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2019年8月25日 聖霊降臨後第11主日の説教「時と所」

「時と所」ルカによる福音書13章22~30節 小杉 直克 兄

 

 今日の御言は「主よ、救われる者は、少ないのでしょうか」という、イエス様に問いかけることから始まります。イエス様はガリラヤから伝道を始められ、方々の町や村を巡り神の国について教えておられました、そうしてエルサレムへ向かって歩みを進めていた時の出来事でした。それは、また十字架へ繋がる旅でもあったのです。
 
 「救われる者は、少ないのでしょうか」とイエス様に訊ねた人は、イエス様の弟子の一人なのか、それともイエス様に従って付いて来た人々の一人なのかは、ここでは判然(はんぜん)としません。
 
 「救われる者は、少ないのでしょうか」という、この問いかけは、この人だけの問いかけでしょうか。
今に生きる私たちの内にもこのような問いかけを心の中で問いかけることはないでしょうか。
「救われる者」とは、どのような者なのでしょうか。それが自分自身にどのように関わっているのでしょう。私の心の中にも時として、このような思いが湧く時があります。 この問いかけは、弟子達だけではないでしょう、人々の心の中にもある問いかけではないでしょうか。
この問いかけは、イエス様の時代だけではありません。今日の私達の時代にも共通する事でもあります。
 
 イエス様は「救われる者」という問いかけに「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われます。
「戸口」とは、原語の訳では「門」という意味もあります。イエス様は譬話のなかで時折、ご自分を「門」に譬えられる事があります。
それは、ヨハネの福音書10章7節に「わたしは羊の門である」と言われ、自らを「門」に譬えておられるのです、この「戸口」即ち「門」とはイエス様ご自身の事を言われているのです。
 
 また、マタイ書の7章7節には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。この御言は神の国について語られたものであり、主イエスがご自身について語られたものなのです。
 
 更に、「狭い戸口(門)」から入るように努めなさい」と言われます。
「戸口」とは立体的、物資的、即ち目に見えるものを意味しているのではありません。なぜならばそれは、主イエス御自身の事を言われているからです。
 
 「狭い戸口(門)」から入る」とは、主イエスを受け入れ、主イエスこそが救い主、その人であり、「戸口から入る」とは、主イエスに従うという事なのです。
 
 
 私は、この「狭い門」と聞いた時に、ある事を思い出しました、それは大学受験です。今から50数年前は、殆どの高校生が大学進学を目指しました。目指す大学に入入れるのは十分の一、二十分の一なのです、それは猛烈な勉強をしなくてはなりません、自分以外には全てが競争相手であり、味方ではありません。自分が合格するためには、それは正しく「狭き門」と言っていいでしょう。
主イエスが言われる「狭き戸」とはそのようなものではありません。それは、当時の律法学者やファリサイ派の人々の様に自分達は聖書に精通し、神の国に最も近い者と自負していました、しかし、その実態はそれとは全く反対方向を向いたものでした。それは思い上がった行動でした。「私は、聖書を読み、精通している、だから、主に従っているのだ」と思ったとしても。主の御言を実践しなければ、それは、主イエスに従っていると言えるでしょうか。思い上がりや、自負する事ではないのです。主イエスに従うとは、心の中心に主イエスがおられるという事なのです。「あなたの心の中心には何があるのですか」そうして「何に従っているのですか」という事ではないでしょうか。故に「戸口・門」は狭いと言われるのです。
 
 その様な時代に在って人々は主イエスをどのように受け入れたのでしょう、人によってはイエスは先生、預言者、大祭司だと理解していたのでしょう。ナザレに生まれ、大工の息子として育ったイエスを救い主であると信じることが出来たでしょうか。ですから主イエスは自ら神の国を人々に伝え自ら御自分が救い主であることを人々に伝えたのです。しかし、このような時代に在って、現在も同じかもしれませんが。イエス・キリストが救い主であると信じる人は少ないのではないでしょうか、即ち信仰を得るのは数少ない人達ではないでしょうか。
ですから、主イエスは「狭い戸口(門)から入るよう務めなさい」と言われるのです。
 
 この「狭い戸口」を入るにはどうすればよいのでしょう。
ヘブライ書に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事柄を確認する事です」(11:1)とあります。イエス・キリスト、この方こそが救い主であることを確信する事であり、主イエスこそが、そこへ導いて下さるのです、そう確認する事です。
 
 救いに至る道は、主イエスという戸口以外に、入る戸口はないのです。主イエスの言葉を信じて従う人であり、そう努めることであります、そう導いて下さるのが、主イエスご自身なのです。主イエスは、招いておられるのです。ですから、主イエス・キリストその戸口から入る者となりなさいと。この門のほかには悔い改めて救いに至る道はないのです。
 
 
 更に、御言は続きます「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが、外に立って戸をたたき、『ご主人様、戸を開けてください』と言っても『お前たちが、どこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」この御言は厳しい御言にも聞こえます。
更に、『御一緒に食べたり、飲んだりしました』また『広場で教えを受けた』と言います。しかし答えは『どこのものか知らない』と言われます。ますます、厳しい御言です。
 
 今日の御言の少し前、ルカ12章35節から始まる、「目を覚ましている僕」のお話を覚えていると思いますが。婚礼に出かけた主人が帰ってきた時の譬話です。主人が真夜中に帰って来ても良いように、即ち、主人がいつどんな時に帰って来ても良いように目を覚まして主人の帰りを待っている僕の、話です。
神の国が何時どのような時に来ても良いように、常に用意をしておきなさいということです。
又、ガリラヤから始められた主イエスの宣教の数々を思い起してみましょう。多くの人々に神様について語られました、そうして多くの人々と食事を共にしました、空腹の五千人の人々に食事を与えた奇跡の話、その他色々な出来事を思い出してみましょう。
主イエスと親しく食事をしたとしても、主イエスの教えを熱心に聞いたとしても、それだけで何もしないならば、主イエスに従っているとはいえないと主は言われるのです。
 
 マタイ書の山上の説教のなかに「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と主イエスは言われます。
 
 さて、今日の礼拝に参加するために、皆様も教会の入り口を入ってこられたと思います。その扉が、建設から約15年が経ち壊れてしまいました、毎日何人もの人が開け閉めするでしょう、それはかなりの数になると思います、ですから壊れるのも無理からぬことです。そこで業者に見てもらったら部品が壊れているため取り換える必要があるとのこと、さもないとドアーが動かず、開け閉めできなくなる、とのことでしたので、すぐに修理する事にしました。私は、今日の御言に接した時、この出来事と重なる思いを感じました。
私の心のドアーが壊れたら、あるいは悔い改めることを怠ったとしたら、それは「どこのものか知らない」と言われるでしょう。
 
 「礼拝に参加する」とは、自分自身が参加する様に思いますが、そうではないのです、それは神様が、主イエスが、私たちを礼拝に招いて下さるのです。そのように導いて下さるのが聖霊なのです。
主に従う者は、何時も心は何を見ているのかを。
 
 「戸を閉めてしまってからでは」とは、それは「時」を意味しています。主イエスにただただ付いて行くだけだは、主に従うとは、ただ漫然と過ごすという事ではないのです。それには「時」があるということです。その時は「今」という時なのです。
 
 主イエスはガリラヤの湖畔を歩いておられる時、二人の漁師、即ちペテロとその兄弟アンデレに「わたしに、ついてきなさい」と声を掛けられました。それに対してペテロ達はどう行動したでしょうか、二人は直ぐに網を捨てて、主に従いました。  声を掛けられたペテロは「直ちに」従いました。仕事を済ませたら、とか家族に事情を話してかとかではなく。ペテロは何も躊躇せずにすぐさま従ったのです。
主イエスに従うとは、このような事ではないでしょうか。このことが済んだらとかこのことが出来たらとかではないのです。それは今がその時なのです。
 
 神の国を知るとは、主イエスという戸口を通らなければ知ることは出来ません、この戸口以外にはないのです。そうして、主イエスが知らされた時が、悔い改めの時であり主に従う時なのです。
 
 私達が何かをするので無く。主イエスがいつでも私達を神様へ導いて下さるのです。
 
 在天の父なる神様、今、あなたの御言を聞くことが出来ましたことを感謝します。又、新しい週が始まります、どうか私たちを、守り、導いて下さい、御子主イエスの御名においてお願いします。アーメン

2019年8月18日 聖霊降臨後第10主日の説教 「精錬された言葉」

「精錬された言葉」 ルカによる福音書12章49~53節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 主イエスは言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」また、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが分裂だ」。非常に厳しい言葉を語っておられる、いや、むしろ聞く者が拒絶したいと思うほどに、受け入れがたいことを、主イエスは語っておられるように思えます。主イエスがこのようなことを語られたのかと疑いたくなるほどの言葉です。「地上に火を投ずる」、「平和ではなく分裂をもたらす」。地上、それは私たちが暮らしているこの地上に火の雨を降らせて、焼きつくすということなのでしょうか。また、平和ではなく分裂ということは、争い、戦争を引き起すということなのでしょうか。主イエスがそれらのことを成し遂げるために、この世界にご降誕された、私たちの只中に宿られたなどと信じることができるでしょうか。主イエスがご降誕された理由、それはヨハネ福音書3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますように、神様が私たち人間を愛するがために、この世を愛されたという御心が主イエスを通して顕されたということに他なりません。また、私たちは、主イエスはこの世に平和をもたらす平和の君、支配者として、来られるというよき知らせを、アドベント、クリスマスのメッセージから聞きます。その平和の君が「平和ではなく分裂をもたらす」と言われるのですから、やはり主イエスはこの上なく矛盾なことをここで言っていると思えてしまいます。
 
 しかし、ヨハネによる福音書14章27節で、主イエスはこう言われるのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」平和を与えると言われる。しかしそれは「世が与えるように与える平和」ではないということ。平和の君として、平和をもたらす者であり、この世の平和、人間が造り上げる平和ではないということです。ではなぜ、キリストの平和の内にあって、分裂が生じるのか、対立が生じるのかということが私たちの率直な疑問であります。主イエスは真の平和とは言わず、むしろ分裂だと強調するわけです。
 
 この分裂を生じさせるきっかけが、火を投ずると言われた主イエスの言葉にあります。この火がきっかけになるわけです。この火とは何でしょうか。聖書には神様の臨在を表し、また神様の裁きを表す言葉として多くの箇所に記されていますが、今日の第1日課のエレミヤ書に注目すると、23章29節にこうあります。「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」(エレミヤ23:29)わたしの言葉、神様の御言葉は火であるというのです。それは岩をも打ち砕く槌のような力です。それが神様の御言葉、聖書の言葉であると言えます。火のような激しさがあるわけです。
 
 このエレミヤ書は主イエスが生まれる約600年前の預言者エレミヤが書いたものですが、神様に罪を犯し続けるイスラエルの民には、神様の裁きが迫っていました。預言者はその神様の御言葉を人々に伝える責務があったわけです。しかし、エレミヤと同じ時代に生きていた預言者たちは、人々を安心させるために、神様が言ってもいないことを人々に語り伝えるのです。23章16節~18節で神様はこう言われます。「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの/言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ/主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。わたしを侮る者たちに向かって/彼らは常に言う。「平和があなたたちに臨むと/主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって/「災いがあなたたちに来ることはない」と言う。誰が主の会議に立ち/また、その言葉を見聞きしたか。誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか。」(23:16~18)自分たちにあるのは神様からの平和や祝福であって、災いではないということです。ようするに人々に都合のよい神様の御心、人々から絶賛され、人々を満足させることを、あたかもそれが神様の御言葉であると言わんばかりに、預言者たちは人々に語り伝えていたわけです。それが、「主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る」ということです。預言者自身も神様の言葉に聞かなくてはならないのに、それを自分の都合のよい解釈にしてしまい、神様の御心からかけ離れた人間の都合に置き換えてしまっていたわけです。
 
 先ほどの29節の言葉には「岩を打ち砕く槌のようではないか」という表現があります。火のような神様の御言葉が岩をも打ち砕く槌であるというのです。この岩というのが、私たち人間の思い、こうであってほしいという自分の思いと都合を表しているものではないでしょうか。または、岩のような自分自身の頑固さです。岩は硬いものです。なかなか打ち砕かれるものではありませんし、打ち砕かれたくないというのが、私たちの姿ではないでしょうか。
 
 そのような自分の岩のような頑固さ、自分中心の思いを神様の御言葉は火のように激しく打ち砕かれるのです。安易な平和や平安を願う、その心地よさだけでは生きてはいけないのです。私たちを真に生かすために、神様の御言葉は今の自分に必要なこと、安易な慰めや喜びではなく、人生の本質を私たちに問うているのです。主イエスが言われる「平和ではなく分裂である」ということは、それ故の分裂であります。火のような御言葉によって、自分自身の中に分裂が生じる。その分裂は、神様なぜですか、なぜそのようなことをされるのですかという自分からの問いかけもあるでしょう。自分の頑固さを打ち砕き、本当の自分を見いださせようとする御言葉の火を、私たちにもたらされるために、主イエスは私たちの只中に来られたのです。
 
 しかし、主イエスはこう言われます。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」洗礼とは一度溺死して、生まれ変わるということです。主はそれをどんなに苦しむことかと言われました。その苦しみ、人々の頑固さ、それ故の罪を担って、主は十字架によって死に、そして復活の命に与るということです。それが、主イエスが受ける洗礼であり、十字架と復活を通して、御言葉の火は私たちの中に灯されるのです。
 
 自分の頑固さ故に、心地よさだけを求め、変わらない自分に対して、主は火を投じられます。それは厳しいものでもあるでしょう。しかし、それは自分自身を滅ぼす火ではないのです。私たちを真に生かし、再び新しい歩みへと立ちおこし、導いてくれる火であります。この主が投じる火を通して分裂が起こり、自分の岩のような頑固さが打ちくだかれて、本当の自分がそこで見出されるのです。主イエスは、その自分の人生を、そのままに御言葉を通して導いて行かれるのです。平和ではなく分裂だ、それは本当の自分が主イエスにもたされる主の愛の火によって、本当の自分が灯され、この火によって生かされていくことにおいてなのです。
 
 ルカによる福音書にエマオの復活物語があります。二人の弟子がエマオへの道の途上で、復活の主に出会い、共に歩くのですが、最初は気づかないという物語です。主イエスの姿が見えなくなった後、彼らはこのように語っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか(ルカ24:32)」。聖書、つまり御言葉を聞いていた時、彼らの心は「燃えていた」というのです。その火は、焼き尽くす滅びの火ではなく、「心が燃えていた」誠に彼らを生かす火であります。
 
 主イエスは御言葉と言う火を投げかけられました。それは、焼き尽くす滅びの火ではなく、誠に生かす火、永遠の命という火として、私たちの心の中に燃え盛る火であります。私たちがこの世の価値観に激しく揺れ動されていようとも、この火は消えないのです。火のような神様の御言葉という土台は揺れ動くことがないのです。この火が主イエスキリストとして、私たちの只中に宿られ、御言葉として、つまり私たちは聖書を通して、主イエスと出会うのです。
 
 主イエスは火を投ずるために、来られます。それは永遠の命という誠に私たちを生かす火として、来られる。この主イエスに心を開いて、激しく人間の価値観が変動する混乱の只中に、真実を見つめていきたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。