ルカによる福音書24章44〜53節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
昨日は関東地区婦人の集い、春の例会、お疲れ様でした。通年当番教会で行われている会ですが、今年は、私たちルーテル教会の教育関連施設であるルーテル学院大学、日本ルーテル神学校で執り行われました。この目で、ルーテルで学んでいる学生たちの学び舎を直接見てまいりましたので、皆さん大変新鮮な思いを抱かれたことでしょう。
キリスト教精神に基づくミッションスクールとして、このルーテル学院のミッションステートメント、教育方針に「キリストの心を心とする」という言葉があります。キリストの心、それは何か。福音書に示されている主イエスのご生涯そのものと言えるかもしれませんが、神と隣人を愛し、互いに仕え、赦しあうということに集約されるかと思います。そのキリストの心を、自分の心として養い、育てていくのです。それは授業だけで培われていくものではありません。人間関係、サークル活動、チャペルでの礼拝、ボランティアなど、学生生活の様々な体験の中で、喜び、悲しみを経験しながら培っていくものであります。そのようにしてキリストの心が培われ、頂いた賜物を用いて社会に貢献していく、そう、頂いた賜物を用いるということにおいて、キリストの御業が、その人の器を通して現されるのです。教会生活ももちろんですが、学生生活での体験もまた、ひとつひとつに意味がある「キリストとの出会い」であります。卒業生でもある私自身は昨日の開会礼拝の中で、学生生活での様々な経験を振り返りつつ、その学びの土台は「キリストを学ぶ」ということであると説教をしました。この説教のバックグラウンドには長いこのルーテルでの学生生活の賜物があり、キリストとの出会いがあったが故に、語ることができたのだと思っています。
直、私たちがこのキリストの心を心とする、キリストを学ぶという出来事が起こるのは、何よりもキリストご自身が私たちと共にいて、しかも近くにおられるからです。それはなぜかということを、今日の御言葉から聞いてまいりたいと思います。
今日は昇天主日という主日です。読んで字のごとく、主イエスキリストが天に昇って行かれたという出来事を覚える主日です。「天」ということですから、ようするに神様のご支配の中に行かれたということです。どうして主イエスは昇天されたか、その意味することは何かと言いますと、今日の第2日課のエフェソ書1章20節から21節で「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」とパウロが言っているように、キリストの昇天によって、今やこの地上はこのキリストのご支配の下にあるということ、そのことによって、この地上とキリストとの結びつきは直一層深くなったということが明らかにされたということです。また、使徒信条でも私たちは「天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり」と告白します。この神の右というのは神様の一番近くにおられるということです。キリストの「昇天」と、私たちが死んで「召天」するというのはここに違いがあるのです。
弟子たちは実際にキリストの昇天を目撃したのでした。それは地上における主イエスとのお別れであります。姿が見えなくなるのです。けれど、この時の弟子たちは悲しみ泣き叫んだのではないのです。むしろ、大喜びでエルサレムへ帰っていき、エルサレムの神殿で神様をほめたたえるのです。なぜでしょうか。主イエスとのお別れということに加えて、エルサレムの神殿にいるということは、主イエスを十字架につけて殺したユダヤ人やローマの兵隊たちから目をつけられ、迫害されることを意味します。そこには悲しみも苦しみもあろうはずなのに、彼らの喜びをもってしてこのルカ福音書は書き終えられているのです。真に大きな喜びが語られているのです。
この時、主イエスはただ天に昇ったのではなく、弟子たちを祝福しながら天に昇られたのです。それも祝福してではなく、「祝福しながら」ということです。弟子たちはキリストの、この永遠なる祝福の下にあって、地上に残されたということなのです。この祝福するという言葉ですが、最後の53節で「神をほめたたえていた。」というこのほめたたえるという言葉と同じ言葉です。人間が神様を祝福するというのはおかしいと感じるかも知れませんが、神様を呪うということは聞きます。何か不幸なことがあったり、理不尽なことがあったりすると、神様はなぜ自分をそんな目にあわせるのか、なぜ私の祈りを聞いてはくれなかったのかと、神様を疑い、遠ざけます。神様は祝福をもたらしてくれるのではなく、呪いをもたらすのだ。そのように疑うところから、神様を呪うということが起こってくるのではないでしょうか。では、祝福するということがその逆であれば、どうでしょうか。神様をほめたたえる、祝福するということは、神様を信じ、神様の身許に近づいていくということでしょうか。しかし、それだと、自分に何か良いことがあったらから、神様に感謝し、ほめたたえる、祝福するという条件つきの祝福になってしまうでしょう。弟子たちの境遇は、少なくとも、神様を呪わずにはいられない状況に見えるのです。
