2014年6月8日 聖霊降臨祭 「新しく生まれる」

ヨハネによる福音書7章37〜39節
藤木 智広 牧師(説教の内容は第2日課の使徒言行録2章1~21節が中心です)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は教会の誕生日と言われている聖霊降臨日、ペンテコステです。使徒言行録の2章に、真に不思議な形で、聖霊降臨の出来事が記されています。この出来事を通して始まっていく、「教会の歩み、歴史」が書かれているのがこの使徒言行録という書物ですが、この使徒言行録の冒頭、1章1~2節には「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」と書いてあるように、これは聖霊を通して指図を与えられた使徒たちの歩み、歴史であります。ですから、この使徒言行録、昔は使徒行伝と言われていましたが、この書物に記されている使徒達の働きはすべて聖霊の業、その指図によって成されているということから「聖霊行伝」とも言われています。著者は全体として、これが聖霊の導き、聖霊において起こった出来事であると、証ししているのです。

さて、この聖霊降臨の出来事を、激しい風が吹き、炎のような舌が現れ、大きな物音がしたと聖書は伝えています。私たちの想像をはるかに超える出来事がここで起こったことに間違いはないのでしょう。具体的にどんなものを見て、どんな音を聞いたのかは皆目検討もつきませんが、それにしても、この表現から想像できることは、これは非常に激しい出来事であったという印象です。まるで深い眠りから突然覚まされるような、また無意識な状態から突然起こされた、そんな出来事です。

この時使徒たちは「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」(1:14-15)とありますように、祈っていました。それもこの120人の中には、主イエスの十字架を最後まで見届け、主のみ墓を訪れた婦人たちやあの主イエスの母親のマリアもいました。主イエスが十字架にかけられ、殺された時も、彼らはずっと一緒にいましたが、彼らの思いと心はバラバラでした。一つではなかったのです。婦人たちは主イエスの復活を証言しますが、弟子たちは彼女たちの証言を信じることができませんでした。彼らは、ただ、ユダヤ人たちを恐れて、扉に鍵をかけて、息を潜めているしかなかったのです。しかし、復活の主が彼らの真ん中に現れて、彼らに平安をもたらし、聖霊を与える約束をし、彼らの目の前で昇天していかれました。復活の主が彼らをひとつにしてくださった、主に連なる彼らの姿がここにあるのです。エルサレムに住んでいた彼らは、ユダヤ人たち、ローマの兵士たちからの迫害にさらされ、信仰を揺さぶられていたでしょう。直、現実は彼らに辛く当たるのですが、その中で彼らはひとつとなって、祈っていました。それは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(コリントⅠ12:26)とパウロが言うように、彼らの群れは、喜びも悲しみも、痛みをも共にして、一つとされていたのでしょう。祈り、神様のみ胸に心を向けている者たちは、そのことを経験するのです。これが教会です。教会の姿なのです。

彼らがひとつとなって祈っている時に、この激しい出来事は起こりました。そして4節で「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」というのです。聖霊降臨はまさに祈りの出来事なのです。120人の熱心な祈りは部屋中に響く大きな声量ではあったかもしれませんが、しかし、神様に思いと心を向けているという、それは神の静けさの中で、このことは起こったのでした。

彼らは突然他の国々で話しだしたと言います。物音を聞いて集まって人たちは、使徒達の語る言葉を聞いて「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」(使徒2:7-8)と驚きます。使徒達は一ガリラヤ人に過ぎず、しかも彼らは学者ではないのです。漁師や徴税人といった人たちです。異国語を学ぶ機会も、触れる機会もないのです。でも、彼らが語っている内容は「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒2:11)人々が言うように、「神の偉大な業」のことです。神の事柄をそれぞれの言語で語っているのであって、日常会話を指しているのではないのです。彼らは一カリラヤ人であり、ガリラヤの言葉しか話せないというのは事実でしょうし、神様の霊が下ったことによって、全ての言語が話せるようになったのではなく、また他者と全く同じ文化に生きる者となったということではないのです。

霊が語らせる神の偉大な業は、言語、民族、宗教の違いを超えて、私たちの心に響き渡ります。「違い」によって越えられない問題、課題は山積みです。言語、民族、宗教の違い、そしてそれはごく身近な対人関係から起こっていることです。一緒にいても、例え同じ趣味を持ち、同じ目的をもってしても、思いと心がひとつにならなければ、一緒にはいないのです。一緒にいて一人なのです。それは弟子たち、使徒達が既に、鍵のかかった家で経験していることです。彼らを真に一つとしたのは、彼らに平安をもたらしたキリストです。最後までキリストの復活を信じようとしなかった弟子のトマスは、彼自身の疑い深さのままに、キリストに受け止められて、信じるものとされました。心が開かれていったのです。彼だけ違って、彼だけ疑い深いから、その疑い深さを叱責し、弟子たちと同じような思いに変えようとなさったのではなく、キリストは、自らの手首の傷を彼に見せて、その傷口に指を入れて見なさいと、彼の疑う深いという「違い」を受け止められました。それは主がトマスを愛し、信頼していたからです。主がそのようにトマスを受け止めてくださったからこそ、信じるものとして、再び立ち上がることができ、他の弟子たち、使徒達と心をひとつにすることができたのです。このトマスも、今霊に満たされて、神の偉大な業、自分のために心を向け、受け止めてくださった愛の御業を大胆に、喜びをもってして人々に語っているのでしょう。

神の偉大な業を宣べ伝えていくということにおいて、聖霊が下り、聖霊が語らせるこの出来事は、違いを認め合うということから始まって、違うから心と思いがひとつになれないという私たち人間の境界線を超えていくものであります。神の偉大な業は、直他者の違いを受け入れられない人間の分裂、争いの只中にこそ、キリストは立たれて十字架にかかったことを伝えるのです。他者の違いを受け入れられないということの葛藤だけではありません。自分自身の存在というオリジナリティー、アイデンティティーということにおいても、自分自身が受け入れられないという葛藤に私たちは苦しみます。こんな自分だから、他者は受け入れてくれない、認めてくれない、こんな自分は嫌だと、自分が自分を裁いてしまう。自分自身の中にだって分裂が起こります。こうである自分と、こうでなくてはならない自分という存在に対してです。そんな自分を赦すということ、赦されるということにおいて、相手に対して、また自分に対しても分裂、敵意という壁が取り除かれていくのです。それが十字架、私のために、その分裂の只中に立ってくださったキリストの十字架の愛なのです。そしてキリストの復活と共に、このお方を頭とする結びつきの中で、分裂していたものとひとつになるということが起こってくるのです。

違いを持つ者同士が集まる場、違いの中にある豊かさを教えてくれるのが教会と言えるでしょう。ルターは教会のことを「キリスト教的聖なる民」であると言われました。もちろん、聖なる民というのは、人間の魅力とか、価値感のことを言っているわけではありません。キリストに属する様々な人を言います。教会は場所そのものを指すというより、「民」であるということ。すなわち、何か、どこかではなく、「誰か」ということです。石井正巳先生の「教会とは誰か」という著書の中で、このルターの教会論が詳しく書かれています。そう。「誰か」ということです。それは頭であるキリストのみ体であり、キリストを頭とし、このキリストに結ばれている私たち、主の招きによって礼拝に集い、御言葉に聞く者たちです。違いを携えつつも、わたしたちは全員同じ御言葉を今聞いているのです。霊によって語られている神の偉大な業を聞いているのです。建物があるから、教会ではなく、私たちが招かれて主の御言葉を聞き、奉仕し、交わり、伝道するこの共同体が教会なのです。私たち一人一人がということです。

教会の中でも違いによる分裂、意見の食い違いは起こります。違いは違いのままに、あいまみえないことがたくさんあります。問題のない教会はないと言えるでしょう。だからこそ、私たちは祈り、主が遣われる聖霊によって、ひとつとされるのです。聖霊降臨は祈りにおいて起こったのです。この霊を受ける私たちは、日毎に新しく生まれるのです。それは全く別の存在に変えられてしまうわけではなく、違いのある豊かさに目が開かれ、心が開かれていくからです。あなたの違いは違いのままに、他者と共に生きていく喜び、それが聖徒の交わりにおいて現されるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。