ルカによる福音書 14章23-29節, ローマ人への手紙14章8節
五十嵐 誠 師
ヨハネ14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
ローマ13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安がとがあるように アーメン
このヨハネの言葉を書き残した弟子は普通、使徒ヨハネと言われています。母はサロメで、イエスの母マリアと姉妹といわれるので、イエスのいとこになります。ガリラヤ湖の漁師でしたが、イエスの使徒・弟子になりました。生涯はよく分かりませんが、晩年は小アジアのエフェソの市に住んでたという伝承があります。そして、教会の集会で語る時には「幼子たちよ,互いに愛し合いなさい」と言うのが口ぐせであったと伝えられています。で、愛の使徒」とも言います。ヨハネはひじょうな高齢まで生きていたと言われています。他の弟子たちが殉教していますが、彼だけが地上の生をおくったと言われます。
この言葉を書いたヨハネという弟子はイエスの遺言的な言葉を彼の福音書の13章から書いています。それは「最後の晩餐」の席のことです。十字架に付く前日のことです。18章の一節まで、相当長い話を記録しています。中には印象的な出来事や言葉がたくさんあります。イエスは「心を騒がせるな。おびえるな」と言う言葉を何回も言っていますが、今日読んだ所にもありました。それはイエスを取り巻く騒然たる動きを感じて、弟子たちが動揺し、不安でいるのを見て、弟子たちを励ますために、後のことを思い測って語られたものです。イエスが「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」ために話されたと言っていますようにです。 弟子たちの不安や動揺を静めるために、イエスは二つのことをこの遺言で強調しています。一つは弟子たちが「互いに愛し合うこと」です、二つは「弁護人」の約束です。弁護人とは原語では「助けるために側に立つもの・呼ばれたもの」です。いろいろな状況においても助け,守り,新しい勇気を与える方であることを示しています。で「弁護人」「助ける者」と訳されます。これについては後日します。5月23日の聖霊降臨祭です。
今朝は愛についてですが、「イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」を考えます。私を愛する人は、私に言葉を守る」です。イエスを愛する人は「私の言葉を守る」と言いましたが、私の言葉とは何かです。漠然とした内容ですから、 前後関係から私は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」だと考えます。(13:34)。新しい掟・命令です。そして、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。(ヨハネ13:35)。)
イエスが使う「愛」という単語は特別な意味を持っています。普通は「神の愛」と言います。神の愛とは聖書では「アガペー・ajgaph)というギリシャ語で言い表します。今日の聖書の「愛する」はそれです。それに対向する愛は「人間の愛」になります。それを「フィレア・filiva」と言います。意味は「友情」的な意味です。難しく言うと、ギリシャ語には四つの愛の単語があると言いますが。
私は二つで説明します。人間の愛はどちらからと言えば、お互いに好意を感じるという点にあります。お互いに好きである・好意を感じるから関係が成り立ちます。これを「好意の環流で成り立ちうる愛の関係」と言います。大体私たちはそうです。恋愛なんかいい例です。よく見ると、それは「価値判断」になります。ですから価値がなくなるとか、お互いに好意がなくなると離れることになります。友人とか恋愛中の男女間の破局はこれです。「みそこなった」「そんな人とは思わなかった」などです。
「神の愛」というと、普通、教会では「アガペー」と言います。お聞きになった人もいつと思います。キリスト教的な愛です。私は単なる好きとか好意があるでありません。私は率直に神の愛は「価値判断をしない愛」、「差別をしない愛」と定義をします。「相手のいかなる状態にも左右されない愛」です。神やイエス・キリストはそうでした。「わたしがあなたがたを愛したように」と言いますが、神やイエス・キリストは弟子たちをどのように愛されたのでしょうか。それは、イエスが弟子たちをありのままの姿において、受け入れていたとことを意味しています。イエスの愛が手本であるということです。
で、そのイエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言います。 この愛の掟・戒めは私の経験からも難しいのです。「互いに愛し合う」、つまり他者を愛することです。教会の中でも難しいというと、信者さんでない方は不思議におもうかもですが。紀元2,3世紀のローマの教会は迫害の中で、非キリスト教の哲学者のケルソスは、キリスト教の悪口を沢山言いましたが、渋々ながら告白しました。「見よ、なんとクリスチャンたちが愛し合っていることか」と。私は牧師になった、初めの頃、人つき合いが悪くて、今でもそうですが、教会の婦人から「先生、もう少し、にっことしてください」なんて言われたことありました。現代は人間関係が薄くなりました。私は整形外科に週三回っていますが、先日、電気療法をうけていましたら、おばーチャンが、「昔と違って、最近はつき合いが薄くなり、話をしないね」なんて言っていました。教会もその影響でクリスチャンの交わりも表面的な気がします。
「互いに愛し合う」こと「他者を愛する」ことのために、何をなすべきでしょうか。教会で、あるいは共同体でです。三つほどあります。
1,ドイツ語にアウフヘーベン・Aufhebenと言うのがあります。哲学用語で「止揚」と言います。意味は、二つの対立する概念をより高い概念に発展させることです。「人間の愛」の場合、問題にぶつかったとき、感情ではなく、理性的な行動とってより高い愛に向けて努力するのです。私はこの人のために、どうあるべきかということをするのです。
2,自分の判断、好み、自意識という銃口を他者に向けないことです。自分の価値判断を押しつけるのです。その銃口を人に向ける前に、自分に問うて見る必要があります。私はこの人を愛し、助けようとしているのか、私はこの人を現在あるがままの状態で、尊重し、愛しているのかです。これは神が自分を・・あるがままの自分を・・愛して、うけいれくださったあことを思い起こす時、決して難しくないはずです。
3,旧約聖書に、また、イエスにも「隣人を自分のように愛しなさい」とい言葉があります。神を愛することと並んで大事な言葉です。「自分のように」とは、文字通りには「自分自身のように」です。他の人を愛するには、まず、自分自身を愛さなければならないのです。正しい意味での自己愛です。自分自身を愛せない者が、どうして他者を愛せるかです。悪い自己愛は他の人を犠牲にしてもかまわないのです。自分自身を愛するとは何か。それは自分を大事にする程の真剣さ切実さで愛しなさいの意味でしょう。また、ある先生は、それは自分自身をあるがままの姿で受け入れることだと言いました。自分自身をあるがままに受け入れるとき、他の人をありのままの姿で受け入れられるのだと。そう思います。
私たち信仰者は、神が私たちに・・この私に・・目を留めて愛してくださったことを、イエス・キリストの中に見いだし者です。イエスの十字架の愛が、私たちを動かして、愛に向かわせるのです。
ところで、皆さんはどんなローンを持っていますか。家のローン、車のローン、学費のローンなどあります。聖書は唯一の借金があると言います。パウロのローマ信徒への手紙の中でこう言います。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」。(13:8)。ある英語の訳は意訳していいます。「借りがあれば、全部返しなさい。 ただし、他の人を愛するという・互いに愛し合うという「借り」だけは別です。 その「借り」だけは、いつまでも返し続けなさい」。
「愛は借金である」です。これを聞いてどんな感じを持ちますか。いい感じがしないと思う人もいます。解釈は2,3ありますが、私は「隣人を自分のように愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい」の愛は完済したときの「やったー、借金完済したぞ・0になった」という喝采の声をあげてはいけないと言うことです。英語の現代訳には「LOVE IS? ETERNAL」・「愛は永遠である」とありますが、「Debt・owe of Love? is Eternal」です。この心は私たちを謙遜な者にします。
愛の説教をしますと、みんな反省をします。キリスト教が愛の宗教と言われると面映ゆい気がします。愛の少なさを感じるからです。説教している私もそうです。旧讃美歌(321)に「主イエスよ!ひたすら求む 愛をば 増させ給え」というのがありましたが、多くの人の祈りです。反省は謙遜に通じます。神の前に謙遜になって祈りたいと思います。
最後に覚えて置きたいと思います。それは「愛は名詞でなく、動詞であると言うことです。同じことを聖書はこう言います。「キリスト・イエスにあっては、・・・尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。
アーメン