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2019年6月23日 聖霊降臨後第2主日の説教「返される神」

「返される神」 ルカによる福音書7章11~17節 藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  梅雨時ですが、緑豊かな新緑の季節となりました。そして教会歴の色も緑になりました。緑の典礼色は希望や成長という意味があります。緑一面の木々を見て、成長の豊かさを感じるものですが、この希望や成長とは神様の御業におけるものであります。神様がもたらしてくださる希望であり、豊かに成長して実りを与えてくださる神様の恵みです。

聖書にはその希望や成長をもたらしてくださる神様の御業が至るところに描かれていますが、それは人々の苦難や悲しみといった闇の只中に示されたものでした。光が闇の只中で輝くように、絶望の中で、神様は希望の光を与え、私たちを慰め、導いて行かれるのです。

さて、主イエスが弟子たちと共にやってきたナインの町では、主イエスの歩みとは入れ違いに、これから町の外に向かって行こうとする人々の姿がありました。それは、やもめである母親の一人息子が亡くなり、その棺を担ぎ上げて行進していく一団でした。おそらく町の外にあるお墓に埋葬するためであったのでしょう。ですから、葬儀を終えて、これから葬送の行進をしていく人々と主イエスは遭遇したのです。

この時、ナインの町の人々が主イエスのことを知っていたのかどうかはわかりません。ナインという町は、ナザレから南東に10キロほど離れたところにある、ガリラヤ地方の南端にある町であったと言われています。主イエスの噂がそこまで広がっていたのかも知れませんが、人々の方から主イエスに声をかけることはなかったでしょう。息子は既に「死んでいた」からです。死者を生き返らせることなど誰にでもできようがないと人々は思っていたからだと思います。町の人々はやもめの女性に付き添い、彼らもまた、やもめと同じように、悲しみの只中にあったことでしょう。やもめというのは、夫に先立たれた未亡人です。当時の社会の中で、夫に先立たれた女性が生きていくことは大変なことでした。再婚して新しい夫に養ってもらうか、息子に養ってもらうかしないと生きてはいけませんでした。ですから、自らが愛し、頼りにしていた一人息子を失うということは、その悲しみを背負いつつ、困窮した生活をこれから送っていかなくてはならないということを意味するのです。

主イエスはこの母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。母親としてしっかりしろという意味で言ったわけではありません。この母親のまなざしを全く別の方向へと導くためでした。主イエスはその言葉をどこから語られているのかと言いますと、それは母親の涙の中から語られているのです。同情はしているが、涙の外にあって、悲しみとは別次元の所から語っておられるのではないのです。主は確かに彼女の涙の中に共にいてくださっているのです。

それは主がこの母親を憐れんでおられるからです。ただそれは私たちの憐れみ、私たちが同情を寄せるのとは異なります。この憐れみという言葉は、人間の「はらわた」とか、「内臓」という言葉からきています。それは人間のいのちを司るものと思われているものです。憐れに思うというのは、はらわたが痛むということです。命を司る器官が痛みの内にあり、急所にぐさっとつきささるほどの絶大な痛みを伴っているのです。彼女の痛みを我が痛みとなされる憐れみの神がおられるということです。ようするに、この母親の、私たち人間の痛みに神様は素通りして行かれる方ではないのです。素通りして、悲しむな、泣くな、絶対に救われるから大丈夫だと蚊帳の外から語っておられるわけではない。痛みを伴うところに、神様は立ち止まられるのです。神様はそこにおられるのです。私たちの痛み、悲しみ、涙の中に。

「もう泣かなくともよい」。その言葉は主イエスが彼女に命のありかを示す言葉でした。息子の死を通して、もう命はないと思っていたわけです。それは私たちも自然と受け止めることです。しかし、息子は生き返って、命は返されたのです。息子自身の中にではなく、主イエスにある命です。主イエス、神様によって与えられている命に私たちは生きているのだと。

私たちの感覚から、この息子はただ眠っていたということではありません。確かにこの息子は死の内にあったのです。起きなさい、この主イエスの言葉によって彼は生き返りました。主イエスが彼と共にいてくださったからです。主イエスを離れては、命は与えられないのです。そして16節で「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言います。ここで現れたという言葉がありますが、実はこの言葉が14節の「起きなさい」という言葉と同じ言葉なのです。死の淵から起き上がった息子のように、主イエスも人々の間で起き上がって現れた。まず初めに主イエスご自身が死の淵から起き上がった。生き返ったということ。だから、主イエスご自身の中に復活の命があるのです。起き上がるという言葉は、復活するという意味の言葉でも使われています。主イエスが与えられる命は、死を素通りしたものではなく、死を通って与えられている命なのです。

主イエスは私たちに憐れみを示されます。我が心の痛みとしてくださいます。そして痛みだけでなく、主も死なれるのです。十字架にかかって死なれ、究極の憐れみを私たちに示されるのです。ただ神様の答えは、その死がゴールではないということ。神様の命であるということをキリストの復活の内に見ることができるのです。

私たち人間にとっての命のありかは、主イエスの中に見ることができます。復活の主の中における命です。

私たちはもう死なない世界の中に生きているわけではありません。この息子もまたいずれは死を迎えたことでしょう。それは描かれてはいませんが、主イエスは復活の命を通して、私たちを死における孤独の中には立たせない、私がどこまでも共にいると約束してくださっています。

私たちにいのちを与え、ただありのままに私たちを憐れまれ、愛される方、主イエスキリストと出会い、このお方にいのちを委ねるならば、私たちはいづれ朽ち果てるこの世のいのちに優る尊き恵み、真のいのちを知ることができます。真に私たちを生かしてくださる恵みを知り、生きる力を得ることができるのです。それは決して平坦な道ではありません。試練の連続かも知れません。とても辛いかも知れない。辛いけれど、それは私たちの生きる力の本質ではありません。それらは表面的なことに過ぎないのです。辛さの只中にあって、「神はその民を心にかけてくださった」のです。主の憐れみはどれほど深い事か。私たちの心に、魂の奥底にいのちを与える方なのです。

死の現実がしか見えない痛みと悲しみの中に、主は憐れまれ、死に覆われているところに、命の光を貫かれました。主ご自身が死なれ、復活の命を明らかにしてくださるからです。だから「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。これは私たちへの約束の言葉、命の言葉です。主イエスは死の傍らにある私たちを通り過ぎず、そこで立ち止まられ、このように約束してくださいました。だから、この主イエスの恵みを知り、私たちはこの命の主イエスを語り続けていくことができるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年6月16日 三位一体主日礼拝の説教「聞いたことを語る」

「聞いたことを語る」 ヨハネによる福音書16章12~15節 藤木智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週のペンテコステにおいて、聖霊の働きが御言葉を通して私たちに示されました。この聖霊について、今日の福音書で主イエスはこう言われます。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(13節)聖霊、それがここで真理の霊と言われています。この霊が私たちに真理を悟らせる、真理へと導くというのです。真理と聞くと、何か哲学的な難しいことを考えてしまうかもしれませんが、聖書では、主イエスがご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができない」(14:6)と言われているように、それは主イエスキリストに関わることであり、主イエスによって真理が明らかになったということを告げているのです。では主イエスが明らかにされる真理とは何か。それが「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)とご自身が言われるように、神様のこの世への愛、私たちひとりひとりへの愛であり、それは十字架と復活を通して、私たちに示されたことなのです。その主イエスの真理の愛を悟らせるのが聖霊の働き、導きなのです。真理は神の愛を悟らせると言えます。だから、真理と愛は重なっている、切っても切り離せないものであると言えるでしょう。

しかし、直前の12節で、主イエスは「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」と言われます。理解できないというのは単なる知識としての理解ではなく、口語訳聖書でこの箇所を「あなたがたには堪えられない」と訳されているように、今の彼ら弟子たちには堪えられない、受け止められないことだというのです。この主イエスの告別説教と言われるヨハネ福音書の16章の姿に見られる弟子たちの心境は、主イエスとの別れを告げしらされ、悲しみの極みの中にあったものでした。その堪えられない、受け止められないことが、「出来事」として起こってくるのです。すなわち主イエスのご受難と十字架の出来事であります。無残とも理不尽とも言える十字架の死、この世の敗北者として、惨めな主イエスのお姿の中に、彼ら弟子たちはそれが自分たちへの贖いの業、救いの業であるということを見出すことはできないのです。彼らはあの十字架から逃げ去ってしまうからです。

主イエス御自身は今、語らないのです。語られることは、語られるだけに留まらず、出来事として、彼らに、いや彼らだけでなく、イスラエルの人々に、さらに私たちに示さなくてはならないあの十字架の出来事だからです。子なるキリストの贖いの業を成就させるために、主イエスは今お語りになることが出来ない堪えざる真実を弟子たちに、私たちに示しておられます。しかし、それは耐えざる真実に留まらないのです。そう、堪えることではなく、それが救いの出来事として、喜びへと変えられる。それでも、この世の価値観が逆転するのではなく、堪えざることは耐えざるままです。現実は変わらない、自分たちでは変えられないのです。

しかし、彼ら弟子たち、そして私たちを変えて下さる方を主イエスは証しされる。それが「真理の霊」です。私たちを導いて、真理を悟らせる方。その方は「自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」その方は主イエスに栄光を与える、すなわちそれは、主イエス御自身に神様が顕されるということ、もっと、具体的に言えば、あのみすぼらしく、無残な十字架上の主イエスのお姿の中に、神様が、その愛が示されていると言うのです。弟子たちは、この神様の愛を、真理の霊によって受け止める。パウロがローマの信徒への手紙5章5節で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と言っていることなのです。

また主イエスは真理について、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)とも言われました。この自由というのは、何でもかんでも傍若無人に振る舞い、何をしてもいい、許されるという意味ではありません。真理によって、本当の自分自身が見出されるということです。誰に強制されてでもなく、また自分を偽るのでもなく、そのままの自分が見出される、本物の自分自身であるということです。それがはっきりとするということなのです。真理は本物のあなたを見出す、それを導くのが聖霊の働きであると言えるでしょう。

相田みつおさんの詩に、こういう詩があります。

トマトがねえ/トマトのままでいれば/ほんものなんだよ/トマトをメロンに/みせようとするから/にせものになるんだよ/みんなそれぞれに/ほんものなのに/骨を折って/にせものに/なりたがる

トマトがメロンを意識することによって、トマトがメロンになろうとする、またはメロンと比べるトマトの姿がある。トマトは自分自身であって、メロンは他者であり、自分があこがれるものなのかもしれません。それになりたい、またはトマトである自分がメロンのようなより価値あるものとして見せたい思いが私たちの中にはあるのかと思います。しかし、それは骨を折って、にせものになりたがる自分の姿があるのだと、この詩は私たちに伝えているように思えます。トマトというほんものの自分がありながら、メロンに縛られている自分の姿があります。トマトがメロンを無視して、気まま勝手にふるまえということを言っているわけではなく、トマトであるほんものの自分を知り、自分自身がそれに気づけているのかということが言われているのです。自分自身でも気づかない、本物の自分に気づかされる出会いや経験があります。トマトはトマトのままで本物の自分があるのです。そのはっきりとした真実、真理へと導いてくれる力が、真理の霊である聖霊の導きではないでしょうか。真理の霊はキリストを私たちに紹介し、キリストは本物のあなた、そのままのあなたを愛されるのです。メロンと比べるわけでもなく、メロンを拒絶するものでもなく、トマトであるあなたのままに、キリストは私たちを愛し、命を与えてくださっているのです。

そして、先ほど愛と真理は重なっている、切っても切り離せないものであると言いました。本物のあなたのままに、神の愛はあなたを愛しておられ、あなたの存在を喜んでくださっているのです。それはルカによる福音書15章にある(15:1~7)一匹の迷いでた羊を探す見つけたときのあの羊飼いの喜び、ぼろぼろになって、迷い、道を失っていた羊が羊飼いに探され、見つけられたという見出される喜びなのです。そして羊飼いもまた、羊のために命をかけて羊を探すのです。その姿はあの十字架に見出されるのです。真実の私たちの姿、ありのままの姿の中に、キリストは近づいてきてくださり、私たちが努力をして、それこそトマトがメロンになるように、自分を偽って、見栄えよくすることによって神様の神秘に近づくことができるのではなく、トマトである自分と同じトマトの姿で、つまり人間の姿でキリストは私たちのところに来て下さったのです。「真理をことごとく悟らせる」、真理の霊は、真実の私たちのままに神様が愛し、その存在を肯定してくださっていることを私たちに気づかせてくださるのです。その神様の恵みが日毎に私たちに注がれ、私たちを生かしてくださっている。その真理へと私たちを導いてくださるのです。

真理の霊によって見出される神様の愛、キリストが命をかけて愛してくださっている十字架の愛と、その死から生き返った復活の命の中に真理があるのです。自分が自分らしく、オープンに生きられる、いや生かされる人生。キリストは私たちに、神様の御心を顕された方、神様の愛をオープンに示してくださった方なのです。十字架の赦し、復活という永遠の命の約束は、この世の価値観では、虚無に等しいけれど、理解されないけれど、神はあなたを愛す、そのメッセージを、御身を持って示されたキリスト。その喜びを真に私たちに悟らせてくださるのが真理の霊、聖霊なるお方なのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。