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2011年12月11日 待降節第3主日 「ヨハネの証し」

ヨハネによる福音書1章19〜28節
説教: 高野 公雄 牧師

 さて、ヨハネの証しはこうである。

エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。

そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

ヨハネによる福音書1章19〜28節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

教会の暦で復活祭の前の四旬節(Lent レント)と、降誕祭の前の待降節(Adevent アドベント)は、同じ紫の季節です。四旬節はキリストの十字架を前にして、懺悔と痛悔と克己が強調され、悲しみの季節という思いが強いですが、待降節はもうすぐキリストが来られるという愛と喜びと期待に満ちた季節という側面が強く感じられます。とくに今日の第三主日は、アドベント・クランツのローソクの色がいつもの紫ではなく、バラ色で表わされているのですが、「喜びの主日 Gaudete Sunday」と呼ばれます。

この呼び名は、昔は礼拝の初めに唱えられる賛美唱がフィリピの信徒への手紙4章4~6であったことに由来します。《主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい》。ラテン語聖書ではこの聖句は「喜びなさい Gaudete ガウデテ」から始まります。それで、「喜びの主日」と呼ばれます。

きょうの賛美唱は、ルカ福音1章の「マリアの賛歌」でしたが、そこでも《わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます》と、「喜び」が前面に出ています。そして、第二朗読のテサロニケの信徒への手紙二5章16以下でも、《いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです》と、「喜び」がテーマになっています。きょうは、救い主がもうすぐそこまで来ておられるという喜びをもって礼拝するのです。

さて、先週はマルコ福音1章で洗礼者ヨハネがイエスさまの先駆けとして現れたことを読んだことに続いて、今週はヨハネ福音1章から洗礼者ヨハネの証しについて聞きました。

きょうの福音に書かれていることが、どこで起こったのか、まずそこから話を始めようと思います。きょうの朗読個所の最後28節に《これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった》とあります。ベタニアといいますと、皆さまは、マルタとマリアの話やラザロの復活の話の舞台となったエルサレム近郊の村を思い出されるでしょう。しかし、きょうのベタニアはそれとは違って、「ヨルダン川の向こう側」つまり川の東側にあります。聖書に付いている地図で見てみましょう。聖書地図の6番「新約時代のパレスチナ」に出ています。ヨルダン川が死海に流れ込むところのすぐ右上に(実際には7KMほど上流に)、きょうの話の舞台となるベタニア村の場所が記されているのを見つけられたでしょうか。ヨルダン川は北の山から深い谷を作って流れ下っているのですが、この辺りは浅瀬になっていまして、ここで洗礼者ヨハネはらくだの毛衣を着て、方々から集まった人に悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたのです。ちなみに、現在そこには、洗礼者聖ヨハネ教会というカトリック教会と修道院が建っているそうです。

こういう活動をしている洗礼者ヨハネのもとへ、エルサレムの指導層は使者を遣わして、《あなたは、どなたですか》と質問させました。洗礼者ヨハネは答えます、《わたしはメシアではない》。《彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた》とあります。Who are you? という質問に対して、洗礼者ヨハネは I am not. と答えています。それならば、I am.(新約聖書の言葉で「エゴー・エイミ」)と言う者は誰なのでしょうか。それが、ここでの中心ポイントです。

「わたしはある エゴー・エイミ」。これは、神を言い表す一つの言い方です。出エジプト記3章にある「燃える柴」の場面を覚えておられるでしょうか。モーセが羊の群れを飼っていると、燃える柴を見ます。よく見てみようと柴に近づくと、燃える柴の間から神がモーセに語りかけます、《わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である》と。そして言います、《わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ》と。神はモーセを、エジプトで奴隷となって苦しんでいるイスラエルを救い出す指導者として召し出したのです。そして、《神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」》(3章14)。

洗礼者ヨハネは、もちろん神ではありませんし、メシアでもありません。彼は、イエスさまこそが、「わたしはある」と言う方、神でありメシアである方、地上を歩まれる神であることを証ししているのです。

洗礼者は自分自身については、「それではいったい、あなたはだれなのですか」という問いに対して、《ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である》と答えます。先週、このイザヤ書40章について、バーテルト博士はすばらしい説教をしてくださいました。博士の許可をえて、その原文と日本語訳を今週の週報に挟んでありますので、ぜひ、お読みください。

紀元前6世紀のことですが、預言者イザヤはバビロニア帝国の首都バビロンにユダヤの民と共に捕虜となっていました。捕われの身であっても当代随一の知識人であったイザヤは、世界情勢を読んでいていました。東の隣国ペルシャのキュロス王の台頭によって、自分たちが解放されると感じとり、こう預言したのです。

《主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る》(3~5節)。《高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる》(9~11節)。

このように、イザヤはいったんは、キュロス王をメシアとみなして期待をかけました。確かにキュロスはユダヤの民をバビロン捕囚から解放して帰国を許しました。しかし、キュロスが本当のメシアではないことも分かってきました。預言者たちは、それではいったい本当のメシアはどのような方なのだろうと思い悩むのです。

《その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない》とあるように、まだイエスさまは登場していないのですが、にもかかわらず、きょうの福音で、洗礼者ヨハネは、イエスさまこそがイザヤが指し示していたメシアだと証言しているのです。ヒトを本当に人とする者はイエスさまを置いて他にはいない。《見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神》。イエスさまのうちに神を見ることができる。これが洗礼者ヨハネの信仰告白でしたし、私たちへの証しです。私たちは、ヨハネが指し示した、来たるべきイエスさまに、ヨハネと共に心を向けたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年12月4日 待降節第2主日 「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神」

イザヤ書40章1-11節
説教: アンドルー・バーテルト 博士 – Rev. Dr. A. Bartelt

慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。

呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。

見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

イザヤ書40章1〜11節


皆さんも、時には神が縁遠い存在、隠れた存在ではないか、さらには、存在していないように感じることがあるのではないでしょうか。多くの人は一体神は本当にいるのだろうかとか、どんな方なのだろうかという疑問を持っています。ある人は「神」をとても曖昧で、漠然とした存在と感じており、ある人は身近な、自分の必要を満たしてくれる個人的な召使のように働く神を求めています。

私たちはクリスチャンとして、一人の人格的な神を、三位一体の神を知っています。神は全世界の創造者でありながら、私たち一人一人を個別に知ることを望み、さらに私たちを名前で呼ぶことを望んでおられます。

神はまた私たちの贖い主であり、救い主であって、私たちの精神的、肉体的にもっとも必要とするものを満たしてくださいます。神は創造した者が離れていくのを見守っているだけでなく、連れ戻すために来てくださいます。

しかし、私たちクリスチャンでさえ、時には、神が遠い存在で隠れているように思えます。この世界の、悪と苦難と、神に対する公然たる罪と反逆の中で、神はいったいどこにおられるのだろうか。地震や津波に襲われた世界の中で、神はいったいどこにおられるのだろうか。たとえ、アメリカの私たちが市民として、またルター派の兄弟姉妹として支援するとしても。そしてアメリカの私たち自身も近年は記録的な自然災害を経験してきたのです。

これらの災害は、神の罰なのでしょうか。それとも、神はまったく関与していないのでしょうか。気候変動がもたらす結果でしょうか。ただの偶然でしょうか。単に最悪の年なのでしょうか。あるいは、まさにローマ書8章でパウロが言っている、罪に堕ちた被造世界の結末としての「うめき」なのでしょうか。

本日のイザヤ書のテキストは、神の民がいったい神はどこにおられるのかと自問している時に語りかけた箇所であります。はたして神はおられないのでしょうか、あるいはただみ顔を隠しているだけなのでしょうか。

その当時、初めはアッシリア、次にバビロンによって神の民は崩壊に直面していました。そして、イザヤ書40章の有名なみ言葉によって、預言者が慰めのメッセージを伝えます。事実、神は預言者イザヤを通して神の民に語ったのであります。その時はそう見えたかもしれませんが、彼らを忘れ去ったわけでも、見捨てたわけでもなかったのです。

彼らは以前にもそのような絶望を経験していました。神の民の歴史は、悲しみと不幸、破壊と絶望の時を多く経験しています。エジプトの奴隷時代を思い出してください。神もまたよく覚えてくださっています。そして、何が起こったか思い出してください。神は強いみ手によって彼らを救い、導き、荒野へと連れて行かれました。彼らはそれを良い計画とは思わなかったようですが、神にはすばらしいご計画がありました。神はシナイの荒れ野で彼らを神の民とされたのです。

そして、イザヤの時代に、神は「第二の出エジプト」のような新しいこと行うと言われました。今度は砂漠をさまようようなのろのろした旅ではありません。高速道路(日本だったら、新幹線?)を造って、約束の地へ彼らを連れて行くと言うのです。

いまや、すべて肉なる者は(誰もが)、神がその民と共にいるのを見るであろう。

これは、慰めと喜びに満ちた実にすばらしい宣言であります。そして、それは今や私たちに、この待降節第二週に私たちに告げられているのであります。私たちはふたたび神を待ち望んでいることに気づかされるのです。目で見ることはできませんけれども、神は最もリアルに個人的な方法で私たちと共におられるのです。

このテキストの中心は9節にあります。そこで預言者は、神の民に「あなたたちの神はここにいる。あなたたちと共にいる。神がおられるしるしが見えますか」と呼びかけます。

神はあなたたちの罪をゆるしてくださいました。あなたたちに命を与えてくださいました。それは、いかなる国家も戦争も、自然死でさえもが私たちから奪い去ることができない命です。

神の腕は、まさに神の国を司る力を持っています。それと同時に子羊をやさしく抱く良き羊飼いの柔和な腕でもあります。

キリストに連なる親愛なる友である皆さん、私たちの神は現実です。隠れているように見えても、イエス・キリストの人格において、自らを私たちに現わされました。これが、待降節のメッセージです。私たちの神はこの地上に来てくださった。私たちを救うために来られました。そして、再び来られます。

きょうの福音書は、最後の偉大な預言者である洗礼者ヨハネとの関連を示しています。彼はイエスさまの到来を告げるために、このテキストの言葉をそのまま復唱します。あたかも彼は当時の人々に「あなたたちの神はここにいる」と語っているかのようです。

私たちは、イエスさまにおいて神を見ることができます。彼が慰めをもたらすために来たのですが、それは、私たちの罪が赦されること、罰が過去のものとなるたことを、ただ「告げる」ことによってではありません。「彼はわれわれの苦しみを負い、われわれの悲しみを担った」とイザヤが後に語るたように(イザヤ53章参照)、私たちの罪に対する罰を自らの上に引き受けられたのです。

イエスさまの死と復活によって、私たちに、自然の大災害や自然死でさえも二度と取り去ることのできない命を与えてくださいました。被造物の「うめき」の真中にあっても、私たちに平安をもたらしてくださいます。私たちの創造主であり贖い主である神は、イエス・キリストを通して私たちを新しい存在としてくださいました。それは、地上のいかなるものも破壊することはできません、

そうです。この時代の苦しみの最中にあっても、神は私たちと共にいまして、私たちを慰め、励ましてくださいます。

今の時代の成功と繁栄の中にあっても、神は私たちと共にいまして、何が永遠に続くものかを私たちにお示してくださいます。

私たちの日々の生活の葛藤の中にあっても、神は私たちと共にいまして、私たちを赦してくださいます。

そして、隠れている遠い存在のように思える時でも、神は私たちと共にいてくださいます。

最後に個人的な話で締め括りにしたいと思います。皆さんも「かくれんぼ」を小さな子どもとしたことがおありになるでしょう。我が家では、玄関口からリビングルーム、台所、そしてまた玄関口へとぐるっと走り回れるようになっています。お父さんが隠れ、子どもたちはお父さんを探して家の中をぐるぐる走り回ります。私は実際にはしばしばただ隅っこに立っているだけだったのですが、私の娘は私の前を通過して走り去ります。仕方なく、私は前に出ていきます。すると、娘は私を目がけて走ってきます。そして、子どもは何と言うか、皆さんお分かりですね。「お父さん、見つけた」。もちろん、私はずっとそこにいたのです。ただ、私が自分からここにいることを示すまでは、娘が気づかなかっただけなのです。娘は、私を見つけると、喜びいさんで「見つけた!」と言うのです。

キリストに連なる親愛なる友である皆さん、

待降節は、神が「私はここにいる」と告げる時です。

イザヤは暗やみをさまよう人々に告げました、「あなたたちの神はここにいる」と。

私たちは、神のみ前を走って通り過ぎてしまうそんな世界に住んでいます。そして、神はいったいどこにいるのか、なぜ隠れているのかと不思議に思うのです。イエス・キリストにおいて神は言われます、「あなたたちの神はここにいる」と。

聖霊によって身ごもり、おとめマリアより生まれて、この世に来られた救い主において、神は言われます、「あなたたちの神はここにいる」と。

神の恵みによって私たち一人一人の人生に関わってくださり、嘆き悲しむ者を慰めるため、弱き者を強めるため、死んだ者をよみがえらせるためにこの世に来られた救い主の真実の人格において、「あなたたちの神はここにいます」。

私たちに与えられたいのちによって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、私たちのために、そして私たちの救いのために与えられたいのちによって、「あなたたちの神はここにいます」。

イエスさまの恵みのうちに、イエスさまの力によって、イエスさまの奉仕のうちに生きる私たちのいのちによって、神は私たちを取り巻く世界に言われます、「あなたたちの神はここにいる」と。

異なった場所・文化から私たちを集め、キリストのみ前を取り囲み、あらゆる国民・民族の人々が口々に「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主のなる神」と歌う信仰の交わりの中で、私たちの神はみ言葉と水において、パンとぶどう酒において私たちのもとに来ます。「あなたたちの神はここにいます」。

決して忘れないでください。人生の最悪の時にあっても、死に直面している時にあっても、私たちの神は共にいてくださり、新たないのちを与えてくださることを、そして私たちは顔と顔を合わせて神を見ます、そしてとこしえに言うことを、「あなたたちの神はここにいる」と。

父と子と聖霊のみ名により、アーメン。


“Here is your God!”

Comfort, comfort my people, says your God. Speak tenderly to Jerusalem, and proclaim to her that her hard service has been completed, that her sin has been paid for, that she has received from the LORD’s hand double for all her sins.

A voice of one calling: “In the wilderness prepare the way for the LORD; make straight in the desert a highway for our God. Every valley shall be raised up, every mountain and hill made low; the rough ground shall become level, the rugged places a plain. And the glory of the LORD will be revealed, and all people will see it together. For the mouth of the LORD has spoken.”

A voice says, “Cry out.” And I said, “What shall I cry?” “All people are like grass, and all their faithfulness is like the flowers of the field. The grass withers and the flowers fall, because the breath of the LORD blows on them. Surely the people are grass. The grass withers and the flowers fall, but the word of our God endures forever.”

You who bring good news to Zion, go up on a high mountain. You who bring good news to Jerusalem, lift up your voice with a shout, lift it up, do not be afraid; say to the towns of Judah, “Here is your God!”

See, the Sovereign LORD comes with power, and he rules with a mighty arm. See, his reward is with him, and his recompense accompanies him. He tends his flock like a shepherd: He gathers the lambs in his arms and carries them close to his heart; he gently leads those that have young.

Isaiah 40:1~11 (New International Version, NIV)

*****

There are times when God seems far away, hidden, even non-existent. For many people the question is whether there even is a god – or what kind of a God He is. Some perceive “God” as very vague and general; others want a god who is close to them, even acts like a personal servant to meet their needs.

As Christians, we know a personal God – in fact, a God in three persons, blessed Trinity! He is the Creator of all the world, yet He wants to know each of us as an individual, even calling us by name.

He is also our Redeemer, our Savior, who has met our deepest needs in both spirit and body. He has watched His creation go away from Him, but He has come to claim it back.

But even for us Christians, God can seem far away, hidden. Where is God in a world of evil, hardships, open sin and rebellion against Him? Where is God in a world of earthquakes and tsunamis, even as we in the United States both as citizens and as Lutheran brothers and sisters support you in Japan, and even as we in the United States have ourselves experienced a record number of natural disasters in these recent years!

Are these punishments from God? Or is God involved at all?? The result of climate change? Simple chance? A really, really bad year? Or just the result of a fallen creation that is “groaning” as St. Paul says in Romans 8.

Our text from Isaiah speaks to God’s people at a time when they wondered where God was. Was He there at all — or just hiding His face?

At that time, God’s people were facing destruction by the nations around them, first Assyria and then Babylon. And in these well-known words of Isaiah 40, the prophet speaks a message of comfort. Actually God was telling His prophets to comfort His people, to announce to them that they were not forgotten or forsaken, even if it appeared that way.

They had faced despair before. The history of God’s people is filled with times of sorrow and sadness, destruction and despair. Remember the slavery in Egypt? God did, too. And remember what happened: God led them out by a mighty hand, but right into the wilderness. They were not so sure this was a good idea, but God had a greater idea. He would form them as His people at Sinai.

Now at the time of Isaiah, God had said He would do a new thing, like a second exodus. This one would not be a slow journey, lost in the desert. He would make a highway, an expressway (like a bullet train?) for them to come home to their land of His promise.

In fact, all flesh – everyone – would now see and witness God’s presence with His people.

This is a wonderful proclamation of comfort and joy, and it comes to us now in the second week of another Advent season. Again we are reminded that we are waiting for God, a God who is not seen yet is present with us in a very real and personal way.

The focus of this text really comes in verse 9, when a messenger comes to God’s people to say, “Here is your God! He is here. He is with you. Can you see the signs of His presence?”

He has forgiven your sins. He has given you life. It is a life that no nation or war or even natural death can take away from us.

His arm is an arm of power, ruling the kingdom of God. His arm is the tender arm of a good shepherd gently holding the little lambs.

Dear Christian friends:

Our God is real. He may seem hidden but He has shown Himself to us in the person of Jesus Christ. That is the message of Advent: Our God has come to earth. He has come to save us. And he will come again.

Our Gospel shows the connection to the last of those great prophets, John the Baptist, who echoed the words of our text in announcing Jesus. It is as though he said to the people of his day, “Here is your God!”

In Jesus we see our God. He came to bring comfort not just by announcing that our sin is forgiven and that our punishment is past, but even to take the punishment for our sin upon Himself, as Isaiah would say later, “He has born our griefs and carried our sorrows.”

By his death and resurrection, he came to give us a life that can never be taken away, not by natural catastrophe and not by natural death. He came to bring us peace, even in the midst of a groaning creation. Our creator and redeemer has make us into a new creation, in Christ Jesus, that nothing on earth can destroy.

Yes, even in the sufferings of this present age, God is with us, to comfort and sustain us.

Even in the successes and prosperity of this age, God is with us, to show us what lasts forever.

Even in the struggles of our daily life, God is with us, to forgive us,

And even when God seems far away and hidden, God is with us.

If I may close with a personal story, you, too, may have played “hide and seek” with your small children. Our house is one in which you can run in a circle, from the front hall to the sitting room to the kitchen to the front hall. Daddy would hide and the children would run around and around to find him. Actually, I would often just stand in the corner, but my daughter would run right past me. Then I would step out and she would run right into me. And do you know what she would say? “Daddy, I found you.”

Of course, I was there all the time. And she did not find me as much as I revealed my presence to her. But she delighted to know that I was there, and she would say, “here you are!”

Dear friends in Christ,

Advent is God’s time to say, “here I am.”

Isaiah spoke to people walking in darkness, and he said, “Here is your God!”

We live in a world that runs right past the presence of our God, and even we sometimes wonder where – and why – God seems to be hiding. But In Jesus Christ, God says: Here is your God!

In the person of a savior who came into our world, conceived by the Holy Spirit and born of the virgin Mary, God says: Here is your God!

In the real person of a savior who touched lives with God’s grace, who came to comfort those who mourn, to strengthen the weak, even to raise the dead, HERE IS YOUR GOD!

By a life given for us, even unto death, yes death on a cross, for us and for our salvation: HERE IS YOUR GOD!

By our lives lived in his grace, by his power, and in his service, God says to the world around us: HERE IS YOUR GOD.

In the fellowship of faith that brings us together from different places and cultures, to gather around the presence of Christ, where those of every nation and tribe and people and tongue sing, “Holy, Holy, Holy, Lord God of Saba’oth,” our God comes to us in Word and water, in bread and wine: HERE IS YOUR GOD.

And know this, that even in the darkest days of life, and into the face of death, our God has been there and given us a new life where we shall see him face to face, and forever say, here is our God!

In the name of the Father, Son, and Holy Spirit, AMEN.

2011年11月27日 待降節第1主日 「再臨の時に備える」

マルコによる福音書11章1〜11節
説教:高野 公雄 牧師

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
マルコによる福音書11章1〜11節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

クリスマスを毎年毎年お祝いし、二千年前にユダヤのベツレヘムにキリストが生まれ、長じて、人類の救いのために十字架の上で犠牲の死を遂げたということを、幾度となく聞き知っていても、それだけでは、主イエスさまを知っていることにはなりません。主イエスさまが本当にお生まれになる場所は、私たち一人ひとりの魂です。私たちの魂のうちにキリストを迎え、十字架を受け入れる時、クリスマスを本当の意味で知ったことになるのです。

これは、私が今年のクリスマス行事案内のチラシに載せたメッセージです。そして、きょうはそのキリストを迎える備えのシーズンの始まりです。きょうの福音は、私たちの心備えを促すために、イエスさまが都エルサレム、その中心である神殿に訪れる話であり、イエスさまの迎え方を教える話でもあります。
初めの1節に《一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき》とあり、結びの11節に《こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った》とあるように、きょうの福音はエルサレムへのイエスさまの到来とその意味を述べています。

イエスさまは、北の果てフィリポ・カイサリア地方で弟子たちに、ご自分の死と復活を初めて予告しますが(8章31~38)、それからはひたすら都エルサレムへ向けて南下する旅でした。エルサレムは壮大な神殿のある都であり、権力の集中しているところです。イエスさまはそこで神の国の福音を語ろうとしたのでしょう。
そしてきょうの個所でついに目的地に着いたことが記されます。それは、十字架に架けられる週の初めの日曜日のことでした。マルコの8節では《多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた》とあり、人々はイエスさまを迎えるのに、葦のようなものを道に敷いたように書いてありますが、ヨハネ福音書12章13によると、群衆はイエスさまを「ナツメヤシの枝」を打ち振って出迎えたとあります。この「ナツメヤシの枝」は、以前は「シュロの葉」と訳されていましたので、この日は昔から「シュロの日曜日(Palm Sunday 棕櫚主日)」と呼ばれています。
北から南へと旅をしますと、エルサレム(シオンの丘)の東にオリーブ山があります。その南のすそ野にベタニア村があり、その先、エルサレムにさらに近くにベトファゲ村があります。ベタニアはヨハネ福音書11章18によると、エルサレムから3キロ弱のところにあったとあります。マルタとマリアの住んでいた村です。
この日、イエスさまは弟子たち二人にこの村でロバを調達するように命じられたのでしょう。弟子たちが村に入りますと、イエスさまの指示どおりにことが進み、《まだだれも乗ったことのない子ろば》を連れてくることができました。
ところで、これから超えることになるオリーブ山は、旧約聖書のゼカリヤ14章4に、《その日、主は御足をもって、エルサレムの東にある、オリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く》とありますように、終わりの日に神の降り立つ山と謳われていました。したがって、当時の人々は、メシアがオリーブ山に来ると待ち望んでいたのです。
ここは、オリーブ山から、王が威風堂々と軍馬にまたがって都に入る、そういうイメージの場面ですが、イエスさまの場合はそうはなりませんで、ロバに乗りました。同じくゼカリヤ9章9に、《娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って》、とある通りです。
馬は力強く、見栄え良く、戦争に役立つ動物として使われましたが、ロバは栄光を現すにはふさわしくありませんが、粗食に耐え、暑さにも強い、荷役に役立つ動物でした。ただ人に仕える、目立たない、柔和な動物なんですね。
そのロバの中でも、まだ人に役立ったことのない子ロバが「主がお入り用なのです」と言って呼び出されます。子ロバにしてみれば、「何で私のような弱い者が呼ばれるのですか?私よりも他にもっとふさわしい人がたくさんいますのに」とでも言いたい気持ちだったのではないでしょうか。そんなふうに尻込みしたい思いは、実は使いに出された弟子たちにもあったことでしょう。自分はただのガリラヤの漁師であって、主イエスさまのご用をできるような器ではない、そんな大役は自分にはとても務まらないという思いです。しかし、主が必要としておられるのですから、その召しに従うのです。弱い私たちですが、いま子ロバとしての召しを受けているということを考えましょう。

弟子たちと集まった人々は、子ロバに乗ったイエスさまに歓呼の声を上げます。《ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ》。
この讃美の言葉は、礼拝の中で、聖餐の設定の言葉を聞く直前に歌うサンクトゥスの後半に用いられています。式文では「主のみ名によって来られる方をたたえよ。天にはホサナ」という言葉ですが、これはミサ曲ではサンクトゥス(「聖なるかな」の意)とは分けて、ベネディクトゥス(「誉むべきかな」の意)と呼ばれます。
ホサナは、ヘブライ語のホーシャナー(「私たちを救ってください」の意)をギリシア語に音写した言葉ですが、本来の意味は失われ、「ばんざい」というような歓呼の声として使われています。
イエスさまはロバに乗ってではありますが、オリーブ山から歓呼の声に迎えられて都エルサレムへと出発します。それは、まさに王が戴冠式に向かう姿、メシア到来の図です。期待と喜びに満ち満ちた出来事でした。

ところが、この話の結び11節では、急にそんな熱気は冷めてしまっています。《こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた》。あの歓声は城外でのことで、城内ではガリラヤから付き従ってきた弟子たちの他に気に留める者もいない、一人の参観者としてのイエスさまが描かれます。
このギャップは何でしょうか。巨大な神殿と極小の信仰のギャップ、民衆の待望するメシア像と神から来られた本物のメシアとのギャップです。人々はダビデのような王の到来を期待していました。ローマ帝国の圧政をはねのける者、力によって平和をもたらす者、軍馬に乗って凱旋する王であるメシアを待ち望んでいたのです。
しかし、イエスさまは、仕えられるためではなく仕えるために来た、人の救いのために自らの命を犠牲にする、力づくでなく柔和な仕方で平和をもたらす、借り物のロバに乗る、そういう本物のメシアだったのです。イエスさまは、この贖いのみわざを成し遂げるために、エルサレムに来られたのです。
このイエスさまを王としてその背中に乗せた子ロバのように、イエスさまを自分の人生の王として迎え入れるところから、本当の平和が広がっていくのです。アドベントの季節にこのことをしっかりと心に留めたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年11月20日 聖霊降臨後最終主日 「最後の審判」

マタイによる福音書25章31〜46節
説教:高野 公雄 牧師

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
マタイによる福音書25章31〜46節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

本日は、教会の暦ではマタイ年の最後の主日です。私たちは、マタイ福音書のイエスさま最後の説教を聴きました。続く26章以下はエピローグでして、イエスさまの受難と復活の物語になっていきます。
きょうの福音は、小見出しに「すべての民族を裁く」と付けられています。マタイ24章14に《御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る》とあります。マタイ先生の考えでは、福音が全世界に伝え終わらないうちに、「最後の裁き」は来ないとされているのですが、きょうの福音はその「最後の裁き」について述べています。

始めの31節《人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く》、これがマタイ先生によるこのたとえ話の表題です。
続く32~33節がたとえ話本体の舞台設定になります。《そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く》。羊と山羊はウシ科の動物で、互いに良く似ていて、旧約のヘブライ語では、羊と山羊ははっきりとは区別されませんが、山羊の方が羊よりも先に家畜とされたと考えられています。山羊はペットとして飼われるくらいに人なつこく、体も丈夫です。
羊の群れの中に山羊を混ぜておくと群れの扱いが楽になります。群れの先頭はオスの山羊が務め、首にベルをぶら下げて、群れを導きました。群れは、昼間は放牧されていますが、夜になると羊飼いは広がっている群れを囲いの中にかき集めます。羊は新鮮な空気が好きで、山羊は暖かさを求めるので、分けて集められます。
34節以下の話しによりますと、右側に分けられた羊は《さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい》と神の国に招き入れられた人たちを表しており、左側に分けられた山羊は《呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ》と断罪された人たちを表しています。これにならって、教会では、聖壇の奥に立てられた大きな十字架、イエスさま像から見て右手が優位の方角であって、福音の側、説教壇のある側とされます。ただし、私たちの教会では、何らかの理由によって説教壇はイエスさまの左手に置かれています。
日本では「左右(さゆう)」と言うように、昔は中国にならって左が優位の方角でした。天皇が左で皇后は右、左大臣は右大臣よりも優位でした。三月の雛飾りは昔はそのように置かれていましたが、江戸では和語で「右左(みぎひだり)」と言うように、右が優位の方角と考えられるようになり、地方により人によって雛人形の置き方が異なるようになったということです。
ところで、なぜ羊が良いと認められる人にたとえられ、山羊が良くないとされる人にたとえられるのでしょうか。それについては、キリスト教信仰がギリシア・ローマ世界に伝えられた当時、人々は山羊を多産・豊穣をもたらすものの象徴とみなして信仰の対象となっていたために、キリスト教の側では山羊を低くみなすようになったと考えられています。

いままで見てきた31~33節は、世の終わりのあり様そのものを伝えようとしているというよりも、裁きの中身、何が神によって決定的に問われることか、ということを語るための舞台装置のような役割を果たしています。このたとえ話は、世の終わりの裁きの様子やその客観的基準を教えるための話ではなくて、マタイ先生はこのたとえ話で、神の判断基準に照らして私たち自身の今の生き方を問いかけているものと考えられます。他の人たちがどのように裁かれるかということを知識として教えようとしているのではありません。
34節以下の物語によれば、最後の裁きで祝福を受けるのか、それとも呪いを受けるのか、その違いを生み出すのは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取ることができます。その人々に私がどう関わったのか、ということによります。そういうことだけであれば、どんな宗教でも言いそうなことであって、なにもキリスト教に限っての話しではありません。しかし、実はこのたとえ話では、イエスさまはそれ以上のこと、つまり新しい教えを述べています。
《すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」》。
イエスさまの右手に集められた人たちは、飢えたり渇いたりする者たちが「人の子」イエスさまであるとは知らずに、援助の手を差し伸べています。彼らは「最後の裁き」のことなど念頭になく、ただ憐れみを抱いたから、小さい人、弱い人、この世に生きにくい人を助けたのです。
40節と45節の人の子の言葉では、「最も小さい者にしたこと」と「わたしにしたこと」が同一視されています。なぜイエスさまは《わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスさまの十字架への歩みは、これらの苦しむすべての人と一つになる道でした。だからこそ、イエスさまはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのです。私たちは、目の前の苦しむ人の中に、イエスさまご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスさまの兄弟姉妹であることを深く受け取り、私たちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためなのです。

マタイ先生は、単に人間同士の連帯ということだけを考えていたのでしょうか。しかし、人はまずイエスさまを見、イエスさまを愛することを学んだ後でないならば、どのようにして「最も小さい兄弟」を見、かつ愛することができるでしょうか。マタイ先生にとっては、無限の赦しを受けたものが始めて、ゆるしに基づいて生き、かつその上で他人にもゆるしつつ出会うことを学ぶのです。それゆえ、み言葉に耳を傾けることも、実際に人に対して親切であることも、両方とも重要なのです。
信仰には十字架上の強盗のように(ルカ23章42~43)、信じつつ助けを求めることだけで成り立つ、未完成だけれども本物の信仰があります。しかしまた、それとは対照的に、そのもとである源泉を知らないままに、貧しい人たち、小さい人たちに対し、神の意志を行なうという形で成り立っている、これまた未完成ではあるけれども本物の信仰もあるのです。あらゆる愛の行為は、イエス・キリストご自身が貧しい人という形で私たちのところに来るという事実に基づいてのみ生きているのですが、しかしそのことは最後の審判になって始めてすべての人に明らかになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン