2012年7月15日 聖霊降臨後第7主日 「神の国のたとえ」

マルコによる福音書4章26〜34節
高野 公雄 牧師

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

マルコによる福音書4章26〜34節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

マルコ4章には、イエスさまの語ったたとえ話が集められています。3章までは教えの中身についてはほとんど触れずに、活動の報告をテンポ良く進めてきました。マルコはここで初めてイエスさまの教えについて取り上げます。

きょうは、そのたとえ話集の中から二つを読みますが、たとえ話を読むとき、たとえの意味ばかりに関心が向きますが、イエスさまが語るたとえ話の場合は、語るお方と語られる内容が結びついていて、切り離せませんから、そのことを意識して読むことが大切です。まずは「成長する種」のたとえです。

《また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」》。

「神の国は次のようなものである」という言葉で始まります。イエスさまが人々に伝えようとしたことは、福音書の冒頭に、《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》(マルコ1章14~15)とあるように、「神の福音」であり、「神の国は近づいた」ということでした。この世の混乱、惨状は見逃しがたく、いまや神は沈黙を破り、直接に危機介入に乗り出された、秩序の立て直しに着手されたというのです。「神の国」とは「神の目指す新しい秩序」と思えば良いでしょう。具体的には、神は独り子イエスをこの世に遣わし、悩む者・苦しむ者を助け、神が人間の一人ひとりを心底から大事に思っておられることを証しされました。イエスさまは、この神の秩序立て直しを「成長する種」にたとえられる、と言います。

ある農夫が畑に種を蒔きました。麦の種と考えて良いでしょうが、それは「神の福音」、宣教のことばのたとえです。蒔かれた種は相当の期間は土の中に隠れたままです。農夫は「夜昼、寝起きして」、忍耐して芽が出るのを待ちます。しかしやがて、芽が出て、茎が伸び、穂が立ち、実が充実してきます。その間、農夫は水をやったり肥料をやったり雑草を取ったりするでしょう。でも、麦の成長それ自体は農夫の働きではなく、種と土の働きです。「ひとりでに」育つとは、そのことです。また、農夫は種がどんな仕組みで成長するのか理解しているわけでもありません。農夫はただ、実りをもたらしてくれる神に信頼して働いています。そしてついに刈り入れを迎えます。

種まきの場合、農夫の働きではなく種がもつ成長する力こそが肝心要であって、それを信頼することで人の働きが成り立ちます。人の救いの場合も同じです。神はイエスさまにおいて始めた救いのわざを必ず完成させて、人に救いをもたらします。「収穫の時」とは、信じた救いが実現する時です。神のみことばの人を救う力が人を救うのであって、信仰生活にかかわる人のさまざまな営みは神の救いの確かさがあってはじめて意味をもちます。私たちの信仰生活は問題に満ちています。そのことを思うと、救われた喜びもしぼんでしまいます。でも、信仰とは、神に加勢して私が何かをすることではなく、神の人間に対する真実のお心を知って、喜びと感謝をもって私の心を神に向けること、救いの賜物を受け取ることです。それが信仰の根本です。

私たちの教会の館名文字にあるように、SOLA GRATIA(ソラ・グラツィア)、すなわち神の「恵みによってのみ」人は救われます。神の人間に対する無償の愛、一方的な善意によります。したがって SOLA FIDE(ソラ・フィデ)、人の働きによらず神の恵みのみ心に信頼して受け取る「信仰によってのみ」人は救われます。そのことは SOLA SCRIPTURA(ソラ・スクリプトゥラ)、「聖書によってのみ」信じることができるのです。このように、「成長する種」のたとえは、神の好意的な働きに信頼することを呼びかけているのです。

《更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」》。

次は「からし種」のたとえです。このたとえもまた、始まりは小さな目立たないものが、ついには目を見張るほどに大きく育つことを強調しています。

イエスさまの「神の福音」を宣べ伝える活動、これはふつう「神の国運動」と呼ばれていますが、これは、世界の片隅で始まったことであり、集まった人々も権力を持たないふつうの人たちでした。その小さな運動もイエスさまが十字架につけられ墓に葬られて、ついえ去ってしまったように見えました。しかし、神がイエスさまを復活させたことに、弟子たちはふたたび力を得て、神の国運動を引き継ぐことになりました。小さな種が芽を吹きました。

弟子たちによる宣教活動は、ローマ帝国からと同胞のユダヤ人からの迫害に挟み撃ちされて、非常に困難な状況での出発でした。しかし、次第に人々の心を引きつけ、キリストの教会が大きく育ってきました。ただし、一直線に成長したわけではありません。教会の歩みもまた人間の歩みですから、それは問題だらけでした。指導者たちの権力闘争とか堕落とか、躓きが繰り返えされました。しかしまた内部から刷新の運動も絶えず起こって、今日の教会があるのです。小さな芽が成長して、大きな木になりました。それはまさに、神が始めたことは、神ご自身が必ず実現させる姿だと言えるでしょう。きょうの第一朗読におけるエゼキエルの預言のことば、《主であるわたしがこれを語り、実行する》(エゼキエル17章24)とあるとおりです。

《イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された》。

ところで、問題を抱えているのは、昔の、あるいは他所の教会だけのことではありません。私たち自身の六本木ルーテル教会も同じだと認めなければならないでしょう。私たちは弱く小さな群れにとどまっています。しかし、そんな私たちにも、イエスさまは「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」とあるように、神の国運動を受け継ぐ使命を与えてくださり、期待を寄せてくれています。昔の、あるいは他所の教会に対してと同じように。そして、私たちが定期的にみことばと聖礼典にかずかることができるように備えてくださっています。私たちはあまりに弱々しく、努力が空しく感じられることもあると思います。しかし、たとえが教えるように、いつか芽が出ます。今も変化が起こっているのです。神さまの圧倒的な力の許にあること、またイエスさまの期待を受けていることに励まされて、礼拝を守り、教会に託された使命を担ってまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン