マタイによる福音書25章1〜13節
説教:高野 公雄 牧師
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
マタイによる福音書25章1〜13節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
先週は全聖徒主日、先に召された方々を偲んで礼拝を守りましたが、来週はもう聖霊降臨後最終主日、マタイ年の終わりです。そして再来週11月27日は待降節第一主日、マルコ年の新たな始まりとなります。
そういう次第ですから、全聖徒主日が過ぎますと、教会の暦はあと二回または三回の日曜日を残すのみとなります。今年は今週と来週の二回になりますが、教会暦の一年の終わりに当たり、この世の終わり、終末について学びます。マタイ福音書25章の、イエスさま最後の説教から、今週は「十人のおとめのたとえ」を、来週は「すべての民族を裁くたとえ」を読むことになっています。
《そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く》。きょうのたとえ話は、ここまでが表題です。天の国が「婚宴」にたとえられています。「結婚」は神と人とが一つに結ばれる救いのイメージとして聖書にしばしば現れますが、ここでも花婿の到着と婚宴は、「世の終わり」の救いの完成を表しています。花婿が花嫁を迎えに来ると、《十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く》、そういうたとえ話です。
このたとえで、花婿は終末の時に再び到来するイエスさまを指し、花嫁とその友人であるおとめたちはそれを待つ私たち教会を指しています。若い女性を表す言葉は他にあるのに、わざわざ「おとめ(処女)」という言葉を使っているのは、信徒をキリストの花嫁という聖書の比喩表現に近づけるためと言ってよいでしょう。
このたとえ話は、当時のユダヤの村の結婚式の習慣を背景にしています。当時、婚宴は、多くの人が参加できるように夕方から始まりました。花嫁は、介添えをする友人たちと一緒に自分の家で花婿が迎えに来るのを待ちます。「十人のおとめ」は花嫁の友人たちです。
花婿の一行は花嫁を迎えるために花嫁の家に向かいますが、その行列は時間がかかり、花婿の到着はしばしば遅れたそうです。花嫁の家で、花婿一行と花嫁一行が合流して、花婿の家に向かいます。婚宴は花婿の家で行われるのです。
おとめが持つ「ともし火」は、花嫁の家の近くで花婿の到来を待っているときに灯している油のランプのことであって、花婿がたいへんに遅れたので、ランプが消えかけているということのようです。五人の油を持っていないおとめたちは、油を買うために店に寄ってから行ったので遅れてしまうのです。ちなみに婚礼は村にとってのお祭のようなものですから、それが行われる晩はお店が夜中まで開いていたと考えてよいでしょう。遅れた五人は婚宴の席に入れてもらえなかった、というのです。戸が閉められたことは、神の審判はこのように明確で取り消し不可能であることを表わしています。
このたとえは解説書によっては、「ともし火」と訳されている言葉を松明(たいまつ)と解釈して、興味深い説明をしていますので、ここで紹介しておきたいと思います。
たいまつとは、棒の先にオリーブ油を染み込ませた布が巻いたものです。花婿が迎えに来たとき、花嫁の友人のおとめたちはすぐにたいまつに火を灯して、歓迎の踊りを演じたそうです。そのたいまつは、火を灯しても15分ぐらいしか持たなかったようです。それで、たいまつ踊りの間に一度、油を注ぎ足さなければならないのに、五人の愚かなおとめはそのための油の壺を持っていなかったというのです。しかし、たいまつ踊りに補充用の油が必要なことは周知のことであったはずですから、それを持たないということは考えにくいという訳で、この解釈は少数意見にとどまります。
ところで、このたとえ話は、世の終わりにおけるイエスさまの再臨について教えているのですが、これには二つの側面があります。一つは、迫害などの厳しい状況の中で、この悪の時代は過ぎ去り、最終的に神による救いと解放が実現する、という希望を告げる側面であり、もう一つは、日常的な生活のさまざまな関心事に埋もれてしまう中で、最終的な神の裁きを語ることによって、今をどう生きるべきかを示し、回心を呼びかける側面があります。きょうのイエスさまの説教にもこの両方の面が含まれていますが、どちらかと言えば回心という側面が強く表れています。「花婿の到着が遅れた」というところに、初代教会の人々の特別な関心が表れているようです。最初のキリスト者たちは、遠くない将来にイエスさまが再び来て、救いを完成することを切望していましたが、その再臨は人々が予想したほどすぐには来ませんでした。そこで、再臨までの長い期間、「いつか分からないが突然訪れる」その時に向かってどのように生きるか、ということが、テーマとして浮上してきたのです。
《だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから》。このたとえの結論でイエスさまは「だから目を覚ましていなさい」と言います。でも、このたとえ話では十人とも眠ってしまいました。「目を覚ましている」というのは「肉体的に目覚めている」という意味ではありません。ここで「目を覚ましている」とは、「油を用意している」ということです。
この「油」は何を意味しているのでしょうか。きょうの箇所には「油」についての説明がありません。ルターは、この油は「信仰」を表していると主張したそうですが、今日ふつうには、余分の油は「善い行い」を表わすと考えられています。「ともし火」は、山上の説教の《そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるためである》(5章16)を連想させます。そして、賢いおとめと愚かなおとめの対照は、《そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった》(7章24~26)と同じようです。また、「ご主人様、ご主人様」の連呼と「わたしはお前たちを知らない」という否認は、《わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』》(7章21~23)と良く似ています。
このようにマタイ福音書の流れを見ていくと、「油」は「善い行い」を表していると言ってよいでしょう。しかし、たとえ全体のポイントは、「油」は何を表すかということよりも、重大な瞬間に愚かなおとめたちは準備ができていなかったことにあります。賢さ、愚かさは、知力の高い低いではなく、予備の油を携えているか否かで表されています。つまり、来たるべきものに対して目が開いており、ただ漫然と生きることをしないように警告されているのです。
このたとえを読んで、賢いおとめは、なぜ油を分けてあげなかったのか、分けてあげたら良いのに、と感じる人もいたでしょう。しかし、この油は「人に分けてあげることのできないもの」を指していました。それは、その人自身の生き方だったのです。このたとえでは、目を覚ましているという私たち自身の生き方そのものが問われているのです。
「目を覚ましている」とは、現在においてすでに将来の神の裁き、神の国の実現を目指して生きる、そのような用意ができていることを表しています。福音を受け入れるというのは、私たちの生涯をかけての事業です。花婿イエスさまの到来は、人にとっても自分にとっても救いと同時に審判をも意味します。イエスさまの到来、神の国の実現が、どんなに遠く先のことと思われても、イエスさまが来られるまで、私たちは忍耐して信仰を堅持し、研ぎ澄ましていなければなりません。まさに、《最後まで耐え忍ぶ者は救われる》(24章13)のです。イエスさまは絶えず私たちを顧みていてくださいます。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン