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2019年11月24日 聖霊降臨後最終主日の説教 「証しをする機会」

「証しをする機会」ルカによる福音書21章5~19節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日は聖霊降臨後の最終主日、教会の大晦日と言われる教会歴の最後の日です。来週からの待降節、アドベントから教会暦は新しく始まるのです。新しい暦、新しい時を迎える前に、終末、世の終わりについて今日の福音書から聞きました。いずれの出来事も、もはや私たち人間には手に負えないことばかりです。本当にそのようなことが起こるのかどうかもよくわかりません。また、聖書から聞かなくても、世の終わりについての教え、あらゆるものが崩壊するという教えは、聖書以外にもたくさんあります。様々な終末についての教えがある中で、聖書では、主イエスが気を付けないさいと警告しつつ、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」と、そのような慰めを語っておられます。終末が避けらない、故に終末の只中を生きていく私たちに、終末は全ての滅び、単なる終着点ではないということを語っておられるのです。
 
 終わりというのは、英語でENDと言い、このENDというのは「目的、成就、完成」という意味の言葉です。ただ終わるのではなく、目的があり、その目的が成就し、完成するという意味があるわけです。この終わりを通して、終わりの只中を生きていく私たちに、神様は滅びではなく、救い(の目的)を明らかにされていくのです。これが聖書における終わりを迎えることの本質なのです。
 
 主イエスが世の終わりについて語られたきっかけは、5節、6節で「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」ということでした。この神殿というのはエルサレムの神殿で、ユダヤ教の中心的な祭儀、礼拝が行われていたところです。多くの人々が巡礼に来て、賑わっていました。ローマ帝国の力を借りて、当時ユダヤを支配していたヘロデ大王が実に約46年もかけて、この神殿を豪華絢爛に造り変えたと言われています。「見事な石と奉納物で飾られている神殿に見とれるほど」に、その偉大さが伝わってきます。この神殿は権力の象徴だけに留まらず、ユダヤ人にとっても自分たちのアイデンティティーとも言える象徴、拠り所となっていた所でした。彼らにとっての目に見える確かなところ、信頼できるものであると言えるでしょう。
 
 彼らの言葉と思いに対して、主イエスは「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」とはっきり言われました。そして、終末の徴について語り始めたのです。今ある確かな目に見えるもの、それに頼って生きている彼らの姿は、現代の私たちの姿と変わりはないかと思います。むしろ、より目に見えて便利な世の中になっているので、それらがいずれは崩さってしまうなどと、想像することもできないでしょう。ただ、いずれは終わりが来るということを私たちは知っていますし、主イエスが語られる戦争や環境問題、天変地異の前触れの中に、世の終わりを想像することが多くあるかと思います。それらがいつ起こるかはわからないけれど、その只中にあっても、神様の目的は変わることはないのだと主イエスは約束されているのです。
 
 主イエスは天変地異の前に起こることを12節から言われます。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」このルカによる福音書が書かれた時代は、迫害の只中にあり、多くのキリスト者が殉教した生と死の隣り合わせの時代でした。ここで言う証しとは、殉教という意味の言葉からきています。証しをするとは殉教することなのかと考えると、恐ろしくなるかもしれませんが、それはただ死ぬことを目的としているのではなく、キリストのために生きて、その命に自分を委ねて生きていくことであると言えます。神と共に、他者と共に生きていく姿であると言えます。単に自分を犠牲にするということではないのです。
 
 主イエスは最後に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われました。辛いけれど、我慢しろということではなく、これは積極的な待つ姿勢を意味します。ある人は忍ぶという字と、耐えるという字を次のように説明しています。「忍ぶは上からの愛で、覆う、かばうと言った姿、耐えるは下から支える、持ちこたえる姿である」と。これはどちらも自分ひとりではできない、耐えられない姿です。上からの愛によって生かされ、下からの土台、砦となる支える力によって、地に足をつけて歩んでいくことができるのです。それで、ここでの「忍耐」という言葉を原語で調べますと、ふたつの言葉から成り立っていることがわかります。ひとつは「重荷の下で」、もうひとつは「とどまる」という言葉です。合わせて「重荷の下で留まる」ということです。主イエスがぶどうの木のたとえ話で、「私にとどまりなさい」と言う招きの言葉を私たちに語っています。ぶどうの木である主イエスに、枝として私たちが結びつく、そこに留まるということです。主イエスが共におられるということは、忍耐するということでもあり、それが証しをするということになります。重荷のある現実の只中で、このキリストの愛に覆われ、愛の下に留まって、共に生きていくのです。
 
 また「命をかち取りなさい」という、この命は「魂」とも訳せます。単なる肉体的な命のことだけを指しているわけではなく、私たちの生き方、人生そのものと言えるかもしれません。私たちは昔の教会の中で起こっていた迫害を経験することがないかもしれませんが、この魂を蝕む様々な出来事が現代でも起こり、このことを経験しています。飢え渇きを覚え、希望を見出せない闇がこの現代社会の中でも蔓延っています。故に、目に見える確かなものに信頼を置き、時にいともたやすくその確かだと思っていたものに裏切られる経験をしています。命を、魂をかちとるために、何に信頼して生きていくのか、何を指針として己の人生の導き手とするのか。私たちはそのことを模索しています。
 
 その私たちに、主イエスは世の終わりの出来事を通して明らかにされていく神様の目的、神の愛の完成を示されました。根本からの支え、ぶれることのない神の愛こそが私たちひとりひとりの命、魂を支え、決して滅びることはないと約束してくださいました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13章4節、7節)とパウロは言います。この神の愛を、それぞれが与えられた賜物を通して形にしていくために、私たちは証しをして、他者と共に歩んでいくのです。来週からの新しい教会暦を、この終わりに向けての神の愛の完成を約束してくださっている主に喜びと信頼をもって、共々迎えてまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月17日 聖霊降臨後第23主日の説教 「跡継ぎ」

「跡継ぎ」 ルカによる福音書20章27~40節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 今日の福音書の中で、復活を否定するサドカイ派の人々が、ある女性の結婚生活を事例に、主イエスと復活の本質について議論しています。跡継ぎを残さないまま夫と死別した女性は、跡継ぎを残すために夫の兄弟とも結婚し、7人もの男性と結婚しました。この結婚の制度はレビラト婚と言って、その掟が申命記25章5節に記されています。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」(25:5~6)その家を絶やさないようにするため、妻はその家の一族の者と再婚しなくてはならないということでした。
 
 この女性には跡継ぎを残すという結婚のプレッシャーがあったのかもしれません。子宝に恵まれず、夫と死別し、夫の弟とも結婚し、子宝に恵まれず、夫と死別し・・・ということを7回も繰り返し、その都度悲しみや苦しみを背負わなくてはならなかったでしょう。心から結婚の喜び、子宝に恵まれる喜びを感じることはできなかったのかもしれません。ただ、サドカイの人々は、女性の結婚生活の中身より、復活があるならば、掟に従って、7人の夫を持った女性は、復活したら、どの男性と夫婦関係を結ぶのかということに関心を持っています。
 
 彼らの問いに対して、主イエスは、結婚関係はこの世限りであって、復活に与る次の世においては、そのような関係はもう生じないとはっきりと答えられました。それは、この世の習慣が次の世において、そのまま続くことではないということです。私たちの習慣や価値観の延長線上に復活の時がやってくるわけではないということです。
 
 私たちも復活について考えることがあります。復活というよりも、「死後の世界」についてと言った方が、現実味があるかもしれません。そう、私たちは死を迎えるということを知っているから、その後の状態について関心を持つのです。不安な思いから、そう訪ねたくなると言う思いもあるでしょう。しかし、復活について考える、関心を持つということは、いずれは死を迎えるという先の出来事に対することだけでしょうか。
 
 主イエスは結婚の制度を含め、復活の時には人間の価値観などは及ばないとだけ言っているわけではないのです。36節でこう言われます。「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」人は神によって生きるものであり、神との交わりの中で生かされる。天使に等しい者、神の子というのは、まず神様に属するものとしての命の生があると言えるでしょう。それはまた神様の愛の中で生かされているということです。
 
 この女性の結婚生活の中における彼女の心情はわかりませんが、ここには跡継ぎをもうける義務や、イスラエルの名を絶やさないための兄弟の義務といったものがこのレビラト婚という結婚制度の中に示されていますが、このレビラト婚に関連するお話が他にもあります。旧約聖書の創世記38章にユダとタマルのお話があります。ユダはアブラハムの孫のヤコブの息子で、イスラエルの12部族のひとつ、ユダ族の祖先にあたる人です。主イエスの時代のユダヤ人は、このユダ族の血筋を最も深く受け継いでいます。ユダと妻の間には3人の息子がいて、長男がタマルと結婚しますが、跡継ぎを残さずに長男は死んでしまいます。そして、彼女はユダの次男と結婚しますが、次男も彼女との間に跡継ぎを残さずして、死んでしまいます。相次ぐ二人の息子の死をユダは悲しみ、すぐに死んでしまう息子たちの死因はタマルにあるのではないかと疑い、ユダの三男であるシェラはまだ成人していないと説明してシェラとは結婚させず、彼女を実家に帰してしまいます。しかも、シェラが成人したあとも、ユダは嘘をつき、タマルと結婚させません。その結果、タマルはやもめとなり、厳しい生活を送っていくことになります。しかし、その後ユダの妻が亡くなり、喪の期間が明けた頃、タマルは遊女の姿となってユダを誘い、ユダの私物であるひもの付いた印章と杖を預かります。ユダはタマルだとは知らず、遊女の姿となったタマルと関係をもって、彼女との間に子供をふたり設けますが、もちろんユダはその事実を知りません。三か月ほどたって、タマルが姦淫の罪を犯し、身ごもったとの知らせがユダのもとに入ると、ユダは怒って、焼き殺してしまえと言いますが、タマルはユダの使いのものに、「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」と告発し、姦淫の相手がユダであることがわかってしまいます。ユダは自らの罪を告白し、タマルとの関係は持ちませんでした。タマルはふたりの息子を産んで、育てていきます。このユダとタマルの間にできた息子たちがユダ族の一族となり、やがてダビデ王が誕生し、イエスキリストがこのユダ族から誕生するのです。
 
 このドロドロとした物語において、ユダの罪やタマルの執念という姿が見れますが、誰が正しく、正しくかないかというより、掟にこだわり、嘘を隠し、それに振り回され続けた人間の苦しみと悲しみが描かれています。そのような罪の姿がそのままに描かれています。体裁を保つために生きているのか、ただ子供に恵まれれば良いのか。私たちもまた何をもってして生きているのかということを考えます。
 
 主イエスは「罪からの救い」をもたらすために、このユダ族の中から、一人の人として生まれ、罪の只中に神の子として、私たちの只中に来てくださいました。罪があるままに人を迎え、私たちと共におられ、私たちを愛し、共に生きて下さる方なのです。
 
 天使に等しい者、神の子とされるというのは、神様に属するものとされる、つまり罪が赦され、神様の愛の内に迎えられ、生きているものです。罪故に裁かれて、死んで終わりではないのです。私たちはこの世にあって、そここそ掟などの人間の習慣の中で生きています。喜びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみも背負って生きています。ユダやタマル、またサドカイ派の人や、7人の夫をもった女性と同じような体験をして生きています。罪を犯して、罪の上にたって自分の生を保っている姿もあるのかもしれません。それは自分が自分のために生きるからです。しかし、私たちが神によって生きるものとなるために、主イエスは十字架に死なれ、復活しました。私たちが罪赦されて、神の愛のうちに生きるためです。
 
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と主イエスは約束してくださいました。神に生きる、神に対して生きる、それは神様との関係において、交わりにおいて生きるということです。ただ神様から生かされているということではなく、神様が私たちに関わって下さる、愛してくださっている真実において、私たちが真に生かされているということを知るのです。
 
 パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱでこう言います。「すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(5:15)死んで復活してくださった方のために生きる、それは復活の命をもたらすキリストの内に私たちが生きていくということです。神の子とされ、天使のような存在として神に従って生きていくということです。人の価値観を越えた神の赦しの愛に招かれて、神に対して、今与えられている自分の命を各々歩んでまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。