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2019年8月4日 聖霊降臨後第8主日の説教 「真に必要なもの」

「真に必要なもの」ルカによる福音書11章1~13節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

祈りを教えてください。これはキリスト教の祈りを知らない人だけが言う問いかけではありません。何十年と信仰生活を送り、祈り続けている人も問いかける大切な言葉です。祈ることを体験する、この祈りの出来事は、私たち人間の内から出るものではなく、神様から示されるからです。キリスト者だから祈れるとか、何十年と祈っているから、祈りのベテランということでもないのです。あのパウロでさえ「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」(ローマ8:26)と言っているのですから、祈りは個人プレーではなく、神様との共同作業、神様との関係において祈りは起こるのです。

マザーテレサは祈りとはキリストと一つになることだと言います。また祈れない私たちに対して、「単純になればいい。わたしの心の内にいるキリストに祈ってもらえばいい・・・・わたしの内にいるイエスよ、あなたの、わたしへの誠実な愛を信じます」と祈ればいいと言います。祈りを教えてください。それは教えてくださるキリストと一つになり、キリストに信頼して委ねることでもあります。祈れない私たちに対して、キリストは常に誠実な愛を向けて下さり、祈れない私たちのことをよくよく知っていてくださるからです。だから祈れないことで、一人で不安になることはないのです。

主イエスの弟子たちはユダヤ人です。彼らは主イエスに祈りについて尋ねるまでもなく、祈ることはしていたし、祈りを知っていたはずです。しかし彼らが知っていた祈りは、主イエスの祈りとどう違っていたのでしょうか。彼らが知っていた祈り、模範となり、祈る者として身近にいた人たちは、ファリサイ派の人たちではないかと思います。彼らの祈り、その姿勢を後に主イエスが批判しますが、それは大勢の人の前で祈る、人に見てもらう祈り、内容が整った立派な祈りというものだったでしょう。祈りは立派なものでなければいけない、律法の知識をしっかりともった立派な人でなければ祈るに相応しくない、そういったイメージを弟子たちはもっていたのか知れません。

この主の祈りは、神様が私たち一人の一人のことを知っていて、受け止めてくださり、必要なものを惜しみなく全てを与えてくださるという信頼から来る祈りです。祈れば与えられるかもしれない、祈れば希望通りのことが叶い、希望通りのものが与えられるということではなく、与えてくださる方が、私たちに必要なものを全てご存知であるということです。だから信頼して祈り始めることができるのです。

その信頼の内に私たちは「父よ」と呼びかけて祈り始めます。これはお父さん、お父ちゃんという表現です、子供が親を呼ぶ時の表現です。かしこまって、他人行儀のように呼びかけるのではなく、子どもが親を自然な呼び方で呼ぶように、親と子どもの関係のように、私たちは初めに父よと言って、祈り始めるのです。この父よという呼びかけ、子ども、幼子が呼びかけるかの如く、祈るということは、祈る者は子供や幼子のように、小さきものであり、何も持っていないものということを表しているのでしょう。神様に対して、また隣人に対して良いことをしているから、良いものを捧げ、与えているから堂々と神様のみ前で祈ることができるということではないのです。また気持ちに余裕があるから祈れるわけでもないのです。父よ、お父さん、お父ちゃんというこの呼びかけから祈りが始まるというのは、祈るものは根本的には自分の中には何も頼れるものがない、与えられるものがないという自分の姿を見出されるわけです。父なる神様はそんな私のことをご存知であり、そのままに私たちの祈りを聞き、祈りに応え、与えてくださる方なのです。だから、安心して、この父の懐に飛び込んでくればいいと、主イエスは私たちに教えてくださるのです。これが主の祈りを祈り、この祈りに生きる私たちの真の姿なのです。

主イエスは5節からのたとえを話されます。旅行中の友人が訪ねてきたが、食べるものがない。なんとか友人に食べ物を出してあげたいために、真夜中に、別の友人の家を訪れます。そこでパンを3つ貸してほしいと願いますが、友人は言います。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』(7節)この後の8節はこのたとえ話の結論へと続きますが、8節冒頭の「しかし、言っておく」という主イエスの言葉は、何かの発言があって、それに対する答えだったのではないかという解説があります。主イエスはこのお話を弟子たちにされています。途中で話を止めて、弟子たちに感想を聞いたのかもしれません。それは、旅行で尋ねた友人のために、真夜中にも拘らず、友人のもとを訪ねたが、友人はパンを貸してくれなかった。その友人を薄情者だと、弟子たちは感想を述べた、非難したのかもしれません。

そんな感想を述べたであろう弟子たちの思いとは予想を遥かに超えて、主イエスはこのたとえ話の結びを話します。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(8節)友人だからということは関係ない、しつように頼めば、何でも必要なものを与えると主イエスは言われます。しつように頼めば与えられる。そう言われます。諦めずに何度も何度も頼みこむということでしょうか。この「しつように頼む」と言う言葉、これは「強情な」とも訳せますが、元の言葉は「廉恥心」とか「恥知らず」、「厚かましい」という意味があります。しつように頼むということですが、その頼みこんでいる者の姿がここで示されています。全く遠慮なんてしていられない、恥知らずな厚かましい思いで、態度で、頼み続ける。求め続ける。人の迷惑なんて考えない、そんな姿が見えます。そうすれば、必要なものが与えられると主イエスは言うのです。このお話の後に、主イエスは「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(9~10節)と言われました。求める者、探す者、門をたたく者。たとえ話から結びつけると、その者たちはあたかも恥知らずな、厚かましい思い、態度で求め、探し、門をたたいていると言っているようなものです。しかし、そういった者たちに、与えられる、見つかる、開かれるというのです。

真夜中に扉を叩いて、懇願する人。願い求める姿、祈る者の姿は、この人のように見えます。しかし、家にいる友人の目から見たらそうではない。そこには恥知らずで、厚かましい思い、態度である人の姿がある。そういう人が懇願している。着飾るどころか、全く恥知らずな者の姿があるのです。そう、この恥知らずで、厚かましい者の姿、この者こそ祈る者の姿なのです。この者の祈りこそ聞いて下さるのです。その恥知らずな者の願いを聞き入れて、必要なものを何でも与えてくれる方がおられる。扉の向こうにいてくださるのです。

私たちはなぜ自分がこんな目に合わなければいけないのですかと、神様に尋ね求めるでしょう。理不尽な目に遭って苦しんでいる時、そのように嘆き祈ることがあります。旧約聖書の詩篇は嘆きの祈りがたくさんあります。恨みつらみを述べているような言葉もあるのです。何故ですかという求めに対して、具体的にこうこうだからという答えが返ってこないかもしれません。しかし、ここでその求めに対しても、神様は与えるかたです。何を与えるのか、その理不尽な環境を一変に吹き飛ばし、解決へと導いてくれるという自分の望みを超えて、今その理不尽さを通して、主はあなたにこういう意味を与えている、あなたにこういう気づきを与えられるということです。何故ですかという、人間の中では答えが出ようのない理不尽な求めに対して、神様は意味を与えられる。その闇を通して、神様は光の道を備え、与えてくださるのです。求めなさい、そうすれば与えられる。自分ではもはや解決の糸口がなく、答えがないという嘆きに対して、神様はそこに意味を与える方なのです。本当にあなたに必要なもの、道を備え、与えてくださるのです。だから、主イエスはこう言われるのです。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。(1113節)」あなたが必要なものに対して、神様は的外れで無駄なものは与えない方であると、主イエスは言われます。私たちを裁き、殺すためではなく、真に救い、生きることができるようにと、私たちに御心を示し、与えて続ける方なのです。

そして主イエスは「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(13節)と約束してくださっています。聖霊という神様の御力、導きが与えられている。それはどういうことかと言いますと、この聖霊の賜物を通して、この働きを通して、神様は今も生きて、私たちと共にいてくださることを教えてくださるのです。この聖霊が神様の愛の御心を教えてくださいます。与えてくださる神様の働きを、私たちに示してくださる方なのです。

祈りは力、人を変える力です。なぜか、それは私たち人間には全くないもの、全くない力です。この神様の霊が働かれる力だからです。祈り求める私たち、それは恥知らずな、厚かましい姿の私たちかも知れない。空っぽで裸な、無力な者の姿かも知れない。だからこそ、神様は顧みて下さる、扉を開いて、必要なものを与えて下さるために、私たちを迎えてくださいます。その信仰と信頼をもって、私たちは祈り求めるのです。門は必ず開かれます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

☆ 8月夕礼拝のお知らせ ☆

☆ 8月夕礼拝のお知らせ ☆

今週木曜日(8/1)午後7時から。説教題「狭い戸口から
ルカによる福音書13章22ー30節(新約135ページ)

聖餐式もあります。

皆さまを、お待ちしております。

2019年7月28日 聖霊降臨後第7主日の説教 「あなたの安息」

「あなたの安息」 ルカによる福音書10章38~42節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 

今日はマルタとマリアの物語から福音書の言葉を聞きました。ここに「もてなし」という言葉が出てきます。私たち日本人にとって「おもてなし」という言葉は非常に身近に感じるのではないでしょうか。賛否両論ありますが、トランプ大統領が日本に来日した時の安倍首相の対応はおもてなし外交と言われたのが記録に新しいかと思います。そして、来年はいよいよオリンピックです。この六本木教会にも外国からのお客さんがいつもより多く礼拝に来られるかもしれませんので、これからオリンピックに向けて、役員会でその対応を協議してまいります。お客さんが教会に来て下さることはうれしいことですが、教会は何よりも共にその方々といっしょに賛美し、聖書の言葉を聞き、祝福をいただく礼拝の恵みを恵みとして喜びと感謝の内に共に過ごせることをまず願っております。

この「もてなし」と訳された言葉は、原語のギリシア語ではディアコニアと言い、これは「仕える、奉仕」と訳される言葉です。英語ではサービスです。そして、サービスと言えば礼拝のことを指します。私たちが礼拝をする、礼拝を守るというと、私たちが神様にお仕えし、神様に奉仕する。または神様をおもてなしするということを思い浮かべるかもしれませんが、ルターは礼拝のことをドイツ語でゴッデスディーンスト「神奉仕」と言いました。私たちが奉仕する以前に、神様が私たちを奉仕してくださる、それが礼拝だと言いました。何よりもまず私たちが神様の奉仕、もてなしに与っているのだということ。その姿勢を今日の福音書は私たちに伝えているのです。

主イエスと弟子たちはある村に入って、マルタとマリアの家に迎えられました。歩いて行くうちとありますが、口語訳聖書では「旅を続けているうちに」とあるので、結構な距離を歩いて旅していたのでしょう。彼らを迎え入れたマルタとマリアは主イエスと顔見知りで、以前から交流があったのかもしれません。長旅の中、ようこそ我が家にお越しくださいましたと、主イエスたちを迎え入れ、もてなしました。この時代に宿屋やホテルと言った施設はほとんどなかったので、埃まみれで、空腹の旅人をもてなすということはユダヤの社会でとても大切にされていました。旅人はもてなしを受けて、身も心も安息を得ることができたでしょう。

姉妹は主イエスと弟子たちをもてなしますが、妹のマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」と言います。「聞き入っていた」というのは、夢中になって聞いていたということです。夢中になっていて、主イエスの言葉を、神の言葉を聞いていました。一方で姉のマルタは尚も彼らをもてなすためにせわしく立ち働いていたと言います。もっとお料理をださなきゃとか、あれもしないとこれもしないと、という具合に忙しくしていたのでしょう。ところが、彼女のもてなしの心は違う方向に向いていました。自分の手伝いをしない妹のマリアに、不満を抱いていたのです。主イエスの前に座して神の言葉を聞くマリアを、もてなしをしない怠け者と映ったのかもしれません。なぜあなたはもてなしをせず、ただ座って話を聞いているのか。

そこで彼女は、マリア本人にではなく、主イエスにこう言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」不平不満だと言います。せっかくのおもてなしの心が、自分だけがやらされている感があって、彼女は訴え出ました。そして、あなたからマリアに手伝うように言ってくださいというのです。このマルタの思いには、マリアに対する非難以上に、主イエスに対する非難があったのでしょう。そして非難であるのと同時に、自分のもてなす行為を認めてほしいという気持ちがあったのでしょう。私はこれだけあなたをもてなして、あなたに仕えているのに、マリアは何もしてません。何もしていないマリアになぜあなたは何も言わないのですか。私だけに働かせて、マリアに何も言わない主イエスに腹を立てているのです。

このマルタの心情を明らかにするように、主イエスは彼女に「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と言われました。心を乱すというのは、心を配っているということです。彼女は主イエスと弟子たちをもてなすために一生懸命に心配りをしているのです。真面目に、真剣にやっているのです。しかし、その心配りは、多くのことに思い悩み、今や心を乱すという彼女の心が主イエスに映し出されています。自分の判断で、自分の力量で、あれもこれも心配りをして、もてなしをしようとしている。それがマリアの姿を見て、自分のもてなす行為を手伝わないという不平不満に心を支配され、もてなしがもてなしではなくなってしまっている。やられている感があり、彼女は不自由で窮屈な思いに縛られているのです。

マルタの姿は私たちの姿と重なりやすいかと思います。敢えて何か事例を出すまでもないでしょう。皆さん一人一人、思い当たることがあり、経験されていることかと思います。マリアの態度が、その姿が許せないのです。なぜ私だけがこんなに役割を背負わされているのか。私のことは誰も評価してくれないのか。自分はこんなにやっているのに。そして、なぜ手伝いもしないマリアは咎められないのかと。不公平だと思う。マルタの姿、思いは決して自分とは無関係だとは言い切れないどこか共感できるものがあるでしょう。また、逆にマルタは自分のことだけに気が向いていて、本当のもてなす心になっていないという非難もあるかと思います。主イエスを心からもてなそうとはしていない。自分の力量に過信して、自分の思い通りにもてなそうとして、自分の側に喜びを見出そうとしている。だからマリアの姿が許せず、挙句の果てにはもてなしの対象である主イエスにその不満をぶつけている。マルタこそ自分勝手な人物だという思いもあるでしょう。

ところが、主イエスはマルタに対して、あなたは喜びをもって真のもてなしをしていないからだめだと言われたのではないのです。マルタのもてなす行為を責めたのではないのです。主イエスはこう言われました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」必要なことはひとつであって、あれやこれやではなく、またそれらに心配りをするのではなく、ただ一つであると。それはマリアが選んだものであるというのです。それを取り上げてはならないというのは厳しい言葉に聞こえますが、だからこそそれがマルタにとっても必要なただひとつのことであり、主イエスはマルタもまたそのひとつのことに彼女を招こうとされているのです。

マリアの「足もとに座って、その話に聞き入っていた」という姿は、律法学者などの神様の律法、掟を教える人から、教えを聞く姿勢を表しています。ただ、これは男性に限られたことであって、女性がこのようにして神様の教えを聞くという姿、習わしはありませんでした。ですから、マリアのこの行為自体が驚くべきものでありました。けれど、主イエスは彼女の行為を非難することなく、良いほうを選んだというのです。男性とか女性とか子供とか関係なく、ただマリアは主の足元に座って、神様の言葉に聞き入っていたのです。申命記33章3節で、モーセは神様にこう言っています。「あなたは民らを慈しみ/すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。彼らはあなたの足もとにひれ伏し/あなたの御告げを受ける。民とはイスラエルの民を指します。そして、主の言葉を聞くのは主に男性を対象としていました。マリアは壁を破って、主イエスに信頼し、神様の言葉に耳を傾け、聞いているのです。自分もまた神様の慈しみの内にあり、神様から愛されている。自分を窮屈にする言葉としてではなく、真にこの私の人生に語りかけているその命の言葉として、マリアは主イエスの言葉を聞いているのです。マリアは良いほうを選んだ、それは彼女が主イエスを自分の心に招き入れ、み言葉を通して彼女をもてなしている主イエスの姿があるのです。

あなたは民らを慈しみ/すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。」この愛と命の言葉は、この私に語られている。この私の人生のひと時ひと時、決して途絶えることなく、私に語り続けてくださっている。この私はあなたの御手の内に合って、真に安息を得ることができる。マリアの確信と信頼の心はここにあります。み言葉を通して、私の人生に語りかけ、決して私を見捨てることなく、私を常に気にかけてくださっている神様の愛と慈しみに満ちた手でこの私を包み、支えてくださっているのだと。そのようにして私をもてなしてくださっている主イエスの姿がここに映し出されているのです。マリアは自分のもてなしの自分の業にではなく、主イエスの御業の内に、自分の人生があり、自分自身を振り返っているのです。真の安息を得ているのです。マルタは自分のもてなしの業に信頼して、主イエスをもてなし、主イエスを迎えようとしました。一生懸命に真面目に。それこそマルタの働きを非難する資格など毛頭ありません。しかし、マルタのもてなしは思い煩いと背中合わせでした。自分のもてなしの業に委ねるあまり、マリアの姿に思い煩い、心を乱してしまったのです。マリアの姿を受け入れる心の持ちようがありませんでした。それほどまでに、彼女の心は縛られ、不自由にされていたのです。マリアという相手を裁いて傷つける以上に、その思い煩い故に、マルタ自身が傷ついていたのです。主イエスはそのマルタを招き入れようとしているのです。実はあなたが一番心乱し、思い煩い、傷ついているのではないかと。縛られ、不自由の中を苦しんでいるのではないかと。あなたの中にではなく、神様の、主イエスのみわざの中にあなたの人生があって、そこであなたは生かされているのだと。この神様からのあなたへのもてなしを受けてほしい。それが主イエスを自分の心に招き入れ、主イエスの言葉を聞いて主イエスと共に生きていくことなのです。

聖書の言葉、神様の言葉は私たち一人一人に語られています。日ごとの様々な働きに心を乱し、疲れ切っているこの私に聖書は語っています。あなたの働き、あなた自身のもてなしの行為があなたを自由にするのではなく、この私があなたをもてなし、あなたを自由にするのだと。それは主イエスが片時も私たちの歩みの中に働きかけてくださっているからです。その神様の愛のご意志を私たちは聖書から聞いていくのです。その言葉に聞いて歩むところから、私たちのもてなしの働きは生まれます。自分に委ねて、他者の姿を気にして裁いてしまうその不自由さから解放され、自分ではなく、神様の御業によって自分がもてなされ、生かされている喜びを知るところから、私たちの他者へのもてなしが生まれるのです。自由にもてなす心が主によって養われ、そこに生きることができるのです。私たちのもてなしは主の足元に座り、み言葉を聞くところからまた新たに始まります。始めることができるのです。主イエスと共に、互いにもてなし、互いに他者を思いやって、歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。