2011年12月18日 待降節第4主日 「主はその民を訪れた」

ルカによる福音書1章67〜79節
説教: 高野 公雄 牧師

父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

ルカによる福音書1章67〜79節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうは待降節第4主日で、アドベント・クランツのローソクが4本ともりました。クリスマスを祝う前に4回の日曜日を待降節(アドベント)として降誕の準備と待望の時を持つのが決まりです。

さて、今日の福音書は、聖書の小見出しで「ザカリアの預言」とありますが、この個所はむしろ「ザカリアの賛歌」という呼び名で通っているでしょう。詩編以外の個所に記されている詩歌は、旧約聖書にあるのも、新約聖書にあるのも「カンティクル Canticle」と呼びますが、その日本語訳が「賛歌」なのです。

ルカ福音書の1章と2章には三つの「賛歌」が含まれています。最初あるのが「マリアの賛歌」で、ラテン語聖書の最初の言葉をとって「マニィフィカト Magnificat」(「あがめる」の意)とも呼ばれます。これは讃美歌にもなっていますし、バッハ他の作曲もあり、よく知られた歌です。二番目が今日の個所の「ザカリアの賛歌」。これも初めの言葉をとって「ベネディクトゥス Benedictus」(「ほめたたえる」の意)と呼ばれます。三番目は「シメオンの賛歌」で、初めの二語をとって「ヌンク・ディミティス Nunc Dimitis」(「今こそ去ります」の意)とも呼ばれる周知の歌です。なにしろ、私たちは毎週、これを礼拝の終わりの部分で歌っているのですから。

これらの三つうちで「ザカリアの賛歌」は、一番なじみの薄いものだと思います。しかも、聖餐式の中で必ず歌われる同名の「ベネディクトゥス」の方がはるかに有名です。こちらはマタイ福音21章9の、《主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ》という言葉でして、ミサ曲中の1曲としてたくさんの作品が作られています。単に「ベネディクトゥス」と言うと、ミサ曲の方と間違われるので、「ザカリアのベネディクトゥス」と呼んで区別しています。

このように、「ザカリアの賛歌」は他に比べてなじみの無い「賛歌」かもしれませんが、この詩の初めに《父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した》とあるように、旧約聖書以来のユダヤ教の信仰の香りに満ち、味わい深く、クリスマスを前にして読むにふさわしい詩歌です。

まず、この歌の背景から見ていきましょう。ルカ1章5~24と57~66に書かれています。マリアがイエスさまを生む6か月前に、マリアの親戚のエリサベトも男の子を生みました。この子は後に「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになります。ザカリアはエリザベトの夫であり、ザカリアとエリサベトは子供のいない老夫婦でした。ザカリアはイスラエルの祭司でした。祭司は24の組に分かれていましたが、ザカリアはその中で第8の組であるアビア組に属していました。それぞれの組は、年に2回、神の前で務めるのですが、当番が回ってくると、その組の祭司たちは神殿に集まって、朝夕くじを引いて、任務を決めたそうです。最も大切な務めが、聖所の奥で香を焚いて祈りをすることでした。当時イスラエルには2万人以上の祭司がいましたから、一組には1000人近い祭司がいたわけで、主の聖所に入って香を焚くというのは、一生に一度あるかないかの務めでした。

ザカリアが香を焚いて祈っているとき、突然天使が現れて、香壇の右に立ちました。《ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた》とあります。大役を仰せつかったザカリアは、何事も無くつつがなく終わって欲しい、と願っていたことでしょう。神の聖所で祈りを捧げながら、そこで神と出会うことは期待していなかったのではないでしょうか。そこへ天使が現れたわけです。何かとんでもないことが起こりそうな気がします。私たちの信仰生活も、それと似た面があるかも知れません。つつがなく自分の人生を歩んでいきたい。毎日の生活の中で、神が介入してこられることは望んでいないのです。自分の人生を神に乱されては困るのです。教会の営みも、そこに神が介入してこられることを考慮に入れず、私たちの計画、私たちの行いという風に考えてしまっているのではないでしょうか。本当は、私たちの人生、私たちの教会の歩みというのは、神と出会うところから変わっていくのだと思います。

天使は言います。《恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する》。ザカリアはこの言葉を聞いた時に、《何によって、それを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています》と反問します。彼は一種の「しるし」を求めたわけですが、その結果、その子が生まれるまで口が利けなくなるという「しるし」が与えられました。その後、天使が予告した通り、ザカリアとエリサベトの間には、男の子が与えられました。

ザカリアが話すことを禁じられたのは、罰ではなく、子どもが生まれるまで彼が神と共にいることを求められたからと考えることができます。イエスさまは宣教を始める前に荒れ野で断食しました。洗礼者ヨハネも荒れ野にいました。荒れ野は何もない、自分と神だけの世界です。同じようにザカリアも子どもの誕生という大きな出来事を前にして心の荒れ野に退くこと、つまり人との交わりを避けて神と共にいることが求められたのではないでしょうか。イエスさまは人生の重大事を前にしてしばしば神に祈って夜を明かされました。私たちも人生の大きな出来事を前にしては、しばし神と共にいることが求められます。これから人生の重大事を迎える人もいるでしょう。迷っている人もいるかも知れません。特にそのようなとき、キリスト不在の、世間のクリスマスのざわめきの最中にあっても、ザカリアのように心の荒れ野に退き、神ともにあって神のみ旨を祈り求めてほしいと思います。

誕生から8日目に、男子には割礼を施し、名前をつけるのが当時の習慣でした。この日、人々は当然「ザカリヤ」と名付けようとします。ユダヤでは父や祖父の名にちなんで名付けるのが普通だったからです。そこで異を唱えたのは何と、エリサベツです。それでザカリアに尋ねると、天使が伝えたとおり、書き板に《この子の名前はヨハネ》と記します。そのとたんに、ふたたび話せるようになります。その後、聖霊に満たされて歌った預言が、この賛歌です。

「ザカリアの賛歌」は、75節までの前半と76節からの後半の二つの部分に分けられます。前半は、神を賛美しているのですが、それは神が洗礼者ヨハネを送ったからではなく、《我らのために救いの角を、僕ダビデの家》から起こしたから、つまりイエスさまを送ってくれたからなのです。この歌は旧約聖書の出来事への暗示や神を救い主として称える詩編の言葉に満ちています。ユダヤ教的な終末の希望は実現され、約束は守られ、アブラハムの契約は覚えられ、すべての敵は神が上げた「救いの角」(神の力を指す。サムエル上2章10)によって打ち負かされるだろうと歌います。

後半も、焦点はイエスさまにあるのであって、ヨハネは《主に先立って行き、その道を整え》る者であることを明らかにします。また、ヨハネやイエスさまがこれから何をしようとしているのかということの要約になっています。後半も旧約聖書の言葉を数多く引用し、救い主イエスさまの出現を《高い所からあけぼのの光が我らを訪れ》と美しく歌っています。そしてその「あけぼのの光」たるイエスさまは《暗闇と死の陰に座している者たちを照ら》すのです。

キリストの降誕はまさに、世にはびこる矛盾や悲しみや苦しみに対する挑戦です。「世の悪」に立ち向かうに、私たちはあまりに無力であり、希望のかけらすら見つけることが難しい現実です。しかし、私たちを信仰のうちに「照ら」してくださる「あけぼのの光」が約束されています。イエスさまの到来を待ち望みましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン