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2019年7月7日 聖霊降臨後第4主日の説教 「救いの道」

「救いの道」 ルカによる福音書9章18~26節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

以前「キリスト新聞」に日本基督教団前総幹事の内藤留幸先生という方が、キリスト教の『救い』についてこういう記事を書かれていました。

「・・・・その(この世の)救いの内容は簡潔に言えば、『この世で生きている間は幸福でありたい』ということであり、また『できれば社会的差別・経済的不公平・政治的抑圧などから解放されて、皆が健康で安定した生活をしたい』ということであろう。そこで求められている『救い』は極めて人間主義的傾向が強い。それはキリスト教会が長い歴史を貫いて語り伝えてきた『真の救い』すなわち『永遠の救い』とは異なっている。・・・・『真の救い』とは実に永遠の命を与えられることによって完結・成就する『救い』である。・・・・永遠の命を与えられた者(信仰者)たちは、そのことをどのように自覚し、どのように世にあって生きるのだろうか。端的に言えば『信仰と希望と愛』に生きるのである。そのことはわたしたちが救い主キリストの復活を記念して守る主日礼拝で語られる神の言葉を聴き、主キリストとつながる喜びに満たされ、永遠のみ国への希望と救いの確信が新たにされるとき実現するのである」と、このように語っておられます。

今日の福音はまさに、この「真の救い」について、主イエスが私たちに語っておられることなのです。内藤先生は、信仰、希望、愛に生きること、キリストにつながることだと言われました。それは具体的にどういうことかと言いますと、「自分の十字架を背負う」ということに他なりません。自分の十字架を背負う、その響きからして、重く受け止めてしまう私たちの姿があります。自分の十字架を背負うことがなぜ「真の救い」なのか。主イエスの厳しい言葉です。しかし、「十字架を背負う」ということは、何か悪いことをした罰として与えられるということではありません。「わたしに従いなさい」と言われる主イエスの招きの言葉であります。十字架を背負って、主イエスに従う歩みの中にこそ、「真の救い」が示されているからです。

本日はペトロが信仰を告白する場面から、福音のストーリーは始まります。主イエスが祈っておられたところに、弟子たちも共にいました。彼らは常に群衆たちに取り囲まれる日々を送っていたでしょう。今は祈りを通して、父なる神様と交わりを共にし、あたりにしずけさだけが漂っている雰囲気を彼らの姿から感じ取ることができます。そして、主イエスが弟子たちに尋ねました。「群衆はわたしのことを何者だと言っているか。」主イエスの噂は、もうこの時には、ユダヤ全土に知れ渡っていたことでしょう。数々の奇跡や癒しを垣間見てきた群衆は、主イエスに力ある預言者としての期待を抱いていました。洗礼者ヨハネやエリヤ、その他の預言者が生き返り、再び自分たちのところに来てくださり、自分たちを救ってくれるという期待です。世間一般では、今最も注目の的であるお方であったということでしょう。そして、主イエスは弟子たちにも聞きました。即座に答えたのがペトロでした。「神からのメシアです」そう答えたのでした。

「メシア」、これはそのまま「救い主」と訳せますが、元々の意味はヘブル語で「油注がれし者」と言います。サウルやダビデなど、イスラエルの王様となる人物が授かっていた称号でした。ギリシア語では「キリスト」という意味です。

「あなたこそが私たちの救い主です」。ペトロはそう答えたようなものです。しかし、主イエスはペトロたちを戒めました。メシアということを人々に知れ渡らないようにするためだったからです。それはなぜか、人々が願う「この救い」を与えるために、主イエスは来られたということではなかったからです。ペトロたちもそうでした。この「メシア」がどういう救いをもたらすのか、分かってはいなかったのです。そして、主イエスは言います。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」このことを聞いて、弟子たちは大いに落胆したかと思います。同じお話のマタイ福音書16章22節では、十字架の死に向かう主イエスを、ペトロはいさめ、留まらせようとします。主イエスはその時ペトロに言いました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」激しい言葉です。ペトロの行為は人間の行為、神に反する行為だと言われる。神の真の救いを妨害する人間の救いの行為なのです。十字架という苦難から逃れようとするこの世の救いです。しかし、主イエスはその救いをもたらすためではなく、父なる神の御意思、つまりこの世、全被造物への滾ることのない愛、真の救いをもたらすために、サタンを振り切り、この世の救いという誘惑を振り切り、十字架への道を歩まれていくのです。

この主イエスの後に従う道について、主イエスは言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」なぜそのような道を私たちに示されるのか、主は私たち人間を愛され、私たちに平安な道を示して下さる方ではないのかと思うかもしれません。今ある苦しみから全て開放してくださる方ではないのかと。弟子たちや人々が抱くメシア像は現代の私たちと何ら変わりないのです。ここで主イエスは自分の十字架と言います。主イエスが担う十字架というより、私たちひとりひとりの十字架です。これを重荷と捉えるなら、敢えて自分の十字架とは何かと問うことはありません。生きている限り、自分の十字架を背負って、誰しも歩んでいるからです。主はこの重荷を取り除くとは言われません。それを背負って行けと言います。しかし、その歩みは私に従うということ、キリストと共に歩んでいくということです。

そして命ということを言われます。自分の命を救うとはどう言うことでしょうか。その言葉の反対がキリストのために命を失うことですから、命を救うとは、命を失わないように、命を安全な場所にしまいこんでおくようなものです。安全な場所とは、自分が意のままにできる場所です。自分の価値観で、自分に有利と思えるものを受け入れ、不利益なもの、忌み嫌うものは受けいれないことです。ですから、苦難や困難なんてものは尚更受け入れたくないでしょう。自分の十字架を背負っていきたくはないのです。そういう苦難と困難な状況の中において、命は蝕まれ、失われてしまうと考えるのが私たちの価値観です。しかし、主は、それらを避ける道こそが命を失うものであると言われるのです。命の輝きを封じ込めてしまう、命の可能性を狭めてしまうのです。逆に、主イエスのために命を失うものは、それを救うのです。それは命の可能性を広げることです。苦難や困難の中で大いに力を発揮する命、とうていそこでは命が育まれないという絶望の中にあっても、輝く命なのです。その命とは、単にその苦難や困難を味わいなさい、そこに命を救う源があるということではありません。単純に苦難や困難の中にあれば、命の危険性はますだけであって、苦しみは苦しみのままなのです。そこには何の希望もありません。主イエスが言われる命を救うとはそういうことではなくて、わたしのために失う命、ようするにキリストのために命を失う者が、それを救うということなのです。キリストのためにというのは、キリストに生きる命です。だから自分自身の中では命を失うのです。心地よいところ、安全な場所における限られた命は限られた命なのです。そうではなくて、キリストに生きる命とは、自分の十字架を背負い、苦難や困難の中にあってこそ、命の可能性が広がるということです。

ここで主イエスが私たちの救い主となるために歩む道は、ただ死に向かって歩む道ではないということを今日の御言葉から聞いていきたいと思います。わたしのために命を失う者は、それを救うという根拠は、この主イエスキリストこそが命の救い主であり、私たちに命を与えてくださる方だからです。主イエスの予告の言葉をよく聞いていただきたい。殺された後、三日目に復活することになっているとあります。この復活の命こそ、キリストに生きる命なのです。それは決して死なない命ではありません。死ぬのです。苦難の後に殺されてしまうのです。しかし、その死に勝利されることをすでにここで予告されているのです。それは、主イエスがこれから歩む道のゴールが死の先にある命だからです。命の道なのです。

わたしに従いなさい。しかしそれは、自分の命を捨てて、それで終わりというわけではなく、それを救うと言います。私たちの人生の嵐は激しく、常に揺れ動き、不安、悩みは絶えず、苦難が待ち受けているかもしれません。しかし、その苦難を通して、私たちはキリスト、永遠の命をもたらすキリストという土台の上で、生きながらえるのです。どんなに揺れ動かされても、私たちの中にあるキリストの土台が支えてくれるから。神の愛ががっしりと私たちを掴んでいてくださるのです。だから、私たちの土台となってくれるキリストが共にいてくださる。いつ崩れるかわからない自分自身という土台を払って、このキリストの土台を受け入れること。それこそが、自分の命を失い、キリストが与えてくださる命に生きることなのです。

今日の第2日課でありますガラテヤの信徒への手紙で、パウロはこう言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(32628

神の子として、キリストを着ている。パウロはこう表現しました。そう、キリストに覆われているのです。この覆いが私たちを支えてくれる。さらに、この覆いに入っているのは、あなた一人ではないということ。キリストによって、ひとつされている私たち相互間の歩み、愛し合う友がいつもいてくれるということであります。男も女も、人種という壁を突き破って、キリストに連なる私たちの姿があります。ここに真の命があり、その喜びを分かち合いましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年6月30日 聖霊降臨後第3主日の説教 「安心して行きなさい」

「安心して行きなさい」ルカによる福音書7章36~50節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

以前、教会だよりなどでも紹介したことがあるのですが、イエスキリストの十字架による罪の赦しとは何か。ということについて考えていた時に、三浦綾子の小説「道ありき(青春篇)」を読んで、ヒントを得たシーンがあります。

彼女は学校の教師をしていましたが、敗戦を迎え、教師として教えてきた、信じてきたことを否定されてしまいます。さらに、彼女は若くして、当時死の病と恐れられていた肺結核を患い、療養所での闘病生活を余儀なくされてしまうのです。信じることを恐れ、虚無的になっていた彼女は、そこでお酒を飲み、煙草を吸うなどして、治療に専念できませんでした。そんな時、この療養所で前川正という、後に彼女をクリスチャンに導く青年と出会います。彼は心から彼女の行く末を案じ、何かと気にかけるのですが、当の本人は心を開くことができず、生きることに意味を見いだせない自虐的な言葉を彼にぶつけます。ある日、彼は彼女を春光台の丘という場所に散歩に誘います。2人で景色を眺めていた時、生きることに消極的な発言ばかりをする彼女に対して、前川正は彼女に諭します。しかし、そんな彼の発言に反発するかの如く、彼女は身体に悪影響のあるたばこに火をつけて、たばこを吸おうとします。その時、彼は彼女の健康を心配する言葉を発しながら、深いため息をつき、そして、傍にあった小石を拾って、突然自分の足に打ち付けました。彼は涙を流して、自分の足を打ち付けながら、自分がいくら神様に祈っても、自分には彼女を救う力がないということを悔やみます。彼女はそんな石を打つ付ける彼の姿、涙を流す姿に呆然としつつも、彼の姿から、己の生きる道を指し示されました。小説の中で、彼女はこう語っています。

「自分を責めて、自分の身に石打つ姿の背後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと、わたしは思った。それは、あるいはキリスト教ではないかと思いながら、わたしを女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを、わたしはわたしなりに尋ね求めたいと思った。」

前川正の姿にキリストを見出した彼女の人生は大きな転機を迎えます。その後、このキリストが彼女の人生の土台となっていくのです。心を開き、現実を受け入れて、前向きに生きていく彼女の姿が描かれていきます。彼女に生きる力を与えた前川正の姿を通して示されたキリスト。石を打つ付ける前川正の姿の中に、私は十字架の贖いを見出したような気がしました。キリストの十字架は、かたくなな私という存在を受け入れてくださり、生きる道を指し示してくれる神の愛であると知った時、「救い」とはこういうことなのかと。罪赦されて、神様と向き合い、自分を神様に委ねるという新しい命に自分も与っているのだという導きを、改めて今も感じております。

主イエスはファリサイ派のシモンの邸宅に招かれ、食事の席に着きました。ここイスラエルでも食事は親密の証しです。相手との信頼関係を深め、交わりを豊かにするものです。その時「一人の罪深い女」(37節)がシモンの家に入ってきました。当時のユダヤでは、客が招待されている席に他の人が入って来るのは、ごく当たり前のことでした。けれども、入って来たのはシモンの忌み嫌う罪深い女性だったのです。この女性は「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(3738節)とあります。これはお客さんに対するもてなしの態度だったと言われます。家の主人であるシモンではなく、この女性が、しかも涙でぬらしながら主イエスをもてなしたのでした。「足を涙でぬらし始め」とある「ぬらす」という言葉は「雨を降らせる」とも訳せる言葉です。つまり、雨が降るかのように、女性は激しく泣き続けていたということでしょう。

この光景を見ていたシモンは「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)と思っていました。シモンたちファリサイ派の人々はわかっていたかもしれませんが、この女性がどのような罪を犯して、罪深い女と言われるようになったのかはわかりません。そして今、この女性が、罪深い者が主イエスに触れていることが問題であると言うのです。もし預言者なら、そういうことは許されないはずだと。しかし、この人はこの女性のしていることを注意せず、させるままにしておかれる。この人は私たちが求めている方ではないのか。罪人を裁き、神様の律法を忠実に守る人を救われる方ではないのか。そのような期待を抱いていたのでしょう。彼らファリサイ派と呼ばれる人はそれほど真面目に、人々の模範となるぐらいに、神様の教えを守り、人々に教え、そこに生きていた人たちなのです。ですから、彼らはその女性に裁きの眼差しを向けつつ、さらにその厳しい眼差しはあの罪人を野放しにしておかれる主イエスに対しても向けられ、主イエスに対して疑問といらだちを覚えていたのでしょう。

主イエスはシモンたちの眼差しをおそらく受け止めていたのだと思います。だから、彼らにある話をしました。借金のお話です。金貸しからある人は500デナリオン、ある人は50デナリオンを貸りますが、両者ともお金を返せず、金貸しは彼らの借金を帳消しにするというお話です。そして主イエスはどちらがこの金持ちを多く愛したかと質問します。質問に対し、シモンは500デナリオン借りた人の方が、多く金貸しを愛すと答え、主イエスは彼の答えを肯定しました。

ここで主イエスは「借金を帳消しにしてもらって、どちらが多く喜んだか」と言っているのではなく、「愛する」という言葉を使っています。帳消しにしてもらった人が、喜びに満ちて終わるということに留まらず、金貸しと「愛する」という関係性にまで発展しているのです。また主イエスは「多く」という言葉を使っています。愛するということに多さ、少なさということがあるのかと思われるかもしれません。そういう疑問を抱く私たちに、敢えて主イエスは私たちに言われるのです。それはなぜか、次のシモンへの言葉でわかります。44節です。主イエスは女性の方を向いて、シモンに「この人を見なさいか」と言われました。「この人を見ないか」。印象深い言葉です。主イエスに言われなくとも、シモンはこの女性を見ていた。何を見ていたのか。この女性の罪深さです。涙ではなく、裁きの眼差しで見つめていたのです。そして、彼女を見て、自分の立ち位置を確認し、彼女は自分より罪深いと思っていたのでしょう。しかし、彼自身は主イエスを見てはいないのです。神ではなく、自分ばかりを見ていた。そこで主イエスは言われたのです。「この人を見よ」と。見方を変えろとまで言っているかの如く。シモン、あなたは私を見ていなかったと言われるかのように、自分に対するもてなしは一切しなかったと、シモンに言われます。それでも主イエスは尚自分を見ろとは言っていないのです。この人を見よと言われる。何を見るのか、「愛の大きさ」を見よと言われるのです。

