体を引き渡してくれるように求めた。そこでピラトは、それを彼に渡すように命じた。
ヨセフはその体を取って、きれいな細糸の亜麻布に包んだ。
彼はそれを、岩の中に掘った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がして、立ち去った。
マグダラのマリヤともう一人のマリヤは、そこにいて、墓のほうを向いて座っていた。
  主イエスが十字架につけられて処刑されたのは金曜日、午後3時頃のことと伝えられています。ユダヤ人の一日の数え方は、現在でもそうですが、夕方の日没から始まって翌日の日没までを一日と数えますので、ユダヤの人々の安息日、それは土曜日ですが、イエスが十字架で息を引き取った金曜日の日没から始まるわけです。

 そして、その安息日には一切の労働が厳しく禁じられていますので、死体を清め、埋葬するといった作業は当然、日が沈むまでの残されたわずかな時間で早急に事を運ばなくてはなりませんでした。福音書が「夕方になると」(57節)と記しているのは、もう残る時間がごくわずかになったので、何とか急がなくてはならない、そうした差し迫った状況であったことを物語っています。

 また当時のローマの法律によれば、処刑された死刑囚の遺体は親族が自費で引き取って埋葬することになっていたのですが、引取人がいない場合には、そのまま放置され、野犬や烏などが喰い散らすままにされたそうです。それから言えば、イエスの場合、遺体を引き取ろうにも、イエスの身内、母マリアはそもそもガリラヤの住人でしたし、貧しい彼女がエルサレムに墓をもっているわけがありません。頼りの男の弟子たちは既に逃げ去ってしまっていました。つまり、時間的にも物理的にも主イエスの葬りはあり得ない、不可能な事態であったのです。

 しかし、その時、そのような緊急な状況のなかに登場して重要な役割を果たしたのが、これまで一度も福音書に登場してこなかったこのアリマタヤ出身のヨセフという人です。このヨセフは、わざわざ「金持ち」(27:57)であったと紹介されていますから、エルサレムに墓をもっていておかしくない人物だったのです。

 またこのヨセフについて、マタイはそこで「この人もイエスの弟子であった」(27:57)と紹介していますが、ヨハネ福音書は更に彼が「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していた」(19:38)と記しています。つまり、それに従えば、イエスの埋葬といういわば緊急事態になって、彼は自分がイエスの弟子であることが公になってもよいと決断し、「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」ということでしょう。しかし、十字架で処刑された人の遺体を引き取ろうとすることには、そう簡単なことではないはずです。マルコ福音書はそこで「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」(15:43)と、「勇気を出して」と記しています。犯罪人として処刑されたイエスの遺体を引き取って埋葬しようとする、しかも彼はイエスの身内でもないのですから、それによって当局や自分の周りの人々からどんな目で見られことになるか。ましてや、大変な有力者であったアリマタヤのヨセフです。彼は金持ちで、またマルコやルカによれば議員、すなわちイエスに敵対したユダヤの最高法院の一員であったからこそ、なおさら関わりあいになることは勇気のいることであったでしょう。それにもかかわらず、たとえ、どんなにか不利な事になったとしても、ヨセフは、ピラトのもとに出頭して、遺体の引き渡しを願い出たと言うのです。イエスの埋葬は、このヨセフという一人の人のそのような信仰告日の行為によって行われた、全く彼なしにはできなかった、そのことを思うわけです。

 そうして、「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。」ここでも、わたしたちは細やかに聖書が語っていることに注意しましょう。彼は亜麻布を買ってきたというのです。つまり、あらかじめ用意していたというのではなかった。つまり、彼の決心は、全く、このイエスの十字架以前にはなかったのです。まさに、このキリストの十字架、イエスの死によって彼が変化したことであることを聖書は告げているのです。ヨセフの信仰は十字架によって始まったのです。恐らく、ヨセフはイエスの遺体の引取りを願い出た後、もう閉まりかけていた商店に大急ぎで走って行き、亜麻布を買ってきたのでしょう。そうして急いで人を雇い、イエスの遺体を自分の墓に運び、亜麻布を巻き・・・、それら一つひとつの作業をしながら、ヨセフは何を思っていたのでしょうか。恐らく何も考える余裕もなかったかも知れません。ただ日没までに葬りを済ませる、そのとき、それだけが念頭にあったでしょう。そうして、「岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。」(27:60)彼は、それで役目を終えたかのように立ち去ったのです。もはや、何もなし得ないかのように。

 しかし、それで全てが終わったのではなかった。十字架がヨセフの新しい人生の始まりとなっているからです。もちろん、ヨセフはまだそのことを知りません。そのとき、そこにいた人間は誰も知りません。むしろ、彼らは、これで全てが終わった、終わってしまった、そう思っていたことでしょう。ある者は深い悲しみの中で、ある者は絶望の中で、このヨセフが「立ち去った」のも、もしかしたら、イエスを葬った満足感ではなく、何故、もっと早くこの方の手助けをしなかったのだろう、財を持ち、議員である自分のできることがもっとあったのに、そう自責の念にかられていたかも知れません。ましてや、この彼の行動はこれまでの人生の全てを失うようなことなのです。彼は自分の人生が無駄であったかのようにそこを立ち去ったのかも知れません。しかし、神の望み給うこと、なさることはそうではなかったのです。そして、それゆえ、全てが終わったのではありません。

 ともかく、マタイに限らず、どの福音書も死刑囚として十字架につけられて処刑されたイエスが、時間がなかったにもかかわらず、そのまま放置されず、墓に葬られたことをこのように丹念に語っているのですが、それは実に全く大変なことが既に密かに起きていることを物語っているのです。

 何より十字架、その死、それは、主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、全く人からも、そして神からも見捨てられた死であったのです。それ故、その遺体もそのまま放置されても決しておかしくはないし、むしろ、そのとき誰もが当然そうなるものと思っていたことでしょう。しかし、全く予期しないアリマタヤのヨセフという人があらわれ、おおよそ囚人の死には相応しくないような葬りが行われたのです。その日、神はイエスをお見捨てになったと誰もが思ったはずです。イエスが息を引き取ったとき、もう何もかも終わった、イエスの死を遠くから見守っていた女性たちも悲しみの中でそう思っていたはずです。しかし、全てが終わり、一切が無意味になったかのように思えたそのとき、既に何かが始まっているのです。

 そして、ここでもうひとつ奇妙と言えばこれも奇妙なことと言わなければならないのは、このイエスの墓の葬りが、何故、金持ちの墓なのか、ということです。およそ、ベツレヘムの貧しい馬小屋で生まれ、貧しい人、虐げられた人々と共に生きたこの方が、しかし、最後は金持ちの墓に、しかも、このような葬りをもって葬られた、ということです。

  実はイザヤ53章の苦難の僕の歌、その9節には次のように記されています。「彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた」。イエスが、マタイがまた特にアリマタヤのヨセフを「金持ち」と紹介しているのは、まさしくこのイザヤ書53章9節の「富める者と共に葬られた」という主の僕の預言が実現したと聖書は見ている、告げているのです。見捨てられたイエスが、金持ちの墓に葬られたことは、既にイザヤが預言したこと、すなわち、神のご計画、苦難の僕の栄光が始まっていることを、わたしたちに語り始めているのです。主の復活の序曲がもうかすかに、しかし、確かな響きをもって奏で始めているのです。ヨセフは、まだそのことを知りません。いえ、そこにいた誰も決して知らなかったのです。しかし、彼のしたことは、彼の予想を超えて、神のご計画の中にあったのです。

  そうして「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と、この福音書は、こうしてキリストの受難、十字架の出来事を記し終えるのですが、「イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」この女性たち、マグダラのマリアとヨセの母マリアたちは、やがて三日目の朝、すなわち、わたしたちの日曜の朝、キリストの復活の証人となるのです。

  今、眼に見えること、わたしたちがただ思うことを超えて、わたしたちを包む闇がどんなに深くても、神は働いておられるのです。このヨセフがそうであったように、また、わたしたちも、まず第一にどんな深い絶望の中でも、このキリストの十字架を仰ぐことです。この十字架を、わたしのための十字架として、常に心に抱いていくことです。パウロは言います、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:13)。今夜、わたしたちは、このヨセフと同様、このわたしたちにも既に神の救いのドラマが始まっている、そのことをしっかりと胸に抱いて、イースターに向かって歩んでいきましょう。

2001年1月7日 顕現主日 「神様の愛することは、細かく考えることです」

第1日課   イザヤ書60:1-6

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは指し出でたるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すが良い。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ、国々の富みはあなたのもとに集まる。らくだの大群、ミディアンとエファの若いラクダがあなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

第2日課   エフェソ人への手紙3:1-12

あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなた方は聞いたにちがいありません。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富みについて、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に解き明かしています。こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信を持って、大胆に神に近づくことができます。

福音書   マタイによる福音書2:1-12

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に留まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリヤと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れてエジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」

説教  「神様の愛することは、細かく考えることです。」

マタイの福音書の2章、1節から12節までのお言葉でございます。

クリスマスのお話の中の、ラクダに乗って遠い国から博士たちが来たというお話を若い時から関心を持っておりました。今は、占星術の学者と言われておりますが、これは正確にそうであるかもわかりませんが、当時の博士とは何でも知っている人であったようです。いろんな学問をした人でした。最近は専門の一つをちゃんと勉強をしている人と知られていますが、この場合、昔風の博士とわたしは考えたいのです。また、博士が何人イエス様のところへ訪ねて来たかは、これも、黄金、乳香、没薬という三つの贈り物があったから、一人一人がそれを持ってきて、三人となっていますが、実際にはもっと大勢だったかも分かりません。あるいはもっと少なかったかも分かりません。これは何人とは聖書には書いてありません。もう一つ、クリスマスの話のところで、馬小屋でみんなが集まっているところに博士たちが来てイエス様を拝んでいる絵が、クリスマスカードに描かれているのをよく見ます。実際に聖書を見ますと、先週の説教で、男の子が生まれたら、四十日後に宮参りをするという習慣があったと話しましたが、イエス様もそのように、エルサレムの神殿に連れて行かれてそこでシメオンとアンナいう熱心な老人の信者と会ったのですね。このように、聖書では、博士がいらした時は、十一節にありますが、「家に入ってみると、幼子が母マリヤと共におられた。」と書いてあります。家と書いてあります。馬小屋ではないのです。ですから、しばらくは宿が無かったから仕方なく馬小屋を借りたのかもわかりません。それもはっきりと馬小屋とは書いて無いのですが、でも、飼い葉桶に寝かされたとありますので、馬小屋にあるものですので、それで、馬小屋であったでしょうとわたしたちは解釈しております。

この話しで、一番わたしたちが関心を持つことは、博士たちが遠い国から来たということです。彼らは当時の学問をよく分かっていて、恐らくユダヤ教ではこのようなことがあるということも知って、救い主の約束も知って。それを信じて、遠い国から来たというように考えてもよろしいと思います。少なくても四十日はかかった。二、三ヶ月はかかったでしょう。昔は飛行機は飛ばしていませんでしたから、そんなに早くどこへでも行けなかったのです。だからラクダに乗ってゆっくりと歩いて、恐らく砂漠も通り越して、エルサレムまで来たのでしょう。ということは、ベツレヘムの東側、ヨルダン川を渡ったらほとんど砂漠です。今でも、サウジアラビヤと言う国がそちらの方にあります。ですからラクダに乗ることは当然でしょう。でもここで大切なことは、わたしたちの関心を持っていることは、「よその国の人」ということです。どうしてあんな遠いところからイエスさまの誕生ということを思いながら、来たのかと言うことです。「よその国の人」とはユダヤ人にとっては、異邦人と言っていたのです。わたしたちの言葉では異邦人とは、ただの外国人を意味しますが、ユダヤでは異邦人と言えば宗教が違うことの意味が大きかったのです。その人たちには救いが無いとユダヤの教徒たちは解釈をしていたのです。仲間になるための特別な儀式も行っていたのです。その中に、洗礼式もあったのです。異邦人。外人。でも、考えてみたらわたしたちもみんな外人ですね。ユダヤ人で無いから、国籍としてはそうではないから、異邦人です。そのわたしたちにこの福音が伝わってきた。このことが一番わたしたちに大切なことでございませんでしょうか。遠い東の国はどこかは良くは分かりませんが、贈り物を見ますとアラビアの方に出来るもので、乳香や没薬は少しはイスラエルの国にも出来ると聞いておりますが、その贈り物によって、どこからいらっしゃったかということは分かりません。ただ、大切なことはそのような高価な贈り物を持ってきて、それをイエス様にささげたと言うことです。彼らはイエス様を救い主と信じて、遠い国からの旅でしたがそこまで来たのです。彼らは当然、国の主都である、そこにいる王様の子供でしょうと思って、ヘロデ王を訪ねて聞くのです。それが大変なことになるのです。ヘロデ王も知らない。調べてもらって、聖書学者を集めてそこで、ミカ書の聖句を引用してベツレヘムだということ、すぐ近くの小さい村ですね。そこに生まれるという預言があるのです。それを博士たちに教えました。でも、その話に当時の人たちは恐怖を持ちました。ヘロデ王がどうするか、と。ヘロデ王は有名人だったのです。自分の子供までも殺すような人でした。自分の愛する妻も殺したのです。彼らに対して疑いを持ったから殺してしまったという恐ろしい人でした。それで、エルサレムの人たちは不安を感じたのです。その通りに、その後、ヘロデはベツレヘムの二歳以下の子供を全部殺したのです。小さい村でしたからそんなに大勢では無かったかも分かりませんが、でも一人一人はその親にとっては大切な子供です。それを殺してしまったのです。何人であったかは、色々の説があるのですが、それほど大変なことになりそうだと、エルサレムの人たちは心配していたのです。神様は博士たちをベツレヘムへ行かせて、ヘロデが教えてくれるように頼んだのですが、その言葉を守るなと神様に教えられて、博士たちは違う道を通って自分たちの国へ帰ったと書いてあります。ヨセフもマリアも神様に知らされて、イエス様を抱いてエジプトへ逃げて行くのです。これは二章の十三節にございます。そのように、神様が細かくわたしたちのことを心配して、助けてくださる。守ってくださると言うことが見えるのです。きょうはその大切な一例です。実際はその後ヘロデ王は死にました。いろんな病気を患っていたようです。死んだ後、また国へ帰ろうと思っていたのです。よその国へ旅をすることは出来るでしょうが。ことに知らない土地へ行って、そこへ住むとしたらお金もかかるでしょう。それもちゃんと神様が準備してくださったのです。博士たちの黄金、乳香、没薬という贈り物で。エジプトでは乳香や没薬は彼らの宗教儀式に、殊に埋葬に使う大切な高価なものでした。彼らの欲しがっていたものでした。エジプトにはそのようなものがなかったので、神様が博士たちに持たせて、ヨセフとマリアに渡して、それを持ってエジプトへ逃げることが出来たのです。これも神様の色々工夫なさったことでした。このように、神様が思いがけないよその国の人をわざわざベツレヘムまで送られて、ベツレヘムでイエス様にお会い出来たことも嬉しいことですが、同時に神様は危険なこともよくご存知で、わたしたちの救い主を守ってくださったことをわたしたちは今日聞かされております。わたしたちは知らず知らず、博士たちと同じように、ヘロデという恐ろしい人があそこにいると知らずにいて、エルサレムをちょっと騒がせたことでしたが、彼らの信じる通りにベツレヘムまでお連れになって、帰り道も守られて、またヨセフとマリアも知らされて、イエスさまを連れてよその国へ行くようにして、そこの滞在の費用もちゃんと用意なさったというように考えられます。そのように神様はわたしたちのことも色々心配してくださるでしょう。時々わたしたちも本当に困っていてどうしょうかと思っている時に思いがけないことが起こってわたしたちが助かるということがたびたびございませんでしょうか。わたくしの一生においてもそういうことがあったとわたくしは思っております。中には全然気がついてないときもあるでしょう。神様がちゃんと心配してくださるのですが、わたしたちは頭がそれほど良くないのですから、気が付いてないところもあって、神様に見守られているとわたしたちはのんきにしているのです。それもあるでしょう。とにかく、神様は細かく、わたしたちのことを考えておられます。今日の話しの中でも、くりかえし。いろんな時、いろんな場所で、いろんな違う人をみ守っておられることが見えるのです。

神様は何時までもわたしたちを生かしてはおられません。良いところを準備しておられるのです。そしてその良いところへわたしたちが行かれるように救い主をこの世に送ってくださった。主イエス様がわたしたちの罪を贖ってくださって、わたしたちの足りないところを全部補って、わたしたちはそのときにならなければ分からないでしょうが、わたしたちも天国にいるのに相応しい者に代えてくださるのです。これがわたしたちの信じている信仰でございます。それで博士の話しも、このように神様のわたしたちに対する大きな愛というものを学びました。新しい年に向かって、大きな希望を持っていますが、よく考えれば、すべてがわたしたちの思うようになるとは考えられません。あるいは突然何かが起こって、わたしたちが困ることもあるでしょう。しかし、神様は全てをご存知であって、わたしたちに助けを考えていてくださることを、わたしたちは信じて良いと思います。だから、本当の喜びを持って、一日一日を生きていきましょう。神様に全てを任せて、わたしたちの出来ることはやっていましょう。