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2019年5月5日 復活後第2主日の説教「復活の香り」
「復活の香り」ルカによる福音書24章36~43節 藤木智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今週の主日もまた主イエスの復活について、私たちは弟子たちや婦人たちの証言を通して、聖書の御言葉から聞いています。そして今日の福音は、主イエスの御姿を弟子たちが明確に目撃する箇所であり、いよいよ、主イエスの復活についての核心に迫っていくのです。
今日の福音の箇所を見る前に、改めてこれまでの弟子たちの心境と、主イエスの復活についての様々な証言について見ていきたいと思います。主イエスが捕えられて死刑に処せられ、そして死んだことを聞いてから三日後に婦人たちから驚くべきことを聞かされました。その時までは、おそらく彼らは主イエスが死んだことの悲しみと、自分たちも捕まってしまうという恐ろしさを抱いていたかと思います。そんな心境にある彼らにもたらされた報告、それは主イエスの遺体が、墓穴に見当たらなかったこと、そして、ふたりの神様の御遣いの言葉でした。それは『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』という内容の言葉でした。それは生前の主イエスご自身が弟子たちに語られた御言葉であるということを私たちは思い浮かべると思います。今まさに、その御言葉が実現したという知らせだったのです。しかし、彼らは婦人たちの報告をたわ言だと思って、信じませんでしたが、ペトロは墓まで走り、遺体が見当たらないことを確認して驚いています。この空虚な墓の出来事、御遣いたちの言葉、ペトロはそれが嘘ではなく、本当に復活されたという思いを抱きます。
そして、次の復活の報告は、エマオでの出来事です。クレオパたちの前に現れた一人の人が主イエスご自身であったということ。彼らの目は最初、遮られていましたが、食事の席で主イエスが賛美の祈りを唱えて、パンをお渡しになると、彼らの目が開け、主イエスだとわかった。しかし、その姿は見えなくなってしまったという出来事。彼らは結局主イエスだと認識して、その姿を見たわけではありませんでしたが、聖書の説明を受けている時、自分たちの心は燃えていたという心境を語っています。そしてエルサレムにすぐ戻り、ペトロたちと合流して、彼らと分かち合います。空虚な墓、御遣いたちの言葉、エマオで現れたという出来事と、私たちは改めて主イエスの復活の経過を辿ってきました。どの出来事も、人間の業によるものではないことを私たちは知ります。
しかし、まだ私たちは多くの疑問を抱きます。主イエスの復活の本質は何であったのか、ただの象徴にすぎなかったのかと、考えてしまうかも知れません。弟子たちの証言は断片的で、現実性を帯びてはいないのです。弟子たち自身も、外見は主イエスの復活を理解しようとしていますが、実際はまだ復活した主イエスには出会っていなかったのです。彼らは復活したという出来事に喜んでいたのではなく、むしろ驚いているのです。その心境は非常に複雑で、冷静さを失って戸惑っていたのかもしれません。
さて、その心境にある彼らの前に、主イエスは現れ、彼らの真ん中に立ち、弟子全員がその姿を見ます。『あなたがたに平和があるように』と言って彼らを祝福されます。口語訳聖書ではただ一言『安かれ』といって、彼らを慰めています。主イエスは単に挨拶しただけではなく、まず彼らの複雑な心境を慰められたのです。その姿は、主イエスを見捨てた弟子たちに対する不信仰さを咎め、怒る神様としての姿ではなく、何よりもまず、彼らの心境を慰め、憐れんだ主イエスの愛の神様としての御姿だったのです。しかし、弟子たちはその姿が亡霊に見えて、恐れおののく、つまり取り乱しているのです。マタイによる福音書14章26節とマルコによる福音書6章49節でも彼らは湖の上を歩く主イエスが亡霊のように見えて、恐怖のあまり叫び声をあげています。その実体のない姿に恐れ、取り乱すのは、おおよそ主イエスがこの世の者ではないという印象があったからでしょう。まして、主イエスが実際に死んで埋葬された後にその姿を見れば、誰もが取り乱します。この世の者ではない、つまり生きていない者、死んだ者を認識することなど、不可能なのです。弟子たちの中には確かに遺体が見当たらない空虚の墓を見た者がいたし、エマオで現れた主イエスに出会ってはいましたが、今目の前にいる方が、墓に埋葬された遺体であり、エマオに現れた主イエスだという確証は全くないのです。死者がそのままでの姿で復活するとは彼らは考えもしなかったでしょう。それは彼らが死後の世界がはっきりわからないように、私たちにもわからないのです。死ぬことは人生の終わりであり、肉体は消滅し、お墓に埋葬される。霊だけの見えない姿になって、その後は天国とか地獄とかの別次元の世界にいき、生きている者たちの世界と切り離されていくと思うかも知れません。
私たちはそのように理解して、生きている者たちの世界と、死んだ者たちの世界を区別します。それはやはり、死後の世界がわからないがゆえに、私たちは不安になり、恐ろしくなり、また悲しくなるという心境からくるものでしょう。だから、お化けや幽霊などの実体がないものの話を聞いたり見たりしてしまえば、怖くなり、冷静さを失って取り乱したり、死んだ人間が生き返ったと聞けば、何か魔術的な力によるものであるとか、非現実的なことを連想してしまいます。しかし、主イエスの復活、キリストの復活は、実体のないあいまいな姿として恐れられる存在としての復活ではないのです。弟子たちと同じ肉の体においてではないが、生きている者なのです。主イエスは彼らに手と足を見せ、そして触らせます。肉や骨がある実体だからこそ、弟子たちは見ることができたし、触ることもできる。亡霊のような存在ではない。復活した体が本当にあったのです。弟子たちが恐ろしさのあまり証拠を確かめるために、主イエスを観察したり、触ったりして、確信したのではなかったのです。主イエス自身から、彼らを導いて復活の証を示したのでした。それによって、彼らの心境は一転して、喜びへと変わっていきます。喜びのあまり、信じられず、不思議がっている彼らですが、それは心を乱すような恐ろしさをもう抱いてはいないのです。ただ、今目の前で起こっている出来事に、本当に喜んでよいのかという戸惑いを感じるのです。まるで夢でも見ているかのように、目の前の出来事が都合よく突き進んでいくのです。
しかし、これらの出来事は全て、彼らにとっての能動的な動作ではなく、受動的な動作なのです。彼らの視点から見ると、見せられ、触らせてもらっているのです。そして、さらに主イエスは自ら一匹の魚を食べて見せるのです。手や足があることと、亡霊であれば、食事をすることなど、不可能であるということをはっきりと示されたのです。これらの出来事は主イエスが生前弟子たち共に食事をし、生活をし、共に旅に出た方であるということをはっきりと示されたということでした。主イエスが真の体を持っていること、食事をし、本当に生きていることを示したこの復活の出来事を、後に弟子たちは人々に宣べ伝えて行くのです。
主イエスの復活は、真に命ある体を持った姿であり、死者の中から甦ったことを、私たちに伝えています。『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』という聖書の御言葉の実現は、そのようなキリストの復活へと焦点が向けられているのです。コリントの信徒への手紙1の15章20節ではこう記されています。『実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』死後の世界では、キリストを信じる者が、初穂となったキリストと共に復活するのです。その時は終末の日であり、キリストが再臨し、キリストを信じ、キリストに属する者がよみがえることを示しているのです。ローマの信徒への手紙6章4―5節ではこう記されています。『わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からさせられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。』
私たちはいずれ肉体的な死は迎えますが、その死はすべての終わりを指すのではなく、むしろ、キリストが再臨する終わりの時に、新しい命をもって、霊の体をいただいて復活するのです。死後の世界において、その肉体が失われ、亡霊のような存在になるのではないのです。キリスト共に復活する時を待ち望むのです。その完成された日に向かって、私たちは死後の世界を恐れることなく、復活を信じて日々をキリスト共に歩んで行くことができるのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2019年5月12日 復活後第3主日
2019年4月28日 復活後第1主日の説教「燃える心」
「燃える心」ルカによる福音書24章13~35節 藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
先週のイースターにおきまして、主のご復活の喜びを皆で分かち合い、お祝いできたことを嬉しく思います。先週も言いましたが、パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:14)と言うように、主の復活がなければ私たちの群れは存在しません。キリストの復活によって、私たちの思いと心はひとつにされるのです。
復活物語は弟子たちの不信仰の物語とも言えます。弟子たちは婦人たちから主が復活されたという証言を聞きますが、彼らはその証言をたわごとだと言って、信じることができなかったのです。彼らは主を失い、自分たちの歩みもこれで終わりだと思っていました。また、ユダヤたちを恐れて、身を隠していました。そのような絶望の只中にあって、希望を見出すことができなかったのです。しかし、先週のイースター、主の空の墓を見た婦人たちに、神様のみ言葉であるみ使いたちは、彼女たちにこう言いました。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」(ルカ24:6~8)思い出しなさい。過去にあった出来事を単に記録として呼び覚ますのではなく、それは必ず実現するという神様の約束でありました。その約束が今、彼女たちへの神様からの答えとなって明らかにされている。彼女たちの恐れ、動揺、弟子たちの不信仰物語と切り離されたところにある主の復活ではなく、その不信仰の只中に主の復活は明らかになったのでした。そこで復活の主イエスと彼らは出会っていくのです。
今日の復活物語は有名なエマオ物語です。多くの画家がこの物語を描き、私たちの心をぐっとつかむ見事な描写で描かれています。二人の弟子の暗い顔、目が遮られて、大切なものを見失っている姿。そこから、二人の目が開け、燃える心を宿していた。主イエスは最初からふたりと共にいて、共に歩き続けてくださっていました。時間はかかっても、主イエスはずっとふたりと共にいました。このエマオでの途上も、二人の弟子たちに対して、「思い出しなさい」という神様からのメッセージが、主イエスによって終始ふたりに語り続けられていたのです。
エルサレムからエマオまでの60スタディオン、これは約11キロ半という距離だと言われています。結構な距離です。かつてはこのような長い道のりも、主イエスと共に歩いてきたけど、今はもう自分たちしかいない。「この一切の出来事を話していた」彼らの心境が重い足取りとなって、この長い道のりを歩いていたのでしょう。そこに主イエスの方から彼らに近づかれて、彼らと共に歩かれていったのです。
彼らは暗い顔で、それまでのことを主イエスに話しました。自分たちが期待していた救い主が死んでしまったことと、婦人たちの復活の証言のことを。自分たちには何のことかわからず、信じることもできない。ただ大切なものを失い、それは目には見えなくなってしまったという現実だけを見つめて、受け止めている彼らの思いがあるだけです。そこで主イエスは彼らに言われるのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(25~26節)彼らの後ろ向きの歩み、その闇深き思いに対して、主イエスは同情の言葉を投げかけたのではなく、むしろあなたがたは根本的にわかっていない、真実からそれていると言うのです。物わかりが悪く、心の鈍い者とはそういう意味です。根本的な真理から目を背け、目の前の事実だけに目を留めて、自分たちの思いだけに踏みとどまろうとすることです。彼らの目を遮っていたのは、自分たちの思いだけに踏みとどまっていたことでした。
弟子たちの思いに対して、主イエスは「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われ、ここでもこの弟子たちに、主の言葉を思い出しなさいと言われているようです。こういう苦しみとは、主イエスの受難と十字架の死です。それは彼ら弟子たち、そして私たちの苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きを我がこととして担われた十字架の死でした。それらの不幸を避けて神様の栄光、救いを顕そうとされたのではなく、まさにその只中を突き進んで、神様の救い、愛を完成されたのです。私たちが避けたい事柄、避けたい道、理不尽だと思うことからの救いではなく、そのただ中をこそ主が共に歩んで下さり、そのような荒れ狂う大嵐の中で舵取りをして、導いてくださるのです。主イエスは、力ではなく、苦しみの中にこそ、神の栄光を顕そうとされたメシア(救い主)だったのです。そして、その栄光は十字架の死で終わったのではなく、墓を打ち砕き、死を打ち滅ぼし、復活のメシアとして、私たちに示されたのです。主イエスはその神様の約束の言葉を彼らに語り続けました。
そして、エマオへの村に近づいた彼らは、主イエスを引き留め、一緒に食卓につきました。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らに渡すと、彼らの目は開け、そこでやっと主イエスだと分かったが、その時には既に主イエスの姿は見えなくなっていたと言います。主イエスとの食卓、聖餐の恵みを体現して、ここでもまた彼らは主の言葉を思い出しました。それが真実として自分たちに明らかにされていることを体現し、生きて働かれている主を見出し、復活の主イエスと出会うことができたのです。聖書の御言葉と聖餐の恵みによって、復活の主を体現したのです。今も生きて自分たちと共に復活の主がいてくださると。そのことを私たちは毎週の礼拝において確認し、復活の主との交わりをいただくのです。
弟子たちは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。主と歩いていた時、聖書の御言葉を聞いていたとき、彼らの心は燃えていました。気分が高騰し、熱狂的に燃え上がっていたのではなく、確かに命の鼓動を感じさせるような熱が自分たちに伝わってきたのだということでした。暗く、遮られていた彼らの心境、その闇の只中に光り輝くように、主イエスの復活の命の光が輝いていた。暗い顔をし、遮られていた目をしていた彼らの姿の中に、歩みの中に、既に主イエスは、彼らの心に神様の言葉、その約束は必ず実現するということを語り伝えていたました。彼らとは無関係の、冷めた言葉ではなく、彼らの歩み、命を生かす燃えた言葉となって、彼らの心、魂の中に燃えているのです。それは何よりも、このエマオでの途上で、一緒に歩き続けてくださる中で、主イエスご自身が彼らの心に復活の命の灯を灯してくださったのです。彼らのペースに合わせて、心境に合わせて、同情するわけでもなく、確信と愛をもってして彼らに寄り添い、これで終わりではなく、ここからまたあなたがたの歩みは始まっていくという神様の約束を明らかにしてくださったのです。
今日の詩篇交読は16編でした。この中でこういう言葉があります。「主(しゅ)は右(みぎ)にいまし、わたしは揺(ゆ)らぐことがありません。」共に歩いてくださる主は右にいると言います。これはただ近くにいてくださるというだけではありません。右というのは、右腕と言われるように、信頼に足る存在だと言われます。そこに主がいてくださる。主が私たちの右腕となって保護してくださるのです。心が燃えるとは、目に見える事実からの心地よさ、感動ではなく、見えなくても信じて信頼できることです。今この時も、主イエスが私の人生を共に歩んで下さっている。主イエスが一緒に歩いてくださっている。主が私の右腕、私の信頼できるところに共にいてくださる。厳しい現実の只中にあって、私の歩みを共に歩いてくださり、確かに導いてくださる。主イエスご自身が「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われた苦難の救い主だからです。どのような時でも、主が私たちの右腕となってくださり、自分ではつかむことができない命を、主はしっかりとつかんでいてくださいます。弟子たちの燃える心、そして私たちの燃える心の根拠は、信頼できるところに、常に主が共にいてくださることにつきるのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。