この女性は涙を流しました。涙で主イエスの御足を濡らしました。主イエスをもてなしたのは、この涙です。この罪人の涙なのです。この涙が表すのは、悲しみ、苦しみからくるものだったのでしょうか、それとも喜びや感謝から来るものだったのでしょうか。この涙にはそれらすべての思いが詰まった彼女の存在そのものが突き動かされるものだったのではないかと思います。雨を降らせるほどに激しい彼女の思いが込められている涙です。主イエスはこの涙を通して示された愛の大きさを、彼女が多く赦されたことに対する実りであると言います。

愛の大きさに見られる罪赦された彼女の姿を、愛に生かされて、新しい歩みを成そうとしている姿に目を向けなさいと、主イエスはシモンに言われるのです。それは彼女の主イエスへの愛の大きさに示された彼女の姿の中に、主イエスはおられるということなのです。神の御心がそこに示されているのです。主イエスは彼女の涙を受け入れ、その涙の中に留まれた。涙に示された罪深さの中に、共におられたのです。シモンは彼女の涙の中におられるキリストを見てはいなかった、いや見出すことはできなかったのです。

主イエスは最後に、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。あなたは救われたと言っただけではなく、彼女の信仰によってと言います。あなたは愛されている、赦されているから大丈夫だと、それだけを言っているのではないのです。彼女の涙と共におられる主イエスによって、彼女自身が愛するものとして新しい生き方へと導かれているということを表しているのです。

エフェソの信徒への手紙3章18~19節でパウロは言います。「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、実に豊かな表現です。これだけ多くの人を助けた、これだけ多くのことをして、役に立つことができたという目に見える大きさ、上だけを見る直線上に縛られる愛の範囲ではありません。また自分の立場、環境によって、ファリサイ派の人であろうと、罪人であろうと、愛の大きさを表せるかどうかということは計ることができないのです。私たちの側ではなく、人の知識をはるかに超える愛の実りが、今まさに彼女の涙の中に、愛と赦しの涙として表されているのです。その信仰を彼女の涙に見られます。ただ泣きじゃくった涙ではなく、キリストが受け止めてくれた涙です。その涙の中に示された彼女の罪深さと赦し、そしてキリストへの愛。この涙こそが彼女の信仰であり、彼女自身を救ったのです。

私たちは、彼女の涙を通して、その涙に示された罪深さの中に共におられるキリストを仰ぎ見たいものです。教会讃美歌307番「まぶねの中に」の4節の歌詞にこう書いてあります。この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ 人となりたる 活ける神なれ。

私たちは何を見るのか、何を見て自分の土台を築くのか、人生を歩んでいくのか。他人の落ち度でしょうか。失敗でしょうか。弱点でしょうか。そこにしか目を向けられないところに、人間の盲目さが現されます。人間の弱さ、みじめさ、無力さの中に、嘲りを見出しますか、それとも、神の憐れみを見出しますか。問われているのは私たち一人一人です。しかし、私たちがどのような目で、何を見ようとも、キリストは私たちに十字架による赦しの愛を示してくださいます。この罪深い女性のため、またシモンのため、そして私たち一人一人のための十字架なのです。だから、あなたは赦されている。愛に生きることができるとキリストは言われます。愛の招きが私たちに向けられています。神への愛の大きさは、神への信頼です。この信頼へと思いを委ねて、自分自身の土台を築いていきたい。「この人こそ 人となりたる 活ける神。」私たちの只中に宿られ、私たちの涙、労苦と共に歩んでくださる方です。どこまでも一緒に。終わりの時まで。この神様と共に、平安の内に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

☆ 7月夕礼拝のお知らせ ☆

☆ 7月夕礼拝のお知らせ ☆

今週木曜日(7/4)午後7時から。説教題「待ち続ける神
ルカによる福音書13章1ー9節(新約134ページ)

聖餐式もあります。

皆さまを、お待ちしております。