マルコによる福音書9章2〜9節
高野 公雄 師
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
マルコによる福音書9章2〜9節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
昨日、ブラジルのサンパウロで日系人教会の牧師をしている若い友人が、カーニバルだけど、牧師は土曜日にお祭りに行かれないと嘆いていました。今週の水曜日は灰の水曜日で四旬節が始まります。カーニバルは、もともとは四旬節を迎える準備の行事でした。
きょうの変容主日は、顕現節の最終の日曜日であって、水曜から始まる四旬節への橋渡しをする役割をもっています。つまり、この日曜日を境として、イエスさまが神の子であることを公に示されたことを記念する季節から、イエスさまは私たちを救うわざを成し遂げるために苦難を忍ばなければならなかったことを覚える季節に移るのです。きょう読まれた、イエスさまの山上の変容の記事は、橋渡しの日に読まれるにふさわしく、神の子の栄光と苦難の両方の要素を含んだ出来事です。山の上でのイエスさまの栄光の姿は、イエスさまがのちに受難と死をとおって受けられる栄光の姿が前もって現されたのだと考えることができます。
きょうの福音は、始まりの《六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた》という言葉と、お仕舞の《一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた》という言葉に囲まれています。山の上での出来事は「ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ」に限定された秘密であることが強調されます。そしてその出来事が終わると「今見たことをだれにも話してはいけない」と、もう一度秘密であることが強調されます。
山の上でいったい何が起こるのでしょうか。
《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった》。イエスさまの着ていた服が真っ白に輝きました。平行記事であるマタイ17章2によりますと、《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった》とあり、イエスさまの容貌そのものが変わったとはっきり書かれています。それで、この出来事は、「山上の変貌」または「山上の変容」と呼ばれています。イエスさまの光輝く姿への変容は、どんな意味をもっているのでしょうか。隠されていたイエスさまの正体、本性が明かされるということ、イエスさまは栄光ある神の子、救い主であることが弟子たちに示されたということです。
続いて、次の出来事も、イエスさまの正体を明かします。
《エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた》。平行記事であるルカ福音9章31によれば、《二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた》。エリヤは預言者を代表し、モーセは律法を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の主要部分であり、イエスさまの受難と復活が神さまのご計画であることを示しています。それだけでなく、エリヤはきょうの第一朗読、列王記下2章で聞きましたように、死を経ないで天に上げられた人物です。モーセも、ヨシュア記1章1~2では死んだと言われていますが、申命記34章6に《今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない》と書かれていることをきっかけとして、のちのユダヤ教ではモーセは死なずに天に上ったと信じられるようになりました。栄光に包まれた二人の出現は、イエスさまが天に属する方であることを証しするものです。
モーセとエリヤとイエスさまの三人は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」のでした。栄光の神の子であるイエスさまは、人となって地上に降り立と、すべての人を救うために、人の罪をすべて拭い去るために、人の世の闇を追い払うために、すべての人に仕える者として苦難の道を歩かなければならず、愛の極みとしてご自分の命を人に与えます。苦難を通って栄光に至るという人の道を示されたのです。
次の出来事はイエスさまの正体を明らかにすると共に、弟子たちに歩むべき道を教えます。
《すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け》。イスラエルの民が荒れ野を旅する間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト40章34~38)。弟子たちを覆う雲は、人の目から神の姿を隠すものであって同時に、神がそこにいることを表わすものです。雲の中からの声とは、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この言葉は、マルコ福音の最初の顕現物語であるイエスさまが洗礼を受けたときに聞こえた天からの声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」を思い出させます。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエスさまは、これから後は受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。イエスさまの正体が神の愛する子であることが弟子たちに示され、そのイエスさまに弟子たちは聞き従うべきことが命じられているのです。
最後に、この出来事に対する弟子たちの反応が記されていますので、見てみましょう。
《ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである》。ここで、ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この素晴らし光景が消え失せないように、三人の住まいを作って、天の栄光を地上に繋ぎとめようと願ったからでしょう。しかし、ペトロのこの応答は誤解です。この光景は永続するものではありません。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。この出来事で、弟子たち、私たちは、苦難の先にある栄光を垣間見させていただいきました。これに励まされて、この世の生活には苦しみがつきまといますけれど、イエスさまと共にその苦しみを担う覚悟をすべきことを教えているのです。
きょうの福音の初めに「六日の後」と日付が出てきますが、六日前に何があったでしょうか。それは、マルコ8章に書かれている有名なフィリポ・カイサリアにおけるペトロによる《あなたは、メシアです》という信仰告白と、それに続くイエスさまによる《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている》という最初の受難と復活の予告、そして《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》という弟子たちへの勧告の出来事でした。きょうの福音の山上の出来事も、イエスさまが受難と復活の救い主であることを教えると共に、私たちもまたイエスさまのみ足の後に続く覚悟を持ちなさいと勧めているのです。イエスさまがどういう救い主であるかを知ることは、私たち自身の生活の歩み方を知ることでもあるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン