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2012年7月15日 聖霊降臨後第7主日 「神の国のたとえ」

マルコによる福音書4章26〜34節
高野 公雄 牧師

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

マルコによる福音書4章26〜34節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

マルコ4章には、イエスさまの語ったたとえ話が集められています。3章までは教えの中身についてはほとんど触れずに、活動の報告をテンポ良く進めてきました。マルコはここで初めてイエスさまの教えについて取り上げます。

きょうは、そのたとえ話集の中から二つを読みますが、たとえ話を読むとき、たとえの意味ばかりに関心が向きますが、イエスさまが語るたとえ話の場合は、語るお方と語られる内容が結びついていて、切り離せませんから、そのことを意識して読むことが大切です。まずは「成長する種」のたとえです。

《また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」》。

「神の国は次のようなものである」という言葉で始まります。イエスさまが人々に伝えようとしたことは、福音書の冒頭に、《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》(マルコ1章14~15)とあるように、「神の福音」であり、「神の国は近づいた」ということでした。この世の混乱、惨状は見逃しがたく、いまや神は沈黙を破り、直接に危機介入に乗り出された、秩序の立て直しに着手されたというのです。「神の国」とは「神の目指す新しい秩序」と思えば良いでしょう。具体的には、神は独り子イエスをこの世に遣わし、悩む者・苦しむ者を助け、神が人間の一人ひとりを心底から大事に思っておられることを証しされました。イエスさまは、この神の秩序立て直しを「成長する種」にたとえられる、と言います。

ある農夫が畑に種を蒔きました。麦の種と考えて良いでしょうが、それは「神の福音」、宣教のことばのたとえです。蒔かれた種は相当の期間は土の中に隠れたままです。農夫は「夜昼、寝起きして」、忍耐して芽が出るのを待ちます。しかしやがて、芽が出て、茎が伸び、穂が立ち、実が充実してきます。その間、農夫は水をやったり肥料をやったり雑草を取ったりするでしょう。でも、麦の成長それ自体は農夫の働きではなく、種と土の働きです。「ひとりでに」育つとは、そのことです。また、農夫は種がどんな仕組みで成長するのか理解しているわけでもありません。農夫はただ、実りをもたらしてくれる神に信頼して働いています。そしてついに刈り入れを迎えます。

種まきの場合、農夫の働きではなく種がもつ成長する力こそが肝心要であって、それを信頼することで人の働きが成り立ちます。人の救いの場合も同じです。神はイエスさまにおいて始めた救いのわざを必ず完成させて、人に救いをもたらします。「収穫の時」とは、信じた救いが実現する時です。神のみことばの人を救う力が人を救うのであって、信仰生活にかかわる人のさまざまな営みは神の救いの確かさがあってはじめて意味をもちます。私たちの信仰生活は問題に満ちています。そのことを思うと、救われた喜びもしぼんでしまいます。でも、信仰とは、神に加勢して私が何かをすることではなく、神の人間に対する真実のお心を知って、喜びと感謝をもって私の心を神に向けること、救いの賜物を受け取ることです。それが信仰の根本です。

私たちの教会の館名文字にあるように、SOLA GRATIA(ソラ・グラツィア)、すなわち神の「恵みによってのみ」人は救われます。神の人間に対する無償の愛、一方的な善意によります。したがって SOLA FIDE(ソラ・フィデ)、人の働きによらず神の恵みのみ心に信頼して受け取る「信仰によってのみ」人は救われます。そのことは SOLA SCRIPTURA(ソラ・スクリプトゥラ)、「聖書によってのみ」信じることができるのです。このように、「成長する種」のたとえは、神の好意的な働きに信頼することを呼びかけているのです。

《更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」》。

次は「からし種」のたとえです。このたとえもまた、始まりは小さな目立たないものが、ついには目を見張るほどに大きく育つことを強調しています。

イエスさまの「神の福音」を宣べ伝える活動、これはふつう「神の国運動」と呼ばれていますが、これは、世界の片隅で始まったことであり、集まった人々も権力を持たないふつうの人たちでした。その小さな運動もイエスさまが十字架につけられ墓に葬られて、ついえ去ってしまったように見えました。しかし、神がイエスさまを復活させたことに、弟子たちはふたたび力を得て、神の国運動を引き継ぐことになりました。小さな種が芽を吹きました。

弟子たちによる宣教活動は、ローマ帝国からと同胞のユダヤ人からの迫害に挟み撃ちされて、非常に困難な状況での出発でした。しかし、次第に人々の心を引きつけ、キリストの教会が大きく育ってきました。ただし、一直線に成長したわけではありません。教会の歩みもまた人間の歩みですから、それは問題だらけでした。指導者たちの権力闘争とか堕落とか、躓きが繰り返えされました。しかしまた内部から刷新の運動も絶えず起こって、今日の教会があるのです。小さな芽が成長して、大きな木になりました。それはまさに、神が始めたことは、神ご自身が必ず実現させる姿だと言えるでしょう。きょうの第一朗読におけるエゼキエルの預言のことば、《主であるわたしがこれを語り、実行する》(エゼキエル17章24)とあるとおりです。

《イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された》。

ところで、問題を抱えているのは、昔の、あるいは他所の教会だけのことではありません。私たち自身の六本木ルーテル教会も同じだと認めなければならないでしょう。私たちは弱く小さな群れにとどまっています。しかし、そんな私たちにも、イエスさまは「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」とあるように、神の国運動を受け継ぐ使命を与えてくださり、期待を寄せてくれています。昔の、あるいは他所の教会に対してと同じように。そして、私たちが定期的にみことばと聖礼典にかずかることができるように備えてくださっています。私たちはあまりに弱々しく、努力が空しく感じられることもあると思います。しかし、たとえが教えるように、いつか芽が出ます。今も変化が起こっているのです。神さまの圧倒的な力の許にあること、またイエスさまの期待を受けていることに励まされて、礼拝を守り、教会に託された使命を担ってまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年7月8日 聖霊降臨後第6主日 「悪霊を追い出す」

マルコによる福音書3章20〜30節

高野 公雄 牧師

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

マルコによる福音書3章20〜30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

《イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった》

きょうの福音は、大勢の弟子たちの中から側近におく弟子として十二人を選んだという記事に続きます。家に帰られたのは、十二人と共に過ごして、親しく教えようとなさったのではないでしょうか。ところが、群衆が押しよせて来て、「一同は食事をする暇もないほど」のありさまでした。

イエスさまは人々と親しく接して、言葉と行いをとおして神さまの人を愛する真実の思いを伝えました。しかし、生前のイエスさまは、自分が誰であるかを自らはっきりと言いあらわすことは滅多になく、人々の受け取り方に任せておられたようです。イエスさまは「救い主」として世に来られたとしても、「救い主」として救いのわざは十字架の死と復活によって完成するのであって、この完成の仕方を見ずして生前のイエスさま、途上にあるイエスさまを先取りして「救い主」と信じることは、「救い主」についての正しい理解に基づくものではなく、必ず誤解を生むことになったのです。

ところで、イエスさまの許に大勢の人々が集まりましたが、皆が皆、イエスさまを慕って集まったわけではありません。中には、イエスさまに敵対する人々もいました。きょうの福音は、そのうちの二つのグループについて語っています。

《身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。》

ここに、身内の人たちと律法学者たちという二つのグループが書かれています。イエスさまのことを正しく洞察できる人がいるとすれば、真っ先に思い浮かぶのが、生身のイエスさまを良く知る身内の人と、聖書に精通しているはずの律法学者ではないでしょうか。しかし、現実はそうはなりませんでした。

イエスさまの身内の人たちは「あの男は気が変になっている」という評判を聞いて、自分たちもそう思って、イエスさまを「取り押さえに来た」のです。また、律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言っていました。ベルゼブルとはバレスチナの先住民族の信じる異教の神の名前です。それをユダヤ人は「悪霊の頭」つまりサタン、悪魔を指す言葉として使っていました。

当時、人が病気や障がいを負うのは、悪霊の仕業と考えられていました。悪霊は30節では「汚れた霊」とも呼ばれています。イエスさまは霊能者、奇跡による癒し手として評判となり、人々は病気や障がいのある人たちを伴って押し寄せていました。イエスさまは悪霊を追い払う人、と広く認められていたのです。

そういうイエスさまに対して、律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、また「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていたというのです。これは、これまでのイエスさまの言行を慎重に見守ってきた律法学者たちがユダヤの都エルサレムの権威をもってガリラヤ地方に下って来て、イエスさまに有罪宣告をする彼らの公式見解です。イエスさまはそれに対して、二つのたとえをもってご自分が誰であるかを示します。

《そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」》。

国でも家でも会社でも教会でも、内輪もめしていれば、早晩、存続の危機に陥るでしょう。サタンの王国も同じです。もしイエスさまがサタンの力によって悪霊どもを追い出しているとするなら、それはサタンの王国が内部分裂を起こしていることになりますが、ありえないことです。イエスさまが悪霊どもを追い出しているなら、イエスさまがサタンに仕える者ではありえません。最初のたとえは、こう言っています。

《また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ》。

病気や障がいのある人たちは悪霊どもに取りつかれているということは、彼らは悪霊どもに人さらいされている、または捕虜となって支配されている状態だということです。二番目のたとえは、彼らの救出を、サタンの王国に押し入って、捕虜になっている人々を解放する救出劇として描いています。サタンの王国に押し入って「家財道具を奪い取る」すなわち人質の解放に成功するためには、悪霊どもにとどまらず、悪霊の頭である強い人つまりサタン自身を無力にしなければなりません。このたとえも、イエスさまはサタンの力を借りているどころか、反対にサタンを縛り上げる方であることを主張しています。

このたとえは、旧約聖書が伝える、エジプトでの隷属からの救出、バビロンでの虜囚からの解放という神の力ある恵みのみわざを思い出せます。人の隷属状態からの神による解放ということは、イエスさまの活動が、病気や障がいのある人たちに限られず、すべての悩む者、苦しむ者に希望と慰めと喜びをもたらすものであり、私たち一人ひとりに関わるものであったことに気づかされます。

このように二つのたとえで律法学者たちの見方を退けたあと、イエスさまは、この議論を締めくくる言葉を発します。

《はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う》。

「はっきり言っておく」は、原文を直訳すると「アーメン。わたしはあなたがたに言う」という言葉です。以下に言われることは、イエスさまの大事な言葉であって、教会に属する人々の信仰と生活の規範となることを意味しています。二つのことが言われています。一つには、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」であり、二つには、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」です。当然のことですが、一番目の言葉が「主」たる言葉であって、二番目の言葉は「従」の言葉です。

罪も冒涜も一切が人間には赦される。これはイエスさまのみが口にすることのできる言葉です。そしてイエスさまから発せられたものとしてのみ、理解でき受け入れることのできる言葉です。神の律法に違反する罪は世にはびこり、人に不幸をもたらしています。違反行為はけっして簡単に見逃して良いことではありません。だからこそ、世には罪の責任転嫁と自己正当化もまたはびこるのでしょう。そのさまは、きょうの旧約聖書、創世記3章が鮮やかに描いています。これこそ、罪を罪として認めず、罪の連鎖から抜け出ることのできない、赦され難い状況に陥っている私たちの真の姿です。このような私たちの姿が、罪に捕らわれている、悪魔の支配に服している者として描かれているのです。イエスさまは、罪の鎖に繋がれた私たちを解放するために、私たちの犯した罪を赦して私たちを立ち直らせるために、私たちを新たに生まれ返らせるために、世に来て救いのわざをなし遂げてくださいました。ご自身の十字架の死によって私たちの罪をあがなってくださいました。この方のゆえにこそ、すべての罪は赦されるのです。イエスさまが、唯一の救い主であり、罪のあがない主です。

ペトロはこう説教しています。《この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです》(使徒言行録4章11~12)。また、こういう言葉もあります。《イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」》(ヨハネ14章6)。また、こうも記されています。《神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました》(Ⅰテモテ2章5~6)。

責任転嫁、自己正当化、自己愛に捕らわれた私たちを解き放ち、神と隣人に対して開かれた生き方へと変革させるのは、イエスさまの神的な救いの力によります。このイエスさまを悪霊の頭と言って敢えて拒み続ける者は、イエスさまのあがないの功徳にあずかることはできません。

きょうの福音を深く心に留めて、いったいイエスさまは私にとって何者であるのか理解を深める。これこそが、私たちの最優先の務めです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年7月1日 聖霊降臨後第5主日 「病人をいやす」

マルコによる福音書3章1〜12節
高野 公雄 牧師

 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書3章1〜12節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

アーメン

 《イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた》。

きょうの福音は、聖書の小見出しにあるように、イエスさまが「手の萎えた人をいやす」奇跡物語が語られるのですが、それが安息日のことであったことから、安息日の掟をめぐる論争物語へと重心が移って行きます。

先週の福音も安息日の掟をめぐる議論でしたが、安息日の掟というのは、聖書に、こうあることに基づいています。《安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである》(出エジプト記20章8~11)。この掟によって、安息日に病人をいやすのは医療行為という労働であり、律法違反と見なされていたのです。

《イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった》。

片手の麻痺した男を癒す話は、このようにとても短く、あっさりと終わっています。しかし、イエスさまは、この男をいやすことで安息日の掟を犯したと訴えようと注目している人々に向かって問いかけます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

ここで、問題の核心は、安息日の掟にあることが明らかになります。そして、安息日の掟を犯してこの男をいやしたことは、重大な結果を招きます。

《ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた》。

ここで、ユダヤ教にとって安息日の掟がなぜそれほどまでに重要なのかについて理解を深めておきましょう。

私たち日本人の生き方は、「郷に入りては郷に従え」ということわざが示すようなものになり勝ちです。どこかの地域に住むときには、(たとえそれが自分の価値観に反していても)そこの習慣に従うのが賢い生き方だというものです。ところが、ユダヤ人の生き方は違いました。ユダヤは、エジプトという大国と、メソポタミアの大国ニネベやバビロンの間に挟まれたパレスチナ地方の小国でした。つねに大国の圧力の下にありましたが、ついには国を失って上層の人たちは国外に強制移住させられ、母国語であるヘブライ語も失いました。ユダヤ人という民族が消えそうでした。その危機を救ったのが、割礼と安息日の掟と食物規定を厳格に守ることでした。それによって、他の民族から自分たちを切り離したおかげで、生き延びることができたのです。国を失おうと母国語を失おうと、ユダヤ人は自分たちの宗教と民族性を保つことができたのです。それで、ユダヤには「ユダヤ人が安息日を守ったのでなく、安息日がユダヤ人を守った」という格言まであります。このように、安息日の掟は、ユダヤ人たちにとって特別の意味をもつものだったのです。

《安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか》。

安息日は仕事をしてはいけないという規定をそれほどまでに大事にしている人々に向かって、イエスさまはこう問いかけます。安息日厳守を主張するファリサイ派の人たちも、人命にかかわる緊急の場合は例外を認めて、援助して良いとしていました。ですから、後半の問いかけに対しては、命を救うことは許されていると答えることができたはずです。しかし、善を行うことができると答えることはできませんでした。命に別状がない場合には、善行であっても、安息日にはしてはいけないというのが彼らの教えだったからです。安息日に麻痺した手を治すことは、律法違反だったのです。安息日の律法は、隣人愛に優先していました。

先週の福音にあったイエスさまの言葉「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(2章27)と、ユダヤの格言「ユダヤ人が安息日を守ったのでなく、安息日がユダヤ人を守った」では、掟と人の優先順位が正反対であり、とうてい両立できません。ファリサイ派の人たちが指導するユダヤ教は、イエスさまの教えをけっして受け入れることはできません。イエスさまの教えは、神と律法に対する冒涜であって、人々の間から取り除かなければならない害毒と見られたのです。それゆえに、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は友好関係にないにもかかわらず、反イエスという一点で手を組んで、イエス殺害の相談をはじめました。

この出来事までは、《ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された》(マルコ1章39)とあるように、イエスさま一行はガリラヤ地方の町々村々にあるユダヤ教の会堂シナゴーグで安息日ごとに説教をするという仕方で活動していました。しかし、マルコ福音によりますと、これ以降、6章で故郷ナザレの会堂で教えたことを除いて、会堂に入ることはありません。

社会の上層の人たちが、イエスさまを受け入れず、むしろ圧殺しようとたくらむ反面、ガリラヤ地方の群衆はイエスさまに従い、周辺地域の群衆はイエスさまの許にやって来ます。彼らはイエスさまに大きな期待を寄せます。その様子がきょうの福音の後半7~12節「湖の岸辺の群衆」に描かれています。このように、イエスさまを信じるか否かで人々の間に分裂が生じ、亀裂が深まり、緊張が高まっていきます。その結果が、イエスさまの十字架です。

安息日の掟をめぐる論争をふり返ってみましょう。要点は、イエスさまが指摘するとおり、ファリサイ派の人々の視点が本末転倒しており、安息日律法の中心ポイントを外している、ということです。彼らが安息日の律法をとくに大事な律法としたことは、正しい判断です。神は世界と人を創造し、維持し、困難に陥ったイスラエルを救い出してくださった。そのことを覚えて、安息日を聖なる日として守り、働く人々の安息の日を与え、心をこめて神に賛美と感謝をささげ、神の配慮を祈り求める。これが安息日の掟の根本精神です。

そうであれば、安息日にユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝に出席し、神の助けを祈る片手の麻痺した男をどう見るのが正しいのでしょうか。この男の重荷を取り除いてやろう、麻痺した手を治してやろうと思うのが、安息日を定めた精神に適ったことなのです。私たちは、イエスさまの振る舞いから、このことを学びます。

ファリサイ派の人たちは、安息日の律法を大事にするのは良いのですが、今この具体的な現場において、その律法が何を許し、何を禁じているかという枝葉末節に囚われるあまりに、イエスさまが律法の規定を守るがどうかという方に注意が向いてしまって、あの男の困窮に目を向けることができませんでした。これは、安息日の律法が定められた根幹の理念に反します。

イエスさまは、悩む者・苦しむ者を見逃さず、特別に目を向けて配慮してくださる神の愛の真実を、ご自分の身をもって証ししておられます。前に読んだ福音にこういう言葉がありました。

《一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである》(マルコ1章21~22)。

イエスさまの教え、振る舞いの権威は、それによって証しされる神の真実にあります。安息日は、主日は、この証しを聞いて、神よりの平安を受け取るためにこそ定められているのです。

先週の福音でイエスさまは《人の子は安息日の主でもある》(2章28)と言っておられます。イエスさまは私たちの救い主であって、私たちに神との平和を得させるために十字架のあがないを成し遂げてくださいました。きょうはこのあと聖餐式が続きます。主イエスさまの恵みに、感謝と喜びをもって与からせていただきましょう。主イエスさまこそが、私たちの平和、安息の基です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年6月24日 聖霊降臨後第4主日 「安息日について」

マルコによる福音書2章23〜28節
高野 公雄 牧師

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書2章23〜28節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

きょうの福音は、「安息日に麦の穂を摘む」と小見出しが付いた個所です。マタイ12章とルカ6章にも並行する物語が載っています。

《ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った》。

麦畑を通っているときに、弟子たちが麦の穂を摘みました。これは些細なことであって、問題とするような行為とも思えません。しかし、ファリサイ派の人々はそれを見咎めて、イエスさまに「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と抗議をします。ユダヤ人にとって、安息日の掟を守ることは、それほどに大事なことと考えられていたのです。

安息日の掟については、きょうの第一朗読で聞きました。

《安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである》(申命記5章12~15)。

週の七日目つまり土曜日は安息を守るべき日である。神はその民の惨状を憐れみ、エジプトで奴隷であったあなたがたを解放してくださった。土曜日はこのことを覚えて仕事を休み、神と交流する日とせよ。そうすれば、息子と娘、男女の奴隷、家畜、外国人寄留者たちに休息を与えることができる。これが、安息日の掟です。

出エジプト記には、安息日について別の説明が書かれています。

《安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである》(20章8~11)。

ここでは、土曜の安息を神が天地を創造したあと、7日目には被造物たちを祝福し共に憩われたことが安息日の定めの根拠とされています。創世記にこう記されています。

《第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された》(創世記2章2~3)。

どちらの記事によっても、安息日はユダヤ人にとって創造主にして救い主である神を覚え、感謝と讃美を献げる祝いの日なのです。この日は、町々村々にあるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に集い、神を礼拝する聖日として定着しました。

安息日の掟は、以上のような内容なのですが、ユダヤ人は国を失ったり、主権を奪われたりする歴史を繰り返す中で、民族の独自性を守るために、宗教儀礼の中でもとくに安息日・割礼・食物禁忌規定を守ることを重要視するようになりました。そして、ついに熱烈な愛国主義者が、安息日律法を守るために、敵と戦うことを拒否し、死を賭すという「安息日の惨劇」が起きるにいたりました。これは、旧約聖書続編のマカバイ記一の2章に出ています。

ともかく、ユダヤ教では、安息日の規定は守るべきものとして強調されていました。ユダヤ教は「信じる者は救われる」とは教えません。神の定めた律法を守ることを教えているのです。安息日に仕事をしないことの具体例として聖書に書かれていることは、耕さない、刈り入れない、火を焚かないなどわずかです。しかし、律法を守ることを真剣に考えていけば、何をすべきか、何をすべきでないかをもっと細かに規定することが必要になります。それを考え決めていくのが律法学者たちです。いくつか学派がありましたが、その中で最有力になっていったのが、ファリサイ派です。

今日でも厳格に安息日の教えを守っている人は、食事のための煮炊きをしない、電話に出ない、車を運転しない、テレビをみない、エレベーターに乗らない、命に別状がないかぎり医者にかからないなど、一切の労働をしないことを守っているそうです。安息日は家族団欒の日となり、シナゴーグへ行ってお祈りをし、また自宅でも安息日を祝うのです。

このような次第で、厳格に戒律を守るファリサイ派から見れば、イエスさまの弟子たちの行ったことは、麦の収穫という、禁じられた労働をしたことになります。ルカ福音6章1によると、弟子たちは摘んだ穂を手でもみました。これも脱穀という禁じられた労働になります。

《イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」》。

麦の穂を摘むことは、それが安息日でなければ、律法に照らしても何の問題もないことでした。

《隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない》(申命記23章25~26)。また、《穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない》(レビ記19章9~10)。

このように、律法そのものは、旅人や貧しい人への配慮といたわりに満ちたものなのです。

でも、イエスさまは、このような聖句を引いて麦の穂を摘むことの良し悪しを論じるのでなく、ダビデの例を引いて、緊急(ここでは空腹)の場合には、例外として律法違反が許されることを指摘することで答えています。これでは議論はかみ合いませんが、イエスさまはそもそも律法とは何かという根本問題を論じたいのです。

余談ですが、この個所には「説教者への慰め」が含まれています。ダビデに聖別されたパンを与えた祭司の名は、サムエル記上21章1~6によりますと、アビアタルではなくて、アヒメレクです。聖書にさえこのような間違いが含まれていることは、自分の勘違いとか知識の乏しさに悩む私にとっての慰めです。

イエスさまはさらに言葉を続けます。

《安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある》。

先に見たとおり、もともとの安息日の定めは、神の救いの恵みを強調するものです。そして、人道的な意味もありました。「安息日は人のために定められた」のです。あなたがたは安息日の掟の適用にとらわれて、本当に大切なこと、安息日の定めの本質を見失っている。あなたがたは本末を転倒し、「木を見て森を見ず」の過ちを犯している。神は一方的な恵みによってイスラエル人をあがない、奴隷労働から解放してくださって、人としての尊厳を取り戻させてくださった。この日はそのことを覚えて喜び祝う日だ。あれをするな、これをするなと人間の側の行いばかりに目を向けて、神の無償の愛を受け取るという安息日の一番大事なことを忘れていないか。こうイエスさまは言っておられるのです。

キリスト教会はユダヤ教の安息日(土曜日)を廃して、イエスさまが十字架の死から復活された週の初めの日(日曜日)を「聖日」「主の日」として祝うようになりました。曜日が一日移動しても、この日を守る精神は変わりません。教会はこの日の意義をしっかりと保っていなければなりません。

《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》(マタイ11章28~30)。

安息日の主イエスさまの、このような招きに応えて、私たちは教会に集い、礼拝をいたします。私たちの礼拝が、この自覚に立って、神からの安らぎを得られるものとなり、この安らぎを多くの人と分かち合うものとなるよう、真の礼拝を共に作り上げていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン