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2019年12月1日 待降節第1主日の説教 「夜明け」

「夜明け」 マタイによる福音書24章36~44節 藤木 智広 牧師

 
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 新しい教会暦を迎え、本日からクリスマスまでの4週間の期間をアドベントと言います。アドベントというのは、ラテン語で到来する、近づいてくるという意味の言葉です。到来するのは救い主イエスキリストであり、主イエスを待ち望み、お迎えすることがアドベントの意味です。このアドベントは英語のアドベンチャー(冒険)の語源になった言葉だと言われています。
 
 アドベンチャー、冒険と聞けば、まだ訪れたことのないところに行ってみたり、誰もやったことのないことに挑戦してみたりなど、自分から何か新しいことをしていくというイメージがあるかと思いますが、ある人はこう言います。「アドベンチャーとは、突然目の前に起こった予期せぬことを受け止め、自分自身を変革させること、その経験を通して新しい人間になることを意味していた。」と。自分の意志で何か新しいことに挑戦していく、していかないに関わらず、私たちの日常生活の只中においても、誰しもが突然目の前に起こることを体験し、戸惑うこともたくさんあるでしょう。様々な出来事を体験し、そのひとつひとつを受け止め、新しい自分にっていくことがアドベンチャーであると言います。ですから、私たちが主イエスを待ち望むこのアドベントという季節は、クリスマスの準備等で忙しく、楽しみに暮らしていく季節であるのと同時に、様々な突然の喜びや悲しみ、苦しみを体験する日常生活の中で、この主イエスこそが私たちを活かす神の言葉であり、必ず私たちのその様々な出来事の只中に来て下さり、私たちを恵み、導いてくださることに望みを置いて、歩んでいく季節なのです。ただ待つのではなく、望みをもってしてこの救い主を一人一人が心からお迎えしていくのが、このアドベントの時を歩んでいく私たちの姿なのです。
 
 さて、今日は最初のアドベントの主日です。聖書日課の改定に伴い、お聞きした福音書は、例年とは違う個所で、マタイによる福音書の24章冒頭から主イエスが語られている終末の徴です。私たちは先週の聖霊降臨後の最終主日の礼拝で、終末についてみ言葉を聞きました。終末の終わりという言葉は、目的、完成という意味の言葉で、様々な苦難や天変地異が起こっていく只中にあって、神様は私たちに向けて、その只中で神の愛が完成する終わりについて語られました。一連の終末の出来事は避けられませんが、髪の毛一本ですら失わせないという神様の愛の目的を私たちは聞きました。この神の愛に望みを置き、主に委ねて生きていく私たちに、神様は人の子である救い主を送ると約束してくださいます。
 
 では救い主はいったいどこに来るのか。今日の福音書の冒頭を読みますと、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」と主イエスは言われます。この終末の日はいつ来るか、主イエスですらわからないと言うのです。その日、その時とは一連の終末の出来事に他なりませんが、すぐ前の35節には、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と主イエスは語っています。天地の滅び、それは神様がお造りになったこの世界であり、私たち一人一人です。私たちも有限なる存在であり、永遠ではありません。やがて死ぬ時がきます。その日、その時はわかりません。ずっと後のことなのか、もしかしたら明日のことかもしれません。わからないけれど、いずれは来る。しかし、神の言葉は滅びないと言われます。主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けられた時、主イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と。神の言葉と私たちが無関係ではないのです。むしろ、私たちの存在そのものがこの神のいのちの言葉によって成り立っている。そもそも、この天地だって、神様の創造の御業であり、私たちが自分たちで造ったものではないのです。今見に見えるものが全てではなく、見えなくても、私たちをちゃんと生かしてくださり、支えてくださる神の命の言葉は私たちにしっかり向けられているのです。滅びの時がくるのを天の父だけはご存じであるが故に、その滅びを貫いて生きていくための命の言葉を私たちに授けてくださっているのです。
 
 主イエスは「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と言われ、ノアの洪水が来た時に誰も築かなかったあり様と同じく、人の子が来るときも、このノアの洪水の時と同じであると言われるのです。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。」とあるように、人々はいつもの日常の日々を送っていました。人々はノアの言葉を信じず、洪水なんてくるわけがないだろうと思っていたわけです。そんなこと信じられるわけがない。ノアは箱舟を作っているが、私たちは日常生活を送ろうではないか。そんな声が聞こえてきます。そして洪水に飲まれてしまいますが、彼らを愚かであると一方的に思うことができるでしょうか。人の子が来る場合も、このようであると言われる時、主イエスも人々から疑われるということにおいてノアの姿と重なりますが、さらには逮捕され、弟子たちからも見捨てられ、最後は十字架にかかって死んでしまうのです。
 
 しかし、主イエスご自身の死という滅びがただここで語られているわけではありません。滅びに備えて、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりするなと言われているわけでもないのです。食べたり飲んだりというのは、天の父が備え、与えてくださる恵みです。空の鳥が蒔くことをしなくても天の父がその鳥を養ってくださるように、食べ物や飲み物は私たちの肉体を生かしてくださる父からの恵みであり、愛です。人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる。神の言葉を聞くためにパンを捨てろと言っているのではないのです。そのパンを与えてくださる天の父に感謝の思いを向けて生きていくこと。その感謝の日々を忘れてはならないということです。
 
 それで主イエスは42節で「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」と言われます。主人は必ず帰ってくるから、目を覚ましていて迎えなさいと言われます。今日の第2日課のローマの信徒への手紙で、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」とありました。夜明けは来ているのだと言います。主人である主イエスが来て下るという救いはもう近くまで来ている。それまでは夜の闇の世界の如く、不安や恐れが蔓延っているという姿が私たちにあります。先の見えない絶望は暗闇そのものです。その暗闇の只中に光はもう射し込んでいるのだと言われます。私たちが抱える日常の予期せぬ出来事の只中に、あたふたし、戸惑ってしまう私たちの姿を主はご存じです。故に、主イエスも私たちと同じ人となられて、私たちの日常の出来事ひとつひとつに関わられ、共に歩んでくださるために、私たちの闇を照らす曙の光として、既に近くまで来ているのです。
 
 だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。と聞きました。武具を身に着けるということは、そこに戦いがあるからです。単に闇を打ち砕く戦いというよりも、光を受け入れるための戦いであると言えるでしょう。だから、光の武具である主イエスを身にまといなさいと言われるのです。今日の福音書には強盗の姿が描かれていますが、私たちを脅かす闇の力が私たちの心と魂を蝕み、飢え渇きをもたらします。強盗はその象徴です。いつ、そのようなことが起こるかわからない、不安定な世の中を私たちは生きています。目を疑うような凄惨なニュースが連日流れ、他人ごとではない真実に目を向けさせられます。時に他者を思いやる心すら忘れてしまう私たちの心の焦り様、余裕の無さが垣間見えます。主イエスは私たちに光である神の武具を身につけなさいと言われました。光の武具である神の言葉、光を身に着けよと。光である主イエスを身に着けて、闇を知り、闇と向き合えと言います。思いもかけないことを受け止めて、そこにこそ照らされる神の光に希望を持ち、己の闇を照らしていくのです。主イエスを迎えて、照らしていくのです。そのようなアドベンチャーを体験するものとして、私たちはこれからのアドベントの季節を歩んでまいります。誰しもが冒険者として、それぞれの日常生活、人生の中で思わぬ出来事を体験するでしょう。その中で、目を覚ましていない。主イエスという光の武具を身に着け、神の言葉に聞き続けて生きていきないと。そして私たちもその光の武具を通して、主イエスの光を反射して、他者への思いやりの心を回復し、共に歩んでいくのです。主イエスの光を今度は私たちが、それぞれの賜物を持って、照らしていくのです。自分が目立つのではなく、他者の心に灯を灯すようにして、仕えて生きていくのです。必ず来てくださる主イエスの光を身にまとい、歩んでまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月24日 聖霊降臨後最終主日の説教 「証しをする機会」

「証しをする機会」ルカによる福音書21章5~19節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日は聖霊降臨後の最終主日、教会の大晦日と言われる教会歴の最後の日です。来週からの待降節、アドベントから教会暦は新しく始まるのです。新しい暦、新しい時を迎える前に、終末、世の終わりについて今日の福音書から聞きました。いずれの出来事も、もはや私たち人間には手に負えないことばかりです。本当にそのようなことが起こるのかどうかもよくわかりません。また、聖書から聞かなくても、世の終わりについての教え、あらゆるものが崩壊するという教えは、聖書以外にもたくさんあります。様々な終末についての教えがある中で、聖書では、主イエスが気を付けないさいと警告しつつ、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」と、そのような慰めを語っておられます。終末が避けらない、故に終末の只中を生きていく私たちに、終末は全ての滅び、単なる終着点ではないということを語っておられるのです。
 
 終わりというのは、英語でENDと言い、このENDというのは「目的、成就、完成」という意味の言葉です。ただ終わるのではなく、目的があり、その目的が成就し、完成するという意味があるわけです。この終わりを通して、終わりの只中を生きていく私たちに、神様は滅びではなく、救い(の目的)を明らかにされていくのです。これが聖書における終わりを迎えることの本質なのです。
 
 主イエスが世の終わりについて語られたきっかけは、5節、6節で「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」ということでした。この神殿というのはエルサレムの神殿で、ユダヤ教の中心的な祭儀、礼拝が行われていたところです。多くの人々が巡礼に来て、賑わっていました。ローマ帝国の力を借りて、当時ユダヤを支配していたヘロデ大王が実に約46年もかけて、この神殿を豪華絢爛に造り変えたと言われています。「見事な石と奉納物で飾られている神殿に見とれるほど」に、その偉大さが伝わってきます。この神殿は権力の象徴だけに留まらず、ユダヤ人にとっても自分たちのアイデンティティーとも言える象徴、拠り所となっていた所でした。彼らにとっての目に見える確かなところ、信頼できるものであると言えるでしょう。
 
 彼らの言葉と思いに対して、主イエスは「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」とはっきり言われました。そして、終末の徴について語り始めたのです。今ある確かな目に見えるもの、それに頼って生きている彼らの姿は、現代の私たちの姿と変わりはないかと思います。むしろ、より目に見えて便利な世の中になっているので、それらがいずれは崩さってしまうなどと、想像することもできないでしょう。ただ、いずれは終わりが来るということを私たちは知っていますし、主イエスが語られる戦争や環境問題、天変地異の前触れの中に、世の終わりを想像することが多くあるかと思います。それらがいつ起こるかはわからないけれど、その只中にあっても、神様の目的は変わることはないのだと主イエスは約束されているのです。
 
 主イエスは天変地異の前に起こることを12節から言われます。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」このルカによる福音書が書かれた時代は、迫害の只中にあり、多くのキリスト者が殉教した生と死の隣り合わせの時代でした。ここで言う証しとは、殉教という意味の言葉からきています。証しをするとは殉教することなのかと考えると、恐ろしくなるかもしれませんが、それはただ死ぬことを目的としているのではなく、キリストのために生きて、その命に自分を委ねて生きていくことであると言えます。神と共に、他者と共に生きていく姿であると言えます。単に自分を犠牲にするということではないのです。
 
 主イエスは最後に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われました。辛いけれど、我慢しろということではなく、これは積極的な待つ姿勢を意味します。ある人は忍ぶという字と、耐えるという字を次のように説明しています。「忍ぶは上からの愛で、覆う、かばうと言った姿、耐えるは下から支える、持ちこたえる姿である」と。これはどちらも自分ひとりではできない、耐えられない姿です。上からの愛によって生かされ、下からの土台、砦となる支える力によって、地に足をつけて歩んでいくことができるのです。それで、ここでの「忍耐」という言葉を原語で調べますと、ふたつの言葉から成り立っていることがわかります。ひとつは「重荷の下で」、もうひとつは「とどまる」という言葉です。合わせて「重荷の下で留まる」ということです。主イエスがぶどうの木のたとえ話で、「私にとどまりなさい」と言う招きの言葉を私たちに語っています。ぶどうの木である主イエスに、枝として私たちが結びつく、そこに留まるということです。主イエスが共におられるということは、忍耐するということでもあり、それが証しをするということになります。重荷のある現実の只中で、このキリストの愛に覆われ、愛の下に留まって、共に生きていくのです。
 
 また「命をかち取りなさい」という、この命は「魂」とも訳せます。単なる肉体的な命のことだけを指しているわけではなく、私たちの生き方、人生そのものと言えるかもしれません。私たちは昔の教会の中で起こっていた迫害を経験することがないかもしれませんが、この魂を蝕む様々な出来事が現代でも起こり、このことを経験しています。飢え渇きを覚え、希望を見出せない闇がこの現代社会の中でも蔓延っています。故に、目に見える確かなものに信頼を置き、時にいともたやすくその確かだと思っていたものに裏切られる経験をしています。命を、魂をかちとるために、何に信頼して生きていくのか、何を指針として己の人生の導き手とするのか。私たちはそのことを模索しています。
 
 その私たちに、主イエスは世の終わりの出来事を通して明らかにされていく神様の目的、神の愛の完成を示されました。根本からの支え、ぶれることのない神の愛こそが私たちひとりひとりの命、魂を支え、決して滅びることはないと約束してくださいました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13章4節、7節)とパウロは言います。この神の愛を、それぞれが与えられた賜物を通して形にしていくために、私たちは証しをして、他者と共に歩んでいくのです。来週からの新しい教会暦を、この終わりに向けての神の愛の完成を約束してくださっている主に喜びと信頼をもって、共々迎えてまいりたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。