2012年10月7日 聖霊降臨後第19主日 「地の塩」

マルコによる福音書9章38〜50節
高野 公雄 牧師

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
マルコによる福音書9章38~50節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、先週の福音に直接に続く個所です。先週はイエスさまの死と復活についての二回目の予告と、「いちばん偉い者とは誰か」という弟子のあり方についての教えでした。今週の福音も弟子のあり方についての教えという点では、先週に続いていますが、前後の脈絡の途切れた断片的な話が四つ寄せ集められている個所です。これらの四つの断片を、なんとかまとまった話として理解できるように努力してみます。

《ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」》。

むかし「宗論」という落語を聞いて、「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」という言葉を聞き、なるほどと思い覚えました。「宗論」とは、もともと仏教の諸宗派の違いを明らかにして、どの宗派が優れているかを論じる宗派争いのことですが、仏教であればどの宗派であってもお釈迦さまを信じているわけで、仲間喧嘩をしていること自体がお釈迦さまの意に沿わない、お釈迦さまに恥を負わせることだ、と言っているのです。これは、そのままキリスト教についても言えることです。伝道を妨げる大きな原因の一つが、キリスト教がいくつもの教派に分裂していて、互いに批判し合うことだと思います。

二千年の昔、イエスさまの時代や弟子たちの時代、イエスさまの名によると病気が治る、悪霊が追い出されるという話しが広まりますと、イエスさまの仲間に加わるでもなく、イエスさまの名を使って奇跡を行う人たちが現われました。弟子のヨハネはそれに義憤を感じて、イエスさまに訴えます。ヨハネは、当然イエスさまが「やめさせなさい」と言うものと期待していたのでしょうが、案に相違して、イエスさまはこう言われます、《やめさせてはならない。・・・わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである》。イエスさまの名を使って身体を癒し、心を癒す人が弟子たちに従わないから止めさせようとすることには、自分たちこそイエスさまの直系の弟子だという、他の者たちに対する優越感がひそんでいるように思います。イエスさまは弟子たちの狭い仲間意識を否定し、他者に開かれた広い心を示して、彼らを「わたしたちの味方」と言います。

弟子たちのこの特権意識は、先週の福音で弟子たちが誰がいちばん偉いかと言い争ったことと一脈通じるところがあります。私たちには、自分の欲望を満たし、他者に自分の意志を押し通す力のある人にあこがれるような面があります。そういう力の裏付けとなるのは、体力の強さ、口の達者さ、悪賢さであり、家柄や財力や地位などです。人はそういうものを競って、誰がいちばん偉いかを計ろうとします。でも、イエスさまは言います。《いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい》(マルコ9章35)。力ずくで他者を従わせるのでなく、他者が自ら進んで従うような指導者になりなさい。その秘訣は、他者の益となるように他者に奉仕ことだ、イエスさまはそうおっしゃっているのです。きょうの週報に挿んである先週の説教録に書きましたように、それが他者に奉仕する指導者のあり方、世にサーヴァント・リーダーシップとして知られるあり方です。外部の者がイエスさまの名を用いることをやめさせるような仕方で、自分が彼らの指導者となろうとする態度をイエスさまは否定なさいます。

なお、《わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである》という言葉と一見矛盾するようなイエスさまの言葉があります。《わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている》(マタイ12章30)。しかし、マルコ福音の言葉は「わたしたち」つまり弟子たちに従わないことを問題としており、こちらマタイ福音の言葉は「わたし」つまりイエスさまに従わないことを問題にしています。この二つの言葉は必ずしも矛盾するものではありません。これは、イエスさまに従う決断の厳しさを述べているのです。

《はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける》。

福音書が書かれた時代、イエスさまを信じる者たちはユダヤ教の側からも、皇帝礼拝を強いるローマ側からも迫害を受けるきびしい状況にいました。苦難のうちにある信者に一杯の水を差し出す厚意を示す人は、それが信者であるなしにかかわらず、神はその人に報いてくれる、そうイエスさまは言います。神は人を偏り見ることはありません。この言葉も、イエスさまの他者に開かれた広い心を示しています。それと同時に、小さな者、弱い者である信者を支える神さまの深い愛と配慮を約束します。

《わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。†もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。†もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない》。

いままでの二つの言葉は、優越感や競争意識をもったりしないで、他者に開かれた寛容な態度を身に着けよ、という教えでしたが、今度は「つまずき」を問題にしています。

「小さな者」とは、ここでは子供のことではなく、信仰に入って間もない者を指しています。「つまずかせる」とは、口語訳聖書が「罪を犯させる」と訳していたように、「罪に誘う、神への道から引き離す」ことを意味しています。

イエスさまは、弟子のあり方を説いていますが、ここでは、小さな者、弱い者を軽んじたり、彼らの歩みを妨げたりしないで、彼らを大切にすべきことを教えておられます。そのことを強調するために、「大きな石臼を首に懸け」とか「海に投げ込む」とかという誇張した表現を使っています。

次にイエスさまは、わたしたち弟子の生き方のうち、