マタイによる福音書25章1〜13節
説教:五十嵐 誠 牧師
◆「十人のおとめ」のたとえ
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
マタイによる福音書25章1〜13節
私達の父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン
今朝は久し振りに説教にお招きを頂き、皆さんとお目にかかれて感謝です。普段は両手に収まる位の会員を相手に説教をしていますから、大勢の方々を前にしての説教は緊張を覚えます。今朝は共にイエスの譬話を聞きましょう。「十人の乙女」の譬です。
私は思いますが、イエスは卓越した・すぐれた短編作家であり、譬え作家と言えます。あの「放蕩息子」の譬は最高の短編小説ですし、譬といわれます。で、イエスはいくつくらいの譬を話したかですが、「共観福音書」(マタイ・マルコ・ルカ)には、学者によって違いがありますが、50くらいあるそうです。譬とは日本語辞典では「他の物事になぞらえていうこと」とあります。また、「他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと」でもあります。私なんかは、難しいことを易しくいうためによく使います。たとえばなんて言い、たとえば、たとえばを繰りかして、分からなくなることあります。
ギリシャ語・新約聖書の言語・では parableです。本来の意味は「比較」です。その場合、譬とは自然や日常生活ののような一つの領域において妥当することは、霊的な世界においても妥当するするという仮定に基づいて、自然や日常生活から類推され・ある霊的な真理を教えようと意図された比較であると定義されます。私は「日常の出来事を通して霊的なことを伝えるもの」と言います。霊的なこととは「よい知らせ・福音」であり「神の国の教え」であると。昔は譬は「天上の意味を持つ地上の物語」と言いましたが、正しいとも言えます。地上の物語・譬から、天上・神の意味を知ることが大事です。
今朝の譬は地上の物語の「婚姻。結婚」を用いています。ここからなにを学ぶかです。結婚のしきたり・習慣は地域や・集団でずいぶん違います。TVで見ることがあります。今ではエージェント代理店が結婚式や披露宴などしますから、画一的になりました。この六本木教会でも結婚式が行われます。昨日この教会で結婚式を担当しました。
今朝の譬も面白いです。当時の・一世紀のパレスチナの結婚の風習でした。ある旅行者が、それを見て、書いています。10人の乙女ですが、Bridesmaid(ブライズメイド)ですが、この教会でもあります。外国での経験なんでしょうが、花嫁の付き添をつける方がいます。男の場合はBest manと言います。この譬では花婿を迎える十人の乙女・娘が登場しています。譬に花嫁がいません。何故かですが、昔から疑問らしく、それを解決するために、あるギリシャ語聖書写本は、「花婿を迎えに出て行く」(25:1)のところに「花嫁」を記入しています。「花婿と花嫁をむかえに出ていく」にです。当時の結婚式は、花婿が夜に、友人と共に花嫁の家に行き、花嫁を友人と共に、新郎の家までエスコートするのでした。譬でイエスは、結婚式を子細に言っているのではありません。で、花嫁を省いたのです。というのは譬のスポット・ポイントは結婚式のドキュメンタリーではないからです。
ではポイントは・・強調点はイエスの「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい」、「目を覚ましていなさい」にあるからです。「迎えるために」「目を覚ましていなさい」です。
「ある時に備えて用意をしなさい」ですが、聖書を・・マタイの福音書の24章と25章は、その「ある時」を想定して、弟子たちに心構えを教えています。そのあるときとは何でしょうか。今年東日本大震災や原発事故でよく聞いた言葉がありました。「それは想定外」でした。イエスはあることが起きたとき、それは「想定外」の出来事でないと言われているのです。ある時とは・・教会の方はおわかりですが。説明をします。
教会は独特の暦をもっています。週報の表紙にあります。「~~~主日」の所です。で今日は「聖霊降臨後第二十二主日」です。来週は「二十三主日」ですが、「最終主日」です。つまり、来週は教会では「大晦日」になります。教会の習慣で、年末になると、「終末」・・世の終わりとか物事の終わりを思う時にします。今朝の譬えは終末・・世の終わりをどう迎えるかを教えています。キリスト教に限らず、ほかの宗教にも終末の教えはあります。キリスト教はイエス・キリストを中心に「暦」・教会暦が組まれています。教会は二つの時の間にある物です。イエス・キリストを巡る、最初の時と最後の時です。最初の時とはイエスの地上への誕生・クリスマスです。では最後の時とは?それは「使徒信条」(AD200年頃)・・当教会礼拝式文での信仰告白・信仰箇条にあります。こう書いてあります。((5ページにある)。「天地の造り主、全能の父なる神を私は信じます。その独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によりてやどり、処女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、3日目に死人のうちから復活し、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生ける人と死んだ人とを審(さば)かれます。聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦(ゆる)し、身体(からだ)の復活、永遠の生命(いのち)を信じます。アーメン」。これがクリスチャンが信じている信仰です。
その「処女(おとめ)マリアから生まれ」が最初の来臨・到来です。イエスは十字架上で死に、復活しています。そして、天に帰られて、神としての力と権威をもって生きております。最後の・第二の来臨・到来は「そこから来て、生ける人と死んだ人とを審(さば)かれます」です。クリスチャンとはこの二つの時の間に生きるものです。今の私たちもそうです。二千年にわたって、信徒は第二のキリストの来臨を待って生きてきました。初期
の信徒は「主イエスよ、来てください」(ヨハネ黙示録22:20)と熱心に祈りました。主イエスの到来が遅れたと言っている信徒に、使徒ペトロは答えています。
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。と言い、「主の日は盗人のようにやって来ます」と警告し、「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」と勧めています。(ペテロⅡ・3;8-12)。
そのペトロの薦めにしたがって、すべての教会は「主の祈り」でこころを合わせて祈りをしています。「み国がきますように」(第二の祈り)とです。この「祈り」で私たちはイエスの到来を切に祈っているのです。これはきちんと覚えていたいと思います。その祈りをする信徒にとって、今朝の譬えは聞くに値する、イエスの言葉になります。今日の科学的な時代に、イエス・キリストが再び来られるなんて信じられないと言う方もいるかも知れません。信徒の中にも、そんなことを考えてない人もいるかも知れません。確かに、イエスの来臨がいつかは・・明日かⅠ年後か10年後か、分かりません。だれもです。しかし、それはもう来ないではなく、それはいつでも来るし、その可能性があると言うことです。今日、今来ても不思議ではないと言うことです。そうすると毎日が、備える日になります。イエスが再来するのか、しないのかですが、私は、神はいるか、いないかの議論と同じで、神の存在を信じ、イエスの言葉を、私たちに救いを与えられようと願う言葉としてうけとめて、イエスの再来・来臨を求めて、信仰生活をおくるものでありたい。
今日、私たちは代々の信徒と同じく、時の間に・・キリストの最初の来臨とキリストの第二の再来の間に立ち、歩いています。「目を覚まして」いること大切な点になります。譬えでは十人とも眠っていますから、「目を覚まして」は「眠るな」ではないことは分かります。「眠るな」では毎日が「戦々恐々」(びくびくして)です。不眠症になります。そうではなく、「花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」時に、「ともし火」を絶やさない「油」の用意をしている、あるかが、問われていると、私は思います。
昔から、譬の解釈は問題がありました。譬えを解釈する時に、譬の中の人物、動物、物事などに意味を見つける方法です。それを寓意解釈・アレゴリカル解釈と言います。面白いですが、簡単な譬を複雑にします。その代表的な例は「イソップ物語」です。ところで、この譬えの「油」とは何かです。(皆さんはどう思いますか)。ある先生は「愛の行為」、ある先生は「立派な行為」、ある先生は「信仰」を意味すると言いました。私はそうではなくて、信仰者のあり方・有り様だと思います。それは「イエス・キリストを迎える用意・準備をしている」ことです。「イエスを迎える準備」とは、別の言葉で言えば「死を
迎える用意」でもあります。私たちが最後に会う方はイエス・キリストだからです。
私たちにはイエスについて、前もって二つ知らない出来事があります。一つはクリスマスです。クリスマスが起こるとは・・あのような方法ではとだれも知りませんでした。だから「驚いた」のです。二つ目は「イエスの再臨です」。だれも日時を知りません。しかし、必ず起こりましたし、起こります。何故かです。それは神が計画されて、神が実行されるからです。そのことを覚えていたい。
私は前には、人間は死に向かって歩いていくものだと思っていました。若い人はそうだと思います。しかし、後期高齢者75歳を迎えたとき、死に向かって歩くのではなく、死が向こうからやってくると言う感じを受けます。死がどんどんやってくるです。終末期をどう対処をするか問われています。
それと同じく、今までは神・キリストを目指して、見上げて歩く信仰生活でしたが、最近は、向こうからイエスがどんどんやってくる、近づいて来る。いや、来ていると言う感じです。終末が近くないと、高をくくって生きるのではなく、キリストの来臨に備えて信仰生活のあり方が問われていると言えます。
私は少し前に「私たちが最後に会う方はイエス・キリストだ」と言いました。私は最近、間違っているんではないかと思うことがあります。私は説教で、お話で、励ましのつもりで、「神に心を向けなさい」、「神を考えなさい」「祈りなさい」とか、「キリストに向かって、キリストを見て、見上げて」とか教会の方々に言いましたが、本当はそうでなく、「神はあなたを見ていますよ」、「イエスはあなたにこころを寄せていますよ」、「イエスは一緒に歩いていますよ」、「イエスは最後まで愛されていますよ」、まさに、イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)のです。私たちを愛し、愛し抜かれているイエスだからこそ、イエスの来臨を期待し、迎える用意をするのではないでしょうか。
今朝11月13日の朝日新聞「天声人語」でアメリカ大リーグのヤンキースの大スターのディマジ オの言葉が紹介されていました。彼は「(球場で)自分を見るのが最初で最後の人がいる。その人のためにプレーをしている」と言われたそうです。彼は日々最高のものを見せようと生きたのです。そのプロ意識はすごいです。私はこの言葉は別な意味で、私たちにも適用できると思いました。私たちは、私たちを見ている方がいる。その方・イエス・キリストのために日々生きると言うことではないかと。信仰のプロ意識を持っていたい。
今日の説教題は「そして、戸は閉められた・・」ですが、迎える準備をしていなかった5人の乙女は「愚かな乙女」と呼ばれています。一方。迎える準備が出来ていた5人の乙女は「賢い乙女」と呼ばれています。「そして、戸は閉められた」時に、どちら側にいるでしょうか。内側でしょうか、外側でしょうか。賢い選択をしたいと思います。
再び来られて私たちを 永遠の住まいに迎えられるイエスを待ち望みたい。
アーメン
*一言申します。今日は私の牧師になって50年のお祝いの会をいたします。六本木教会が準備をしてくださいました。また、館林と横浜教会が参加してくださいました。心から感謝をいたします。私はこの教会の前身である「目黒マルチン・ルーテル教会、館林聖ルカルーテル教会、大宮シオンルーテル教会、横浜泉ルーテル教会」。定年後は館林聖ルカルーテル教会、そして今年の4月まで当教会の協力牧師として奉仕をしました。私の牧師としてのその初めと終わりの教会で奉仕ができたことはうれしいことでした。神の恵みと皆さんの助けを頂き50年を迎えました。改めて感謝をいたします。有り難うございました。皆さんの上に神の祝福を祈ります。 アーメン
+参考に・
*仏教ー後期高齢者→末期高齢者→臨終期高齢者→西方浄土期高齢者・浄土に着地?
*キリスト教ー後期高齢者→末期高齢者→臨終期高齢者→天国期高齢者・神の国に着地0
+高名な仏教学者が明るい西方浄土に着地するか、暗いあの世に舞い降りるか、その辺の 所ははっきりしないと言う。しかし、キリストは確言します。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1-4)。