2012年2月26日 四旬節第1主日 「誘惑を受ける」

マルコによる福音書1章12〜13節
説教:高野 公雄 師

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコによる福音書1章12〜13節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

教会の暦できょうは四旬節第1主日ですが、四旬節という言葉は、40日の期間を意味します。教会の昔からの習わしとして、復活祭前の40日間を、ご復活を祝う準備の期間と定めて、イエス・キリストの死と復活とにふさわしくあずかることができるように祈り、節制し、愛のわざを行うことに努めてきました。

この季節には、具体的には、肉を食べないとか、お酒を飲まないとか、お茶断ちをするとか、観劇を我慢するとかで自分を鍛錬し、聖書を読み、祈り、人に親切にし、寄付をするというように、信仰のわざ、愛のわざに励むのです。教会では、お花や飾りをなるべく省いて、紫の布だけを用い、グロリアやハレルヤを歌うのを慎みます。壁のバナーもはずしました。結婚式やお祝い事も控えます。しかし、きょうは年に一度の私たちの教会の信徒総会の日であることを記念して、聖壇にお花を飾っています。

ところで、四旬節は40日だと言いましても、ご復活を祝う日である日曜日はその数に入れないので、復活祭の46日前から始まることになります。それが今年は、先週の水曜日でした。四旬節の始まりの日は、「灰の水曜日」と名づけられています。そして、きょうは四旬節中の最初の日曜日というわけです。

《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。》

復活祭の準備期間が40日と決まる根拠になったのが、きょうの福音です。イエスさまが荒れ野で40日の間、悪魔の誘惑を受けられた記事にもとづきます。

ところで、ここに出てきたクオーテーション・マークの付いた“霊”という書き方は、新共同訳聖書で初めて使われるようになりました。従来使っていた口語訳聖書では「御霊」(みたま)と翻訳されていました。聖書には、悪霊、汚れた霊、聖霊という言葉も出てきますが、そういう形容詞が何も付かないでただの「霊」という言葉が出てきます。それが御霊とか“霊”と訳されるのですが、神の霊の力強い働きを指す言葉です。

きょうの福音の前の段落(1章9~11)によりますと、イエスさまは30歳のころ、ユダの荒れ野に出てきて、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けます。そのとき、天が切り裂かれて、鳩が翼を広げて舞い降りるように、“霊”がイエスさまを覆いました。それとともに、《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という神の声が聞こえました。これは、神が霊を注いでイエスさまを「神の子」に、私たちにもっと馴染みやすい言葉を使うならば、「救い主」に任命したことを表わしているのでしょう。

イエスさまを救い主として任命したその同じ神の霊が、今度はその強い力でイエスさまを荒れ野に押し遣り、サタンと対決させる場面をもたらします。神の子であること、救い主となるためには、この世の精神、あり方との闘いが不可欠なことを意味します。

一般にこの場面は「荒れ野の誘惑」と呼ばれており、私もこの説教題を「誘惑を受ける」と付けました。しかし、「悪魔から誘惑を受ける」場面という理解は同じ場面を描いたマタイ4章とルカ4章にはふさわしくとも、マルコ福音のこの場面は、「神から試練を受ける」場面と受け取る方がよりふさわしいようです。

マタイとルカの平行記事と比べて、マルコの記事は非常に短く、断食についても、誘惑または試練の中身についても、サタンとの闘いの結果についても書かれていません。この短い記事が何を語ろうとしているのか理解する手がかりは、「40」という数字と「荒れ野」という場面の二つのキーワードです。この言葉によって聖書の民がすぐに思い出すのは、あの「荒れ野の40年」のことです。

紀元前13世紀のことですが、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民はモーセに導かれて、エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野に到着しました。荒れ野は食べ物も水も乏しく、また野獣も住んでいて、人の命が危険にさらされるところです。その意味で悪霊たちの潜む場所というイメージが付きます。神に信頼して約束の地に向かって進んでいくのか、目の前にある困難に怖じ気づいて、命からがら元の奴隷状態に逃げ帰のか、荒れ野の旅はイスラエルの民にとって試練のときとなりました。荒れ野の旅は、神が民の信頼を試すと同時に、民が神の力を試す、そんな40年でした。ぎりぎりの生活の中で、神は岩から水を出し、天からマナを降らせて民を養いました。また人々は乏しいものを分かち合い、助け合って生活することを学びました。この試練と訓練の旅を経て、約束の地に入ることができたのです。これが「荒れ野の40年」です。

いま、イエスさまは神の子、人々の救い主として、神の霊によって荒れ野の試練に追いやられます。イエスさまはサタンと一対一の対決、力比べの40日間を闘います。

《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》。

マタイとルカの記事では、40日間断食して空腹になったあとにサタンから誘惑を受けますけれども、きょうの福音では、この40日間がサタンとの対決のときです。サタンの味方は荒れ野に住む野獣です。イエスさまの味方は神が遣わした天使たちです。天使たちは「仕えていた」とありますが、この言葉は、基本的には「給仕する」という意味を持っています。同じ言葉が、2月5日の礼拝で読んだ1章31節では、シモン・ペトロのしゅうとめは一同を《もてなした》と訳されて出てきます。マルコによれば、イエスさまがサタンと闘っていた40日の間、断食していたのではなく、天使たちが食べ物を運んでいたのです。その昔、神が岩から水を出し、天からマナを降らせて民を養ったのと同じように、今度は天使たちがイエスさまを支えたと述べているのです。

この対決あと、マタイは《そこで、悪魔は離れ去った》、ルカは《悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた》と記しています。一方、マルコは勝敗とか結末のようなことは何も書かず、すぐに、《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》(1章14~15)と、イエスさまが伝道を始めたことが続いています。つまり、マルコ福音のこの荒れ野の誘惑の段落は、単なる洗礼後の一つの出来事なのではなく、洗礼に始まって十字架に至るまでのイエスさまの救い主としての公の生涯の総括的序文となっているのです。悪霊追放のわざだけでなく、これから物語られるイエスさまの全活動が、神に逆らう闇の力、悪の力との闘いであって、十字架において罪と死の闇に対して最終的な勝利を収めるものであることを、私たちに伝えているのです。

「荒れ野の40年」が、私たちに示唆することはたくさんあります。私たちの生活が、荒れ野にあるかのように恐れや不安に囲まれていること、神は昔と同じように私たちの生活を守り、恵みを与えてくれていること、しかし私たちはそのことを十分に認識して神に感謝しないこと、また神に信頼しきれないこと、神はそういう私たちに忍耐し、いまもなお見守ってくれていることなどです。そして、私たちに対する、神のこの忍耐と寛容と愛は、きょうの福音が伝えるイエスさまの罪と死と闇の力に対する体を張った闘いの勝利の賜物だということも教えられます。どうか、この四旬節の季節を、この福音にもとづいて、イエスさまを信頼し、世俗的な心を翻して神さまに立ち返る、そういう鍛錬の時として過ごしてください。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン