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☆10月27日(日)宗教改革主日分区合同礼拝☆

10月27日(日)午前11時から池上ルーテル教会で東京分区主催の宗教改革主日分区合同礼拝があります。

当教会では礼拝がありませんので、池上ルーテル教会にお越し下さい。礼拝後の昼食のお弁当を希望の方は、10月19日(土)12時までに、当教会まで

ご連絡くださいますよう、よろしくお願いいたします。お弁当は500円です。Microsoft Word - 2019年 宗教改革主日東京分区合同礼拝・午後のプログラム 案内チラシ

☆集会お休みのお知らせ☆

10月13日(日)と10月27日(日)の中高生礼拝、また、10月17日(木)の聖書を分かち合う会は

お休みとなります。

10月13日(日)午前11時からの主日礼拝は通常通り執り行います。

2019年10月6日 聖霊降臨後第17主日の説教 「自分自身を解放するため」

「自分自身を解放するため」ルカによる福音書17章1~10節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 「わたしどもの信仰を増してください。」困難に直面したり、行き詰ったりすると、ふとそのように願う自分の姿があります。信仰を増してください、または信仰を強くしてください、そうすれば目の前の困難を克服することができますと。信仰が小さく、弱いままではだめだと思ってしまう自分がいるように思えます。信仰が小さいから、人を愛することができないとか、主イエスの言葉を守ることができないなど、様々に思い悩むことがあるかもしれません。
 
 これは、主イエスが1節から4節で言われたことがきっかけでした。つまずきはスキャンダルとも言いますが、障害となるものであり、罪に誘う力であると言えます。誰しもそのつまずきは避けられないと言います。そして、兄弟が罪を犯したら、戒め、悔い改めるものは赦し、さらに「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とまで言われました。1日7回も罪を犯す人がいても、7回悔い改めるなら、赦しなさいと言われます。1日7回です。とんでもない数ですが、聖書で言う「7」という数字は、完全数を表しますから、完全に赦しなさい、赦しとは完全に赦すことであると主イエスは言われるのです。それならば、自分たちの信仰をもっと大きくしていただかないと、到底無理ではないか。もっと大きく、完璧な信仰がないと、自分たちには赦すことなど不可能だと。彼らはそのような思いを抱いたことでしょう。
 
 ところが、この弟子たちの願いそのものが、的外れであったかのように、主イエスは弟子たちにこう言われるのです。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。(6節)ここで主イエスがたとえているのは、からし種という最も小さい種です。手に取ってよく見ないと見えない種であると言われています。この種を植えると2メートルほどの巨木になるそうです。根がそれだけしっかり張るのでしょう。主イエスは他のたとえ話の中で、この最も小さい種が、どんな植物よりも大きくなるということを、天の国にたとえて語っておられます(ルカ13:18~19)。ここで、主イエスがからし種を用いて、その最も小さい種、それに例えられるように、そのような小さい信仰さえあれば、その種のサイズからは想像もできないほどの木が育つように、信仰も大きく育つということを言っているのでしょうか。その小さい信仰さえあれば、「桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と言われることが実現する。そのような想像もできないことが実現するということを言っているのでしょうか。
 
 主イエスは単に「からし種一粒ほどの信仰で十分です」とは言わず、「もしあなたがたに・・・あれば」と言われました。もしあればの話であって、あなたがたはそのからし種一粒ほどの信仰すらないのではないかとも聞こえます。信仰をまし加えてくださいどころではない。信仰があるのか、ないのか。0ではないのかと思わされるほどです。つまずきは避けられないと主イエスが言われるように、彼ら使徒たちもつまずき、罪を犯してしまう現実があります。
 
 私たちはつまずきを避け、平穏な人生を歩みたいと願っております。挫折や失敗のない歩みをしたいと願っています。傷つくことを恐れ、悲しみや苦しみを避けたいと願います。しかし、生きるということにおいて、それらのことは避けようがなく、またつまずきそのものがいつ、どこで起こってくるのかということはわからないわけです。むしろ、主がここで私たちに語っているのは、私たちはつまずきを避けられない存在であり、つまずきを避けられないからこそ、この私そのものが現実のこの世を生きているということでしょう。私たちがどんなに背伸びをしても、あとこれだけの信仰があればとか、これだけのものがあれば、できるのにと思ったとしても、本来の私たちそのものの中には、自分が思い描くものはなく、ただありのままの自分という存在があるだけなのです。
 
 しかし、主イエスはそんな私たち、つまずきを避けることができず、つまずきと共にある私たちそのものを見つめておられ、そのことによって私たちの存在を否定し、私たちの存在を作り変えようとしているのではないのです。それはなぜかと言いますと、他の箇所で、この主イエスご自身がつまずきだと言っておられるからです。(マタイ11:6)パウロの言葉を借りれば、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(Ⅰコリント1:23~24)と言っているように、キリストの十字架はおよそ、私たち人間が抱いている神様からの救いの力であるとは思えないからです。キリストの十字架、それは、はたから見れば、敗北の象徴です。無力なものです。しかし、神様はこのキリストを十字架につけるために、この世にキリストを、つまずきが避けられない私たちの只中に贈られたのです。それは、つまずきがある私たちを裁くためではなく、御自身にはつまずきのない方が、つまずきの中にある無力な私たちと同じものとなることによって、私たちそのものを神様が受け止められ、愛しているからということです。
 
 パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰで、こういうことを言っています。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)つまずき、罪の誘惑からは避けられないかも知れません。完全な信仰どころか、むしろ、からし種の信仰すら持てない私たちのために、主イエスは主となってくださった、十字架を通して、つまずく私たちを赦し、愛する生き方へと変えてくださった。使徒は、教会はその救いの確信に立ち、真の主であるキリストを宣べ伝え、主イエスの名によって、罪の赦しを与える僕の群れであります。弟子として御言葉に立ち続ける教会の姿の中に、信仰が芽生えます。賜物としての信仰です。キリストが赦し、愛してくださる確信の中に信仰が育まれるのです。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)と、パウロが言うように、主であるキリストの愛から、私たちが離れることはないのです。信仰の大小ではないのです。つまずきは避けられないが故に、キリストの愛も避けられてしまうことはないのです。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。