2012年8月5日 聖霊降臨後第10主日 「故郷のナザレで」

マルコによる福音書6章1〜6a節
高野 公雄 牧師

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。

マルコによる福音書6章1~6a


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

アーメン

 《イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた》。

イエスさまはこれまでガリラヤ湖周辺で活動していましたが、きょうの個所は、イエスさま一行が故郷のナザレに戻ってきたときの話です。

先週は、きょうの直前の個所を読みましたが、出血の止まらない女性をいやし、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と励まされました。また、会堂長のヤイロの娘を生き返らせましたが、ヤイロには「恐れることはない。ただ信じなさい」と教えられました。イエスさまの力に信頼する「信仰」がテーマでした。このテーマは、きょうの話でも続いています。

イエスさまの故郷はナザレです。

ナザレは、ガリラヤ湖の西24キロにある丘の中腹に位置する村で、ヨセフとマリアが住み、イエスさまも30歳の頃までそこで過ごされました。それで、イエスさまは「ナザレのイエス」と呼ばれます。そして、イエスさまの弟子たちは「ナザレびとたち」(使徒言行録24章5)と呼ばれていました。メソジスト教会から別れたナザレン教会はこの「ナザレびと Nazarene」を教派名としています。

《多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か》。

ナザレにはユダヤ教の会堂があり、安息日にイエスさまは会堂で説教をしました。ルカ福音によると、当日はイザヤ書61章が読まれたようです。

《イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた》(ルカ4章16~21)。

マルコはイエスさまのメッセージを《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15)と要約していますが、ルカ福音においても、イエスさまは、苦しむ人すべてを救う神の恵みが今ここで現実のものとなっている、と説教して、人々はその恵み深い言葉に驚いたと記されています。

《この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた》。

ここには、私人としてのイエスさまについての情報が含まれています。ヨセフの名がなく、「マリアの息子」と呼ばれているので、ヨセフは早くに亡くなったものと考えられています。しかし、ヨセフがすでに死んでいたとしても、父親の名によって「ヨセフの息子」と呼ばれるのが普通ですから、「マリアの息子」という呼び名は、イエスはマリアの私生児だというような侮蔑を込めた言葉であったかもしれません。

イエスさまは大工でした。大工と言っても、家を建てる人ではなく、内装や家具を作る職人だったようです。また、弟や妹がいます。イエスさまは、長男として弟たちが育つまでは家業に励んで家族を支えたようです。弟のうちヤコブは、のちにエルサレム教会の指導者になったことが使徒言行録やパウロの手紙に記されていますが、他の弟や妹についての情報はまったくありません。

ナザレの人々はイエスさまの説教には感心するものの、イエスさまについて知っていることでつまづきます。

《イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた》。

この預言者についての言葉に似たことわざに「英雄も召使にはただの人 No man is a hero to his valet」というのがあります。ナポレオンのような英雄も彼の身の回りの世話をする付き人にとっては、ただの人にすぎないというのです。このことわざについて、ドイツの哲学者ヘーゲルは、それは「ヒーローがヒーローでないのではなくて、従僕が従僕であるからだ」と注釈をつけています。つまり、食事や衣服の世話というような日常茶飯事がすべてである者には、偉人の偉人たることを見る目がないということです。この解釈は、イエスさまの故郷の人たち、身内の人たちにもあてはまるし、私たちの聖書の読み方にもあてはまると思います。

現代人の思考の枠組みを自明の前提として聖書を読みますと、「ナザレのイエス」を歴史上の人物として社会的、心理的な目で読むことになります。私たちの常識で理解のできることだけを読むことになって、人間を愛する神の信実を体現したお方であるイエスさまの本質を捉えることができません。それは、ナポレオンの付き人の目でナポレオンを見る、身内の人たちの目でイエスさまを見ることと同じです。聖書を読むときは、現代人のものの見方、考え方を自明の前提としないで、未知の国を旅するつもりで、自分のもつ思考の枠を広げることが必要です。

ナザレの住民の日常生活に埋没した目でイエスさまを見たとき、その言行はとうてい好意的に受け入れることができなかったのでしょう。これと同じことを私たちはすでに3章で読んでいます。《身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである》(マルコ3章21)。

この3章の身内の人たちの記事は、十二人の弟子を選んだ直後に置かれていました。そして、きょうのナザレでの出来事は、その十二人を宣教に派遣する記事の直前に置かれています。これはマルコが意図して配置したことでしょう。イエスさまの弟子たちの宣教者も、喜んで受け入れられるだけではなくて、強い拒絶に遭うことを予示しています。きょうの第一朗読でもこう言われていました。

《「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう》(エゼキエル2章3~5)。

昔の預言者たちも支配者からも民衆からも受け入れられず、殉教者が相次ぎました。新約の時代でも、洗礼者ヨハネの首がはねられ、イエスさま自身も十字架で処刑され、弟子たちも会堂から追放されたり殺されたりします。このことは、キリスト教がユダヤ人たちを離れて、異邦人の間に広まることへと繋がっていきます。

ところで、マルコはここで「親戚や家族」に敬われないことを強調しています。マルコ先生の教会でも、イエスさまの場合と同じく、クリスチャンとなることに、家族や親戚の強い反対があったことでしょう。ましてや身内への伝道は困難なものです。マルコ先生は、イエスさまの経験を話すことで、自分の教会員たちを、そして現代の私たちを慰め励まそうとしています。

《そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた》。

人間の信仰がなければ、イエスさまは無力だ、ということはありません。しかし、人々の不信仰がイエスさまの業を曇らせ、湿らせるように作用するということはあるでしょう。現にイエスさまは、ナザレを去って、ふたたびガリラヤ伝道に向かわれます。

ところで、3章の身内の人たちの記事は、こういう言葉で結ばれていました。《イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」》(3章33~35)。そうだとするなら、今日においてイエスさまのことを良く知っているイエスさまの身内とは、信者である私たちだということになります。

私たちは二千年前のナザレの身内と同じく、イエスさまに対する信仰、信頼を拒否しているなんてことは、ないでしょうか。教会の中が不信仰であるならば、そこではイエスさまのみ業が制限されてしまいます。イエスさまの身内である私たちこそ、「あなたの信仰があなたを救った」、また、「恐れることはない。ただ信じなさい」という慰めと励ましの言葉をしっかりと受けとめ、イエスさまの力に信頼する者でありたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン