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2019年12月22日 降誕祭礼拝の説教 「光と共に」

「光と共に」ヨハネによる福音書1章1~14節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 皆様、クリスマスおめでとうございます。新しい元号である令和初のクリスマスを共に迎えることができたことを感謝いたします。新しい時代の幕開けとなりますこの時に、クリスマスの喜びと恵みを共に聖書の言葉、神様の言葉から聞いて、受け止めてまいりたいと願います。
 
 クリスマスは冬至の季節、すなわち一年間で最も夜の長い日に迎えます。ですから、クリスマスは暗さ、闇が最も極まる時でもあるのです。その極まった深い闇に、すべての人を照らす真の光である救い主イエスキリストが来られ、この光は暗闇の中で輝くのです。
 
 さて、今日の福音書の冒頭にはこう書いてあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」「言」が繰り返されています。言から始まり、言葉の内に命、光があります。そして、1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあるように、言は神であると言います。だから、神の言によってすべての命が造られ、すべての命を愛し、育む、神様の慈しみと憐れみに覆われた光が照らされているのです。
 
 言葉とはヘブル語で「ダーバール」と言い、そのダーバールには他に「出来事、事柄、行為」という意味もあります。言葉はただ発するだけでなく、出来事となる。だから、神の言葉とは、言ってみれば行動する神ご自身でもあるということです。この言葉によって万物が造られ、私たち人の命が造られた。造った者と、造られた者との結びつきを表しているのが、言葉なのです。
 
 旧約聖書の詩篇119編105節に、こういう言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」わたしの人生の歩み、道、その道案内と言いましょうか、ナビと言いましょうか、それは神様、あなたの言葉そのものですと言われるのです。わたしの歩みは楽しく、喜びに満ちているから光が照らされているのではなく、わたしの人生の全ての出来事の中に、あなたの言葉が及ばないところはない。あなたの言葉が照らすことができない闇などないと言わんばかりに、この作者はこのように告白するのです。この光がどのような私の人生の歩みも照らす共にある光であって、必ず目的地へと導き、自分を支えてくれる約束の光なのです。今日の福音書の9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあるように、世とは私たちの生きるこの地上の世界、私たちひとりひとりの歩みの只中と言えます。その中に来て、すべての人、ひとりひとりを照らし、この光からもれる者はないのだと言うのです。神のみ言葉は私たちの歩みの光、私たちの歩み、人生そのものが光であると言わんばかりに、この光は私たちと共にあるのです。
 
 神の言葉の光について、14節ではこのように言われています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」肉というのは、弱さやもろさを意味します。限りあるものです。それは現実に生きる人を意味します。言は肉となった。神様の出来事は肉において成ったのです。それは、神が人となったという出来事であり、クリスマスの本当の意味、クリスマスの出来事なのです。神がもろく、弱く、小さく、限りある人となった出来事。だから「わたしたちの間に宿られた。」と言うのです。私たちから遠く離れた別次元の世界で、人となったのではなく、私たちと同じ現実の歩みの中にある一人の人として宿られ、この世界にお生まれになったというのです。この肉となられた方がすべての人を照らす光、私たちと共におられるイエスキリストなのです。
 
 この神様が顕された栄光を私たちは見ている。目撃者であると言います。その栄光は恵みと真理とに満ちていた。と言います。言葉が肉となって、肉なる世界全体に恵みと真理とが満ち満ちている。すべての中に、肉なる方、主イエスによって真理と恵みに満たされている。私たちひとりひとりの歩み、命はその中にあって、ちゃんと養われているのです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光」。主イエスがわたしの道の光であり、命の道しるべです。主イエスご自身が「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)方なのです。
 
 さらに、マタイによる福音書で主イエスは言われます。「あなたがたは世の光である」(5:14)と。自分たちもその光を輝かせていく大切な存在であるとまで言われるのです。ですから、私たちはこの人となられた光にただあやかるだけでなく、この光を受け取って、光と共に生きていくものとされているのです。
 
 光は言から造られ、言は肉となった。そこに恵みと真理が満ちています。私たちと同じ人となられ、飼い葉桶にお生まれになられたイエスキリストが今日私たちに与えられ、すべての人を照らす光としてもたらされました。この光を心に灯して、クリスマスからのまた新しい一歩、令和の新しい時代を共に歩んでまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年12月15日 待降節第3主日の説教 「見出される希望」

「見出される希望」マタイによる福音書11章2~11節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 アドベントクランツの3つ目のロウソクに火が灯り、待降節の第3主日を迎えました。クリスマスの喜びが間近に迫っております。改訂聖書日課に従い、今日の福音書の箇所も変わっておりまして、マタイによる福音書11章2節~11節から、先週に引き続いて、洗礼者ヨハネの物語から御言葉を聞きました。
 
 洗礼者ヨハネは、荒野という作物があまり育たない人里離れた寂しい場所で、神様の言葉を宣べ伝える預言者であり、伝道者でした。その荒野で、禁欲的な生活をし、神様との交わり、歩みに集中するために、障害となるものを取り除く生活をしていました。彼の教えは非常に厳しいものでした。人の罪深さ故に、神様の裁きは差し迫っているから、今こそ悔い改めて、神様の方に向きを変えなさい。あなたがたの生き方、生き様について、自分中心の生き方ではなく、神中心の生き方に方向転換しなさいとヨハネは人々に神様の言葉を叫び、宣べ伝えました。宗教指導者たちに対しても容赦はしませんでした。自分たちの宗教的熱心さに陶酔し、神様の御心、正しさではなく、その熱心さ故の自分の正しさ、信仰深さばかりを追い求める彼らを糾弾しました。さらには、時の権力者であるヘロデ王に対しても、躊躇することなく、彼の罪を指摘しました。彼は自分の弟の妻を自分の妻とする罪を犯し、そのことをヨハネは指摘し、糾弾したのです。その結果、ヨハネはヘロデによって捕らえられ、地下牢に幽閉の身となってしまいました。ヨハネは牢獄で、自分の身に起こった理不尽さを嘆いたのではなく、ヘロデの罪が勝利し、己の権力を行使して、人々の生活を圧迫させ、恐怖と不安に陥れていた罪の現実を嘆いていたのでしょう。このヘロデの罪に対する神様の御業を、裁きの御業がもたらされることを望んでいました。その御業をもたらす救い主を彼はずっと待ち望み、そして、主イエスの中に、その救いの御業を見出し、希望を見出したのです。主イエスはヨハネが捕らえられた時期に、伝道の旅を始められました。その出来事をヨハネの弟子たちを通して、逐一聞いていたのでしょう。
 
 ヨハネは主イエスの活動、出来事を全てキリスト、すなわち救い主のなさったこととして理解していました。神の言葉を伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を起こし、人々と寄り添い、人々の現実世界に踏み込まれて共に歩むようにして、主イエスは伝道活動をしていました。しかし、主イエスは人々の罪に差し迫っている神様の裁きについては、触れることがありませんでした。その裁きを起こそうとされる気配もありませんでした。自身の罪故に、ヨハネを捕らえ、人々を圧迫しているヘロデ政権が打ち倒されようとされる気配が全くないのです。神様の下に立ち返ろうとしないヘロデに、キリストは神様の裁きを下し、キリストによって神様の正しさが真理となって顕になることをヨハネは信じていたのです。主イエスはそういうキリスト、救い主ではないのかと。
 
 それで、彼は遂に弟子たちを派遣して、本人に直接訪ねることにしました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」この言葉にはヨハネの疑いとも失望ともとれる気持ちが伝わってくるかもしれません。来るべき方、何が来るかと言うと、神様の正しさ、神様の真理です。その正しさ、真理が、キリストである主イエス、あなたそのものに現わされている。あなたの伝道活動、あなたの生き方、歩みそのものが神様の正しさ、真理ではないのか。故に、あなたこそが真に私たちの来るべき方ではないのですか。ヨハネの中には疑いや失望もあったかもしれませんが、この言葉の中には彼の真剣な思いが込められています。違うのであれば、尚、他の方を待ちづける必要があるのでしょうか。これも真剣な問いです。
 
 主イエスはヨハネの弟子たちに答えました。その答えは、主イエス自身に向けたものではなく、あなたがたが見聞きしていることであると。主イエスは言われます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」これが、あなたがたの只中に来られた来るべき方の徴。神様の真理であると。もしかしたら、ヨハネの弟子たちはこの方々にお会いしたのかもしれません。来るべき方がどういう方であるかということを、この方々を通して顕にされているのだと。
 
 先週の聖書を分かち合う会では、詩編145編を読みました。145編はユダヤの民たちが日常の祈りとして、とても大切にし、常に祈られていた詩編ではないかと。またキリスト教でいう主の祈りに近いものであると解説いたしました。この145編の8節と9節にはこう記されています。「主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」ここにはユダヤ人と異邦人の区別はありません。神様に造られたすべての人、私たちひとりひとりを憐れんでくださっている主のお姿が、神様の真理があるのです。そして、神様は罪故に私たちを裁いて滅ぼす方ではなく、忍耐して、慈しむ方であるとのことなのです。神様が忍耐されるのです。このことは、ヨハネの理解を越えています。そして、私たちの正しさ、期待をも超えています。私たちの不平不満を聞いて、私たちの正しさに立ち、私たちの期待通りに神様は御業を行う方ではないのです。
 
 忍耐され、すべての人を慈しみ、憐れみをもってして、私たちを愛し、養ってくださる方が神様であり、来るべき救い主なのです。私たちの罪、小ささ、弱さ、病、欠けているところ、そのひとつひとつを排除して、完璧な人にされるのではなく、それらに憐れみをもってして接してくださり、癒し、心を満たして、立ち上がらせてくださり、共に歩んでくださる方なのです。来るべき方がもたらす神様の御業、真理は、私たち一人ひとりが主の目に値高く、かけがえのない大切な存在であると言うことです。そのために、神様は惜しみなく、私たちに与えてくださる方であり、満たしてくださる方なのです。貧しい人は福音を告げ知らされている。福音とはグッドニュース、喜びの知らせです。ある人は解放の知らせとも言いました。囚われているところからの解放の喜びです。私たちの叫び声、飢え渇き、心の闇の只中に来られ、ひとりひとりを慈しみ、憐れまれて愛することを止めませんでした。止まることなく、躊躇することなく、また上から押し付けて裁くためではなく、惜しみなく、私たちを愛しぬくために、来るべき方は来てくださるのです。
 
 行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。このことはヨハネに、そして私たちに告げられています。私たちも見聞きしていることを伝えていくのです。主の慈しみと憐れみに満たされている自分自身の救いの体験を伝えていく。何か難しい教理を解説することではなく、私の人生の只中に来られ、共に生きて歩まれ、喜びも悲しみも共に担ってくださる主イエスキリストの福音を伝えていくのです。だから、教会の伝道は、私たちの救いの体験そのものなのです。先日Kさんと話しをしていた時に、Kさんが伝道とは生き様であるとおっしゃっていたことが印象に残っています。本当にそうだと思います。何か活発なことをしたりすることではなく、根本は私と神様との関係におけるひとつのひとつの出来事によるものなのです。
 
 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、」。私たちが待ち望む救い主は私たちに喜びと解放をもたらしてくださる方です。私の思いや期待を越えて、主の憐れみは深く、恵みに富んでおられます。その来るべき方を、私たちのためにキリスト、救い主となってくださった方を、喜びをもってして迎えたいと願います。ヨハネによる福音書にはこう記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書3章16~17節)裁くためではなく、一人一人を愛するために。これが神様の真理、私たちを立ちこしてくださる来るべき方がもたらしてくださる希望の光なのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。