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2009年5月17日 復活後第5主日 「喜び」

ヨハネ15章11~17節
大和 淳 師

これらの事をあなたがたに語ったのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい.これがわたしの戒めである。
人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、だれも持つことはない。
わたしが命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友である。
わたしはもはや、あなたがたを奴隷とは呼ばない.奴隷は主人が行なっていることを知らないからである.わたしはあなたがたを友と呼んだ.わたしは父から聞いたすべての事を、あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない.むしろ、わたしがあなたがたを選んだのである.そしてあなたがたを立てた.それは、あなたがたが出て行って実を結び、あなたがたの実が残るためであり、あなたがたがわたしの名の中で父に求めるものは何でも、彼があなたがたに与えてくださるためである。
わたしがこれらの事をあなたがたに命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節) ― 「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるため」、そのために、キリストはわたしたちにみ言葉を語られる、全てはこのためであると言うのです。キリストの言葉、わたしたちがそれを聞くのは、まさにこの喜びのためなのだ、と。つまり、これは「今あなたがたの持っている不確かな喜びを全く揺るがない、確かな喜びとするために、わたしはこれらの言葉を語ったのである」、そういうことです。

と言うことは、キリストは、当然わたしたちの喜び、わたしたちが今持っている喜びとは、如何に弱く、不確かなものであるかを、わたしたちは本当には喜べないものであるということを、この方は本当によく知っておられるのです。いや、それどころかもっと直接に、19節では「世はあなたがたを憎む」、あるいは16章20節では「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」、その16章の終りでは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、そのようにキリストは言われるように、わたしたちが、今ここでは苦しみを持ち、泣き悲しむような人間であり、憂いて生活し、悩みを抱えて生きている、それがわたしちの真の姿であることを、本当に御存知であり、それ故、「喜びが満たされるため」、そうおっしゃっておられるのです。

ですから、わたしたちが、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」、このキリストの言葉に耳を傾け、自分のものにするということ、それは、でも自分のことを振り替えれば、どうしたって本当には喜べない、むしろ悩んだり、悲しんだり、苦しんでいるものであること、そういう自分であることを忘れて、謂わば無理にでも喜ぶ、喜ばなければならない、そういうことではないのです。

むしろ、それはこういうことです。わたしたちは、やはり喜べない、喜びたい、本当の喜びが欲しいのに、いやそれ故に悩んだり、苦しんだりする、悲しまなければならない、そういう自分であるということ、そのことを、この方の前に隠す必要はない、むしろそのようなありのままの自分を本当に思っていいのだ、ということです。それ故にこそ、キリストはあなたに言われるのです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」「わたしの喜びがあなたがたのうちにある」ようにして下さるのです。キリストご自身の喜びを、またあなたのものに、あなたの喜びとして下さるというのです。

ですから、思い切って主に言っていいのです。「でも主よ、どこに喜びがあるのでしょうか。このわたしの中に・・・。主よ、喜びを求めて様々なことをしてきたのです。でも、いつも喜びは裏切られました。泡のように浮かんでは消えました。だから思い悩むのです。苦しいのです。人一人も愛し通せない自分です。いや、自分自身さえ本当に大事にできないのです。だから、本当は忘れていたいのです。そんな自分を真剣に考えることは、ただあまりにも悲しいからです。あまりにも自分が惨めだからです。汚れてしみだらけの自分を取り替えることはできないからです。主よ、だから、あなたの言われるような、一点の曇りもない喜びは、今更どこにもないのです。わたしの中にも、わたしの周囲にも。」と。

そもそも、わたしたちが本当に喜べない、それは、たとえば、希望、本当に確かな希望を持っていない、それゆえ、今ある喜びも全くつかの間の喜びになってしまう、そう言えるでしょう。だから、それこそ今あること、周囲のことに常に引きずり回されてしまう訳です。他人と比べて、ああ何て自分は不幸だろうと思ったり、あるいはこの方はるかにが多いかも知れませんが、自分より不幸な人、みじめな境遇な人を見て、自分はまだましだ、いい方だとか思ったりする、そういうどこか気楽な人生を歩んだりする訳です。しかし、本当に確かな希望を持っていないがゆえに、たとえば災難や、あるいは周囲にちょっとした暗いことがあると、もう動揺してしまって、自分を見失ってしまう訳です。それは明日がない、本当の希望がないからです。だから、重い過去を引きずるようにしか、人生を感じられなくなってしまう、そう言えるのです。言い換えれば、本当の意味で明日がない、明日を感じられない、そういうところでは、逆につかの間の喜びというか、刹那的な人生観しか持てなくなる。人生が投げやりになっていく。それは今が楽しければそれでいいという風な生き方になりかねません。つかの間の喜びでしかなくなるわけです。

しかし、何と言ってもわたしたちが喜びを失うのは、この後、キリストが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と言われている、このことに関わります。つまり、わたしたちが喜びを失うのは、「たがいに愛し合う」ような、愛し、愛される、共にいる人間がいないときです。独りぼっちであるからです。つまり、こういうことです。たとえば、宝くじで一億円当たったところで、やっぱり自分ひとりだけでそれを使うことを考えれば、最初は嬉しいでしょうが、むしろ、大金を独り占めしようとし始めるなら、一億円は喜びであることから、苦痛、重荷になっていくでしょう。何故なら、喜びとは、本来誰かと一緒に喜ぶことだからです。あなたを喜んでくれる人がいる、あるいはまた一緒に悲しんでくれる人がいるということです。もっとも、それにも関わらず、一億円あったら、そんな浅ましい思いを持ち続けるわたしがいるわけですが・・・。

それで、9節でキリストは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」、そのように言われ、そして、だから「わたしの愛にとどまりなさい」と命じておられます。原文を見ますと、この「愛にとどまりなさい」という「とどまりなさい」という言葉と、この「わたしの喜びがあなたがたの内にあり」の「内にある」は同じ言葉です。一方でキリストの愛のうちに留まりなさいと言われ、同じように、ここではキリストの喜びが留まるためである、そう言われているわけです。実に愛と喜びは切り離せないものなのです。それが、このキリストであり、この神の愛なのです。そして、ここでキリストの言われる愛にしろ、喜びにしろ、ともかく主語は、全くキリスト、つまりこの喜び、あるいは愛する主体は常にキリストです。その意味では、わたしたちは、その愛、喜びを徹底してただ受けるだけなのです。つまり、一方的に、このキリストから、わたしたちに与えられる、やってくるものである訳です。実は、そのことがこの15章のはじめから一貫していることなのです。

少し振り返りますと、キリストは、はじめに「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、わたしたちに言われました。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と。わたしたちは、このキリストにおいて、キリストと言う「ぶどうの木」の枝であるとされていました。だから、このキリストにつながっていれば「豊かな実を結ぶ」(〃)けれど、もしキリストから離れるなら「あなたがたは何一つできない」(〃)。ここで、ともかくわたしたちはキリストから離れることはできないと言われている。「あなたがたは何もできない」、これは実にはっきりとした、強い言葉です。全く、ことごとく何もできないと言われるのです。したがって、もし、わたしたちが喜べない、喜びのないものに人生がなってしまっている、あるいは端的に愛することができないということ、それはただ、わたしたちは決して幹、木そのものではなく、一本の枝、折られてしまったら「投げ捨てられて枯れる」枝だからだと言うのです。しかし、わたしたちは、既にキリストというぶどうの木の枝なんだということ、いや、わたしだけではない、一人ひとり、わたしたちの目にはバラバラに見える一人ひとりが、同じ幹から命をもらって生きている、実がなるよう支えられている同じ木の枝なんだということ。 ですから、わたしたちはこの自分自身、この自分で「実を結ぶ」、そういう風に、あたかも自分自身が「ぶどうの木」であるかのように考え、生きている訳ですが、しかし、実はその自分の足元、その下に、このわたしが今このありのままで「実を結ぶ」ようにしっかりとわたしをつないでいるキリストという命の木、支えがあるのだ、ということ。だから、「喜びが満ちあふれる」、それはただこのキリストの愛、大きな力強い、そのぶどうの木に、枝として留まる、ただそれだけがここで求められている、あえて言えば、それだけでいいのだと。このキリストの愛のうちに生きる、しかも、わたしだけではない、すべての人が愛され、大切な枝として、わたしと共に生かされている、そのことを知ることが求められているわけです。

もちろん、最初に申しましたとおり、わたしたちの内には絶えず不安がある訳です。そうは言ってもこの木から、自分は離されてしまっているのではないか、というような不安、あるいは苦しみがあるわけです。あるいは、やはり自分は本当に人を愛することはできない、あるいは、むしろ、愛されていないのではないかという苦しみ、不安です。希望がないと感じる悩みです。孤独を感じる悲しみです。わたしたちの眼には、何と言っても闇の深さしか写らないからです。

しかし、そういうわたしたちに、このキリストは力強く、そのわたしたちのぶどうの木として、わたしと共にい給うのです。十字架という死の苦しみ、その深い人生の谷底まで降り給い、死さえも、この方から、わたしたちを離すことができないほどに、わたしを結び付けていてくれる、その愛を貫かれたのです。あなたの苦しみ、悲しみ、悩み、それはあなたひとりの、その枝だけの痛みではないのです。一つの枝、一本の枝の痛みは、そのまま木全体の苦しみであり、このキリストの苦しみであるのです。

全くに、このキリストは、それだからこそ、枝であるわたしたちなしには存在し給わない。幹のない、幹から離れた枝は枯れるように、しかし、またその幹、ぶどうの木は、枝なしには存在しないのです。キリストは、あなたなしにい給わないのだということ。わたしたちは、キリストというぶどうの木の枝であるということ、それは、キリストかわたしたちなしには存在しようとされないし、それ故にこそ、わたしたちはこのキリストなしには存在しないということなのです。 それ故、今日のみ言葉の真ん中で、こういうことが語られています。キリストは、このように言われるのです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」 ― この15章の少し前、同じヨハネ福音書10章では主イエスはご自身を「わたしは良い羊飼いである」とされ、わたしたちを羊にたとえられていました。そして、この15章の冒頭では今度は、ぶどうの木とぶどうの枝にたとえられました。それで、この羊飼いとぶどうの木の比喩を比較してみますと、羊飼いと羊の関係より、ぶどうの木とぶどうの枝は、更にキリストとわたしたちとの関係がよりはるかに緊密な、強く結ばれた関係として語られていると言えるでしょう。羊飼いと羊は、何と言っても別々の二つのもの、つまり、導く者と導かれる者、師と弟子の関係のように、親密であっても、しかし、両者には決定的に相違があると言わなくてはならないのですが、しかし、ぶどうの木とぶどうの枝は、何と言っても同じ一つのもの、どちらも一方を欠いては存在し得ないような、まさに一体化された、羊飼いと羊の関係より一層強い緊密な関係として、主イエスはわたしたちを見ておられるということ。そして、それに続く今日のこの箇所では、更に強まって更にその緊密さ、密接さを増すように「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、この方は、ご自身とわたしたちを更にもっと暖かな親密さの中に立たれる、そのようにわたしたちに中に踏み行って来られてくるのです。そのようにして、十字架のキリスト、復活された方は、わたしたちの希望、支えとしてわたしたちの中に立っているのです。

わたしたちの愛は喜びよりも、あるいはそれと同時に、どこかに必ず悲しみ、痛みを伴います。何と言っても不完全だからです。そのことは本当は、わたしたちを全くぶちのめすようなことです。どんなに人を愛そうとも、限界がある。相手に届かない、苦しんでいる兄弟姉妹を前に無力にならざる得ないのです。私事で恐縮ですが、長女を授かったとき、この子を愛する深い喜びを与えられました。しかし、まだその小さかった命を抱いていたとき、あぁ、やがて、この子と別れる時が来るのだ、そういうことを思ったのです。どんなに愛しても、限界がある、そのことにあらためて愕然としたのですが、だが、しかし、この子を、わたしを導くのは、このわたしではない、このお方がおられる。このお方が必ず、このわたしの不完全さ、いや、どんなに罪にまみれた愛であろうと、最もよきことを必ずしてくださる、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、だから、お前はなし得ることを最善を尽くすがいい。そのことを知ったとき、むしろ、限界があり、不完全であるが故に、弱さの故に、感謝と喜びがあることを知ったのです。「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、この主があなたの足元で、あなたを支え、いつくしみ、養ってくださっています。勇気をもって、わたしたちの前に立ちはだかる困難、闇に立ち向かっていきましょう。あなたはひとりではないのです。

2009年5月10日 復活後第4主日 「豊かに実を結ぶ」

ヨハネ15章1~10節

 
説教  「豊かに実を結ぶ」  大和 淳 師
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。
わたしにある枝で実を結ばないものはすべて、彼は取り去られる.そして実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶようにと、彼は手入れされる。
わたしがあなたがたに語った言のゆえに、あなたがたはすでに清いのである。
わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。
わたしの中に住んでいない者は、枝のように投げ捨てられて枯れてしまう.人々はそれを集めて、火の中に投げ込むので、それは焼かれる。
あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。
あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こうしてあなたがたはわたしの弟子となる。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した.わたしの愛の中に住んでいなさい。
あなたがたがわたしの戒めを守るなら、わたしの愛の中に住むであろう.それは、わたしが父の命令を守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである。

   「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」、そう主イエスは、言葉を切り出します。今日のこの御言葉において、父なる神が農夫としてたとえられていることは、しばしば見過ごしにされるのですが、父なる神は、ここではぶどう園の主人ではなく、あえて働く農夫にたとえられています。そして、「あなたがたは、その枝である」。
 

 そして、わたしたちは、ここでもう一つ、父、神は主人ではなく農夫であることと並んで、しばしば見過ごしにしてしまうのですが、ここで主イエスはまず、「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃっているのであって、ただ「わたしはぶどうの木」であると言われていないのです。「まことのぶどうの木」なのです。、このイエスが「まことのぶどうの木」であるのは、まさに父である「まことの」農夫がおられるからなのです。この父、「まことの」農夫があっての「まことの」ぶどうの木、そして、その「まことの」ぶどうの木あっての実なのです。そして、「わたしにつながっていなさい」、キリストはここでわたしたちにそうお命じになっています。この「つながっている」ということが繰り返し何度も語られま
す。それがここで主イエスが語ろうとされている中心に関わっていると言っていいでしょう。すなわち、5節「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」のです。

 「まことの木」である「わたしにつながっていなさい」。命令なのです。枝であるあなたがたは木であるわたしにつながっている、という現在形、単なる状態だけを語るのではなく、尚わざわざつながっていろという命令、呼びかけ、勧告、訴えがなされます。もし、この農夫の存在を忘れると、それは実に奇妙なことをイエスは言っておられるに過ぎなくなります。つまり、そもそも、わたしたちが枝であると言われているのですから、あらためて、その枝に向かって「わたしにつながっていなさい」と言うのは奇妙です。

  しかし、ここで大事なことは、このぶどうの木には、父、真の農夫がおられるということ、このぶどうの木を通して慈しみ、丹精こめて働いてくださる父、その父である神が、他のどれでもない、このイエスという「まことのぶどうの木」の農夫であるということなのです。この父にこそ、わたしたちはつながっていなければならないからなのです。つまり、このぶどうの木につながってさえいれば、あとは放って置いても、わたしたちは実を結ぶのだというのではないからです。このイエスというまことのぶどうの木には父と言うまことの農夫が働くからなのです。つまり、この枝がこのぶどうの木につながっている、わたしたちがこのキリストを信ずる、信じていることができる、いや、こうして生きているのは、それは枝であるわたしたちの業ではなく、実にこの農夫の業があるということ。イエスは、その父の働きがあるからこそ、ご自身、「まことのぶどうの木」であり、わたしたちは実をむすぶのだから、「わたしにつながっていなさい」と言うのです。ですから、枝が木につながっているのは当たり前のことなのに、その当たり前のことが当たり前でなくなっているのだ、それがわたしたちなのだ、そう言っていいでしょう。「まことの木」である「わたしにつながっていない枝は、そのまことの木から離れれば、最早枝ではなく、枯れ木、薪にするしかない存在になってしまう、ということです。つまり、木から離れても枝はしばらくは生きているかも知れない。だがやがて枯れて死んでいくのです。そこにあるのは死の世界、それがわたしたちの言う当たり前の世界なのです。あるいは、こう言い換えていいかも知れません。わたした
ちは、やがて枯れて枝にすぎないのに、あたかも、自分がぶどうの木そのものであるかのように錯覚しているのだ、と。

  ですから、「わたしにつながっていなさい」、そう命じられているイエスは悲しみに満ちておっしゃっているのかも知れません。何故、命から離れて平気でいるのだ、命に帰れ!命から離れるな、父に帰れ!悲痛な思いで叫んでおられる、そう考えていいのではないでしょうか。それ故にの命令形なのです。いえ、それだけではありません。むしろ、このことこそ、わたしたちがここで見なければならないこと、知らなければならないことですが、この「わたしにつながっていなさい」という主の命令、そしてここでただそれだけを命じてい給うこの命令は、何より、このぶどうの木につながっている、否、あの農夫がこのぶどうの木から成長させ、手入れしてくださっている、このわたしたちを、このまことのぶどうの木、主イエス・キリストから引き離そうとする力があるからです。このぶどうの木につながっていても、尚、そのような力、この世の力、死の力、その世界にわたしたちがあることをご存知であり、そして今や、この方ご自身,その力と戦い、勝利され給うからです。それ故、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)、そう言われるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」、これは強い言葉です。何も、です。

  ことごとく、一切なのです、Nothing!なのです。言うまでもなくそれが死、その力です!それがキリストから離れたところの世界なのです。 今、ここにいるみなさまの中に、この教会の群れにも、病や苦難を通して今まさにそのような死の力が襲ってきている、そして、その死の力と闘っている兄弟姉妹がおられのです。あるいは、肉親、ご家族がその最中にいて、共に苦しみ、闘っておられる兄弟姉妹がおられるのです。主はそれ故命じ給うのです、「わたしにつながっていなさい!」そして、わたしたち自身誰も、その力がこの肉体を、そして何よりわたしたち自身の心を蝕んでいこうとしているのを知っています。体が弱るとき、心も弱るのです。しかし、「わたしにつながっていなさい!」今やわたしたちが、それ故耳を傾けるのは、見上げるのは、そのように命じ給う方です。あなたがたは既にわたしにつながっている。父である農夫がおられるのだから。しかし、わたしはあえてあなたがたに言う、「わたしにつながっていなさい!」、命、目に見える死の力ではなく、命、わたし自身を見なさい!わたしは十字架にかかる、だがわたしは命、復活!農夫は最早農夫自身のためにあるのではなく、そのぶどうの木のためにあるように、今そのぶどうの木であるわたしが、その枝であるあなたがたのためにある。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11章25節)。わたしだけが復活であり、命なのではない。復活とは、あなたが生きることなのだ!あなたがわたしと共に、そしてそれ故、父と共に!「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15章5節)。

  「わたしにつながっていなさい!」、これは命の言葉なのです。何故なら既につながれているからです!たとえどれほど死の力がわたしたちを襲い来るとしても、それ故、「豊かに実を結ぶ」。命を結ぶ!今日、復活後第四主日、それは伝統的にはラテン語でCantate、「歌え」の主日。Cantate、「歌え」、それは詩篇98篇1節「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」のみ言葉からきています。そうです、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」からこそ、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」のです。先ほど、体が弱るとき、心も弱ると申しました。しかし、わたしたちは今は体が弱ればこそ、心を躍らせ、新しい歌を主に向かっていきましょう、この主につながっている一人ひとりの人生の、一人ひとりの命の歌を、主に向かって!「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」!

2009年5月3日 復活後第3主日 「Jubilate! たとえ悲しくても、喜べ!」

ヨハネ21章15~19節
大和 淳 師

彼らが朝食を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれら以上にわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの小羊を養いなさい」。
イエスはまた二度目に彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
イエスは三度目に彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロはイエスが三度目も自分に、「あなたはわたしを愛するか?」と言われたので、悲しんだ。そして彼はイエスに言った、「主よ、あなたはすべての事をご存じです.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、望む所を歩いた.しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯を締めて、あなたの行きたくない所へ連れて行くであろう」。
イエスはこう言って、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示されたのである。こう言ってイエスは彼に、「わたしに従って来なさい」と言われた。

今日、復活後第3主日は、古くは「喜べ Jubilate」と呼ばれた主日です。「喜べ」、イースターを迎えたわたしたちは今日そのように呼びかけられています。しかし、今日ご一緒に聴く福音書に登場するペトロにとって、キリストの復活と「喜び」、それは決して、当然のことではありません。何より、彼は、復活の主を前にして決しておおよそ喜べる人間ではなく、むしろ、それどころか、悲しんだ、悲しみに目を真っ赤にしている人間なのです。その「イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17節)。この「悲しくなった」と訳されているこの動詞のもともとの言葉は、強い心の痛みを表わす言葉です。たとえば、この言葉は、こういうところところで使われています。

マタイが記す、イエスが十字架にかかる直前、最後の晩餐のときのことです。主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」、そうおっしゃった、そのとき、「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(マタイ26:21-22)。その「非常に心を痛めて」と同じ言葉なのです。それは、いわば、良心の咎めによって引き起こされた心の痛みです。そして、まさにその時と同じ様に、ペトロは心を痛めているのです。しかし、その十字架の前のときの悲しみと、今ここでのの悲しみについて、決定的な違いがあります。今ここでのペトロの悲しみは、まさに復活のキリストの前での悲しみであるということです。すなわち、「わたしを愛しているか」、端的に愛のゆえに、愛によって引き起こされた悲しみであるということです。パウロは、この悲しみについてこう記しています、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)。「神の御心に適った悲しみ」、その復活の主の御前での悲しみは、Jubilate「喜べ」と呼びかけられる悲しみなのです。

そもそもペトロは何故悲しんでいる、何を心に痛めているのでしょうか。それはただ単に二度ならずも三度まで「愛するか」と問われた、それ故「主は、自分の主への愛を信じてくださらない、・・・自分の言葉を、わたしを信じてくださらない」、そう思ってのことでしょうか。もしそうだとしたら、それは、むしろ傲慢な思いがそこに潜んでいると言わなくてはならないでしょう。つまり「わたしは愛している、それなのに、自分を信じてくださらない・・・」、結局は自分の正しさに固執していることになるでしょう。もちろん、ペトロは、主イエスのこの「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」に対して、また彼もまた率直に「はい」と答えているように、他の誰よりもイエスを愛していると言えるのです。それは、このヨハネ福音書6章に記されていることからも確認できます。それはこの主イエスから「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)ときのことです。そもそも主を愛するとは、旧約聖書を含めて、聖書では信ずることと同じですが、いわば、その代表として、あなたがたもわたしから離れ去りたいかと問われたのに対し、ペトロは直ぐさま「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と答えたのです。そして更に、主が、ご自身の受難、十字架の死を予告されたとき、即座に「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と言ったのもペトロです。ペトロは、その時ただ自ら命がけに愛する、そのことを誓ったのです。全く激しい誓い、誰にも負けない愛であったのです。しかし、その結末は、何より、その時、主ご自身が「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、そのように言われた、そのとおりになったのです。

他ならないこの主ご自身の言葉、「鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、その主イエスが今あらためて三度、「わたしを愛するか」と問うた時、それはまた同時にこの「あなたは、三度わたしのことを知らないと言う」、その主の言葉が重なってペトロを揺り動かしているのです。それは、ペトロがただ単にあの夜の自分のしたことだけを思い起こして、ただそれを悲しんでいるのではありません。そうだとしたら、ペトロは「わたしを愛するか」という主の問いに直ぐに「はい」とは答えられなかったし、むしろ、「いいえ、そんな自信はわたしにはありません」としか答えられなかったでしょう。

三度キリストのことを知らないと言ったペトロ、しかし、今彼は三度、「あなたはご存じです」と答えるのです。彼は、たとえ悲しくても「はい、あなたはご存じです」と答えるのです。つまり、ペトロの悲しみは、ここでこういうことを語っているのです。〈主よ、他の誰でもない、あなたが、あなただけがご存知でした、わたしのすべてを。あなたはすべてを知っておられ、それでもあなたは、わたしを見捨てず、わたしから離れず、こうして今、わたしと相対してくださっています。主よ、わたしは誰にも負けないほどあなたを愛します。・・・。しかし、悲しく情けないことにわたしはあなたから離れてしまいました。でも、わたしは今分かります、わたしがあなたを愛したからではなく、あなたがわたしを最初に愛してくださったことを。あなたはご自身、そんなわたしの愛を少しも必要がないのに、そうして十字架にかかられたのに、今、まるでわたしの愛がなければならないかのように、わたしの愛を、わたしを求めてくださっています。主よ、あなたが一切をご存知です、わたしがあなたを愛していることを!主よ、あなたが知ってくださっている、それだけで十分です!主よ、あの夜のわたしであるからこそ、わたしはあなたを愛さずにはおれない、あなたと共に生きていきます!〉そのようにペトロは、たとえ悲しくても、ジュビリターテ「喜べ」の人間となったのです。復活の主と向き合って、主の愛に捉えられて生きていくのです。

それゆえ、このペトロが、ここで主イエスによって「わたしを羊を飼いなさい」、そのように立てられるのは、このペトロ自身の自らの後悔に由来するのではないのです。そうではなくて、まさにこの復活の主、キリストととの出会いだからこそである、そうヨハネ福音書は語る、このペトロの涙を、この復活の主との出会いの喜びの中で記す、わたしたちの心に刻み付けるのです。悲しみを抱く者よ、心に痛みを持ち続ける者よ、この主のみ前で泣け、思いっきり泣くが良い、そして「喜べ」、その復活者の招きを伝えるのです。
ですから、復活の主と向き合って生きる、それは、最早これまで熱心さがどれほど足りなかったかを主は問うのではなく、また、わたしたちがどれほどこれから勇気が必要か、どれほど信仰が強くなければならないかでもないのです。むしろ、おおよそ、逆なのです。そのようなわたしたちがなし得るかなし得ないか、もっと言えば、わたしがそのために死ねるか死ねないか、にあるのではないのです。むしろ、そのとき主から離れた人間 ― つまり、かつての彼自身に過ぎないのです。

要するに、キリスト教信仰とは、わたしたちが思いつめて、いちかばちかのようなことではありません。思いつめれば、いや思い詰めればこそ人間は愛するもののために死ねるでしょう。あのかつての特攻隊の若者たちは本当に真剣に、祖国のために、いや、実際はそうではなく、彼らは親や兄弟、妻や恋人、家族のために、少なくともそう信じて死んでいった、まったく純粋に!その純粋さは本当に心を打ちます!しかし、わたしたちの思う純粋さ、熱心さとは、またあの十字架の夜、ペトロのその愛が剣を抜いたように、他者の命まで奪うということもある、そのような悲しさを伴っているのです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)、パウロの言葉を思い起こさずにはいられないのですが、わたしたちの純粋さ、熱心さはしばしば、わたしたちを思いつめさせ、思い込みへと駆り立てる、その時、人はそこでどれほど非人間的になるのかを、わたしたちは経験します。昨今、耳にするどうしてこうも簡単に人が人の命を奪うことも出来るのか。そして他人事ではありません。わたしの日常生活の中で、いや、教会の中でも、自分の思いつめ、思い込みから逃れられず問題が起こる、自分に対してのみならず、家族に、他者に、非人間的にふるまってしまう。だが、それは一見強いように思えても、ペトロがあの夜身をもって体験したように日常性の中では音もなく倒れ、崩れ落ちていくのです。死、罪の力とは、そのようにわたしたちに忍び寄って来るのです。

そのような人間の純粋さがここで求められているのではないのです。実際、ここでの主イエスのペトロへの問いが、あたかもそのような純粋な殉教への招きとして解されたりします。確かに、ここには、このペトロ自身の殉教の死まで暗示されているからです。しかし、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」!そうです、「あなたは、わたしに従いなさい」、ただ従う、導く方に従う、問題はただそのことだけなのです。

今日の福音書は、先週の日課でありましたが、直前の21章1節以下の出来事と密接に結びついています。そこで復活の主は、そこでペトロたちにまず第一に、「子たちよ、何か食べる物があるか」と問われたのです。すると彼らは、「ありません」と答えざる得なかった。何もない、「ありません」とペトロたちは、この方に告白しなければならなかったのです、わたしたちは何も持っていません、と。つまり、ペトロは最早、あるかのようにふるまう必要はなかったし、ないことを隠す必要もない、役に立たないものであることを隠す必要はないのです。すべてはそこから始まるのです。わたしたちの無力、貧しさ、しかし、それは、「主の慈しみ」のもとにある無力であり、貧しさであり、無能さに過ぎません。そのようにして、わたしたちは、この復活の主、そのあふれる豊かさ、栄光の方の前に立っているのです。そして、ここでも同様にペトロを通して、わたしたちは更に深く主のみ前に立っています。ペトロはまた改めて、この主のみ前に今度は一対一で、まさに裸で、何もないままに立つのです。そして、できないことに思いつめてではなく、また出来ることに思い込んででもなく、まさにそのように、何もないわたし自身のままに!

そして、この前の出来事では「シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(7節)ことが記されています。そして、今日のここでは「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)と主は言われます。この「帯を締め」るという言葉は、もともとの言葉では、実は先の7節の「上着をまとって」と同じ言葉なのです。すなわち、彼は、今まで自ら「上着をまとって」「帯を締め」て今主の前に立っていました。しかし、主は言われます、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と。他の人、すなわち、主イエス自らが、今何もない、裸になった彼の「帯を締め」、彼を携えていくのです。

それを実に不自由な生き方と想像するとすれば、それは違います。これは、むしろ、解放の言葉です。自由へとペトロは召されているということです。彼の行きたいところに行こうとした時、彼はキリストを三度も否んでしまったからです。わたしたちも自分の行きたいところにいけることが自由だと思っていないでしょうか。しかし、どんな勇気も、豪胆さも崩れ落ちていく。本当の自由とは、出来ない、何もない自分を受け入れるところにあるのです。否、正確に言えば、そんなわたしが、それにも関わらず受け入れられているところから生まれるのです。あなたも、わたしも、このあるがままで!わたしたちは、このペトロに命じられた主の言葉に驚かずにはいられません。「わたしの羊を飼いなさい」。このペトロを、今やご自身の代わりに主は牧者として立てられるのです。主は、その彼を用い、必要とし続けてくださるのです。この主はどこまでも人間と共にあろうとされ、人間を愛し、求める神、それが故に死を乗越え、勝利された方であり給うからです。

このペトロと同様、主はあなたのすべてをご存知です。主イエスはすべてを知っておられ、それでも、あなたを見捨てず、あなたから離れず、あなたと相対してくださっています。この方はご自身、あなたの愛を本来少しも必要がないのに、そうして十字架にかかられたのに、今、まるであなたがいなければならないかのように、わたしを、あなたの愛を求めてくださっています。主が一切をご存知です、あなたが主を愛していることを、いや、主が一切をご存知である、それだけで十分なのです!だから、わたしたちは、この主を愛さずにはおれない、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか!」tp。

たとえこのわたし自身は悲しくても、いえ、今は悲しいからこそ、「喜べ(Jubilate)」の人間、この復活の主の愛に捉えられて、わたしたちは生きていけるのです!

2009年4月19日 復活後第2主日 「不信仰物語 ― 新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti) ― 」

マルコ16章9節~18節

 
説教  「不信仰物語 ― 新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti) ― 」  大和 淳 師
週の初めの日の朝早く、イエスは復活してから、まずマグダラのマリヤにご自身を現された.イエスはかつて彼女から、七つの悪鬼を追い出されたことがある。
彼女は、イエスと一緒にいた人たちが、悲しんで泣いている所に行って、報告した。
その人たちは、イエスは生きておられ、そのイエスをマリヤが見た、と聞いても信じなかった。
これらの事の後、彼らのうちの二人が、村へ入ろうとして歩いていると、イエスは別の姿でご自身を現された。
その人たちは行って、残りの人たちに報告した.しかし、彼らも信じなかった。
その後、十一人が食卓に着いていた時、イエスはご自身を現された.そして彼は、彼らの不信仰と心のかたくなさを、おしかりになった.それは、復活した後のイエスを見た人たちを、信じなかったからである。
イエスは彼らに言われた、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。
信じる者には次のようなしるしが伴う.彼らはわたしの名の中で悪鬼を追い出し、新しい言葉を語り、
蛇をつかむ.死に至る物を飲んだとしても、それは決して彼らを害さない.彼らが病人に手を置けば、病人はいやされる」。

 キリスト教会の古い伝統に、イースターからペンテコステ、聖霊降臨日までの毎週の日曜日に名前を付けて呼ぶ習慣があります。復活後第一主日の今日は、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」の主日、そして来週第二主日は「主の慈しみ(Misericordias Domini)」の主日、その後、「喜べ(jubilate)」の主日、「歌え(cantate)」の主日、「祈れ(rogate)」の主日、そして昇天主日を経て、「主よ聴き給えの主日(Excaudi)」、そうして「ペンテコステ・聖霊降臨日」を迎えるのです。

人は大切なものは名前を付けて呼びます。子どもは自分の気に入った、毎晩一緒に寝る友だちとなった人形に、まず最初に名前を付けてあげるでしょう。あるいは、以前、俵真智さんの「あなたがおいしいと言ったから今日はサラダ記念日」という俳句が有名になりましたが、人は特別な日に、特別な名前を付けてその日を覚えます。そのように、イースター後の最初の日曜日、それは「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」の主日と教会は覚えたのです。
キリストの復活、その信仰、それは何より新しく生まれた子どものように生きることなのです。「生まれたばかりの乳飲み子のように」(一ペトロ2:2)生きる、でもそれはどういうことでしょうか?デートリッヒ・ボンヘッファーは、そのことを、こんな言葉で教えています。「キリストの復活の奇跡は、[今この世にある]わたしたちを支配している死の神格化[絶対化すること]を根底から覆すものである。死が最後のものであるところでは、現世のこの生をすべてとするか、それとも現世をまったく空しいものとするか、そのどちらかでしかない。しかし、死の力が打ち破られたこと、つまり、死が支配するこの世界の真中にすでに復活と新しく生まれる奇跡が輝いていることが受け入れられるところでは、人はもはや人生に永遠を期待することなどをしない。むしろ、人生がわたしたちに差し出すものを受け取るのである。そこでは、人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方が生まれるのである」(D.ボンヘッファー「倫理学」より)。
 わたしたちは先週イースターを共に祝いました。共に礼拝を守り、祝いのときを共にしました。でもその祝いで終わったのではないのです。また「新しく生まれた者のように」生きる生活が始まっているのです。この普段の変わることのない生活、その生活が「わたしたちに差し出すものを受け取」っていく。「そこでは、現世のこの人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく」生を生きるのです。復活、それは、キリストがわたしたちの生活の中へ踏み込んでこられることだからです。復活とは、ただ単にキリストが死んで、再びよみがえったことだけを意味するのではないのです。わたしたちがこのキリストによって新たに生きる、わたしたちの復活、わたしたちの始まりなのです。

  そのことが、今日の福音書においても具体的に記されています。それで、あらためて、少し注意深く読みますと、復活後の出来事が一見大雑把に記されているように見えるのですが、そこにも大切な意味が込められていることに気づきます。

  まず、マグダラのマリヤ、そして、12節の無名の二人の弟子、これらの人々にイエスは現れたということ。そのような人々、マグダラのマリヤ、彼女はルカ福音書7章によれば「罪ある女」と呼ばれた人でした。そして、この名も無き二人の弟子、つまりペトロやヨハネのような主だった弟子たちではなく、無名の人の口を通して、まず復活の使信は伝えられたのだということ。罪深いもの、弱い者、軽んじられている者、主はそのような人々に現れた、共におられた。それが何より復活のキリストであったことが伝えられています。

  しかし更に、もっとわたしたちの目を引くことがあります。実に繰り返し、「信じなかった」という言葉が出てくることです。それは言ってみれば、イエスの復活を決して信じなかった、信じられなかった物語なのです。そして、何と言っても驚くのは、最後まで弟子たちの内誰一人「信じた」とは記されていないことです。これらのことから言えば、弟子たちは誰一人結局、信ずることの出来なかったまま、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と遣わされていったのです。しかし、それが、聖書がわたしどもに伝える復活信仰、復活体験なのです。
 何より復活のキリスト、この方は、いつも信じない者の中心におられます。復活のキリストは、信じる者、敬虔な者たちの間にだけおられるというのではない。罪ある者、信じない、心のかたくなな人間の友、その中心となられたのです。復活信仰とは信じられない者の信仰なのです。何故なら、復活のキリストは、十字架のキリスト、十字架にかかったキリストだからです。この方の十字架、それは、まさしく信じない人間、それどころか、この方に敵対する人間、その真ん中にこの方が、その罪を担って立たれた出来事でした。まさに、ご自身、信じない人間の中の一人、その中心となり給うたのです。
 この聖書の箇所は、実はそのように信じなかった物語を記すことによって、信じられない者である自分自身への痛みと共に、しかし、この復活のキリストは、そのわたしを決して見捨てないのだという、初代の教会の人々の喜びに満ちた体験、深い溢れる感謝の思いが込められた信仰告白でもあるのです。われわれは信じなかった。信ずることのできないものであった。しかし、主はあらわれた、その信じないわたしどものために・・・、そう聖書は語っているのです。
 もちろん、不信仰がいいということではありません。その後、こういうことも記されているからです。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(14節)。イエスは、不信仰と頑なな心をおとがめになった、この「おとがめになった」というのは、要するに叱られたということです。叱るのは見限った、見捨てたからではありません。むしろ、これは端的に愛です。不信仰を受け止めつつ、その不信仰を克服されようとする愛です。親が子どもの成長のために、今し得る限りのことに全力を尽くしてなすような真剣な愛であると言っていいでしょう。
 もちろん、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」、そういう言葉もここには記されています。そして、わたしたちは、そのことを厳粛にそのまま受け入れるべきであり、決して割り引いたり、軽んじたりしてはならないでしょう。しかし、そうだからこそ、このキリストは、わたしたちのために、真剣に、不信仰を叱って下さるのです。何より、そのためにこの方は十字架にかかり給うたのです。それは、全くわたしたちの不信仰の故にということです。それをご自分のものとし、ご自分に担い、わたしに代って戦い、克服されるため、わたしたちが一人も滅びないためでした。それは確かにそれほどに、わたしたちの不信仰は絶望的なものだということです。しかし、叱ってくださる主イエスがおられるからこそ、わたしたちには希望があるのです。

  ですから、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(16節)、この言葉も、わたしたちは、いわば脅しのように受け取る必要はないのです。こんな信ずることの出来ないわたしは滅びの宣告を受けるかも知れないとびくびくしながら生きるのではない、あるいは、だから抱えた罪を、それを隠して生きるのではないのです。主はその全てを既にご存じであり、しかし、それに関わらず、何より、ここに先立ってあるのは、わたしたちへの救いの約束、このお方を通しての愛なのです。何より、滅びの宣告より先立って、救い、恵み、今この方の叱責・愛が、主ご自身がわたしたちにはあるのです。ただこの主に目を注ぐ、「新しく生まれた者のように」ただこの主に目を注ぐ、それがわたしたちのイースターの信仰なのです。

  そして、ここでは、そのことと直ぐに並んで、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)と言う主イエスの命令が記されています。福音を宣べ伝える、伝道、宣教が命じられています。わたしたちは、この命令もまた厳粛にそのまま受け入れるべきでしょう。しかし、わたしたちは、この伝道、宣教とは、いわば他の人を信仰者に変えるようなことではないということをここでしっかりと心に留めておきたいと思うのです。つまり、伝道とは、あたかも確かな信仰の持ち主、いわば救われた確かな者が、別の確かではない、信じていない人間を上から下へと救ってやると言うようなことではないのです。主は、信じない弟子たちをあるがままに伝道へと遣わされたように、あるがままのわたしを見てくださり、そして恵み深くわたしたちを用いてくださる、遣わしてくださるのです。もう一度、最初にご紹介したボンヘッファーの言葉を思い起こして欲しいのです、「人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方が生まれる」。それを、伝道ということに置き換えて言ってもいいでしょう。つまり、伝道とは、人生がすべてか、それとも無か、というようなことではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方、そこから生まれるのです。

 良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方 ― それは言い換えれば、「あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることを許される。そのことを神に感謝せよ。何故なら、神は罪人を愛し、罪を憎み給う方だから」(D.ボンヘッファー「共に生きる生活」111頁)ということなのです。実は、これもボンヘッファーの「共に生きる生活」の文章からの言葉です。そこでボンヘッファーは、またこういうことを言っております、「自分の悪を抱いてただひとりでいる者は、全くひとりで孤立している。キリスト者が、礼拝を共にし、祈りを共にし、またともに奉仕することにおいてあらゆる交わりを共にしているにもかかわらず、互いにひとり孤立しており、交わりの最後の通路が開かれていないということがありえるのである。何故なら、かれらはそこで、なるほど信仰者として、敬虔な者としてはお互いに交わりをもっているが、しかし敬虔でない者として、罪人としての交わりを持っていないからである。敬虔な者の交わりの中では、何人も罪人であることは許されない。突然に現実の罪人が、敬虔な者たちの中に見出される時、多くのキリスト者の驚きは思いの外に大きいものがある。だからわれわれは、自分の罪を持ったままで、偽りと偽善の中に自分を閉じてひとりでいるのである。何故なら、われわれは確かに罪人だから・・・」(〃110頁)。

つまり、教会は、ややもすると、敬虔な者の交わり、正しい者の交わり、つまり、過つ者、破れたる者であることを許されなくなってしまうのだ、ということです。教会で、自分の罪の故に孤独でいることほど、この復活のキリストの真のお姿に相応しくないのです。そして、自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないのです。だから、わたしたちは、教会、他の兄弟姉妹が必要なのです。その中にキリストはおられからです。問題・罪のないキリスト者がキリスト者なのでありません。あるいは、問題のない教会が良い教会なのでありません。そして、罪に立派な罪もそうでない罪もないように、問題に立派な問題も、立派でない問題もないのです。教会が教会であるのは、共に重荷を、問題を担っていけること、あるがままのわたしを共に担ってくれる兄弟姉妹がいることです。ここに、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」ある教会があります。「良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めて」いく、わたしたちの教会が。
そのような教会の中にある者として、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」主と共に歩んでいきましょう!