ここで言われている祝福する、ほめたたえるというのは、そういった条件つきの、自分たちの境遇によってコロコロと変わる祝福ではないということは間違いありません。主が弟子たちを、私たちを祝福してくださるように、弟子たちが、私たちが主を祝福する、ほめたたえるということ、それらが同じ言葉であるということには、ここに主イエスと弟子たち、私たちとの関係、その信頼関係のことを指しているのではないかと思います。それは主イエスとの交わり、主イエスに結ばれている彼らと私たちの姿にあると言えます。
この昇天の出来事の前で、弟子たちは主イエスこそが旧約聖書に書かれている神様の約束を実現する救い主であると明かされ、心の目を開かれて、主イエスの約束の言葉に聞き従っていました。主イエスのご生涯を共に歩み、その目的は神と隣人を愛するということ。そのために十字架に掛かられ、復活して真の救いに自分たちを導いてくださる方であると悟ったのです。主イエスと共に歩んでいた弟子たちですが、十字架の時も、また十字架の後の弟子たちの姿は、決して信仰深い姿とは言えません。彼らは主イエスを見捨てて、逃げ去ってしまったという惨めさを負っていたのです。人間としての恥、惨めさ、小ささが浮き彫りとなっていました。しかし、彼らは見捨てられたのではなく、また主イエスから叱責されることもなく、神様から呪われたのでもなかったのです。彼らの惨めさ、小ささ、恥、といったありのままの只中に入っていかれるように、復活のみ姿を彼らに現したのです。戸に鍵をかけ、うずくまっていた彼らの中に平安がもたらされたのです。はっきりいって弟子たちは無力です。自分たちではもう立ち直れない、どん詰りの中にあった。そこから頑張って、這いつくばって主を見上げたのではない。主はただ弟子たちを見下げているのではなく、その無力な弟子たちの中にこそ入って行かれたのです。復活の喜びはまずここから起こったのでした。
主イエスは、弟子たちの、暗闇の中に入って行かれ、平安をもたらした後すぐに、弟子たちにキリストを通して示されている神の御心を証しました。心の目を開かれた弟子たちが、何か特別な存在になったのではなく、弟子たちが心の目を開かれて、聖書に証されているキリストの心を頂いたのです。キリストの心を、自分の心とする。それはキリストとの結びつきであり、ひとつとされたということです。ここに絶えず、弟子たちを愛し、信頼し続けているキリストの姿があります。
良きサマリア人の譬え話(ルカ10:25-37)の中で、倒れている人を助け起こした人が、その人の隣人となった人ですと、律法の専門家は言いました。そこで主イエスは彼に「行ってあなたも同じようにしなさい。」と言われます。このお話を聞くと、なぜ同じようにできるのか、自分にはサマリア人のような、そんな勇気や度胸などあるものかと思うかもしれません。いざとなったら、自分だって逃げ出してしまうかも知れないと思うかも知れません。そこで、この譬え話の説教の中で、倒れている人を自分に置き換えて見ると、自分を助け起こしてくれたサマリア人こそが、真の隣人であり、その方こそがキリストであるということをよく聞きます。自分にはサマリア人のような勇気も度胸もなく、逃げてしまう。そんな自分が同じようにできるものか。確かに自分から来る勇気や度胸でもないのです。できないのです。自分自身ではなく、自分を真に助け起こしてくださった方の「心」から来るものなのです。行って、あなたも同じようにしなさい。「同じように」なのです。それはキリストのようにしなさいということであり、キリストから来るものです。キリストから来るものが、ただあなたという尊い器を用いられて、同じようにされていく。キリストの心を頂くことによって、同じようにするのです。キリストの心を生きる者として、キリストと一つとされるのです。
ですから、この主イエスの昇天という出来事。目に見えなくなって、お別れのように見えるけれど、これは別れではないのです。弟子たちはキリストの心をいただき、キリストと一つにされたからです。このキリストの心を私たちも頂き、この心に生きているのです。主イエスは彼らを祝福しながら、天に昇られ、弟子たちは神殿で神様をほめたたえていました。神と人とが祝福し合っている、これは互いに信頼し、愛し合っているということです。ひとつとされて、共に生きているからこそ、祝福する、ほめたたえるのであります。この愛、信頼なくして、同じ言葉では言い表せないのでしょう。
弟子たちは大喜びしています。エルサレム神殿に帰っていった彼らは、迫害にさらされ続けてきたことでしょう。信仰が揺さぶられ、苦しめられ、傷つけられたでしょう。でも、どんなに自分たちの心が挫けようとも、キリストの心は挫けない。人間として弱くても、惨めでも、キリストの心を頂いた者は、キリストによって起こされていくのです。だから諦める必要はないのだということ。現実は、喜べないことがたくさんあるけれど、キリストの心を生きるものには喜びがあるのです。私たちは絶えず、この喜びに招かれているのです。
来週は教会の誕生日と言われるペンテコステです。聖霊の降誕をもってして、教会の歴史は始まります。教会はキリストのみ体であり、私たちがこのみ体に繋がるものとして、キリストとの交わりを持つのは、この約束の聖霊によるものです。弟子たちは心から喜びをもって、神様をほめたたえつつ、この聖霊を待ち望みます。主の心を頂き、絶えず主の祝福の基にあって、キリストとひとつにされた者たちの群れから教会は生まれるのです。祝福に満ちた私たちの群れが、キリストとひとつであることを確信して、喜びをもって歩んでいくことができるように願います。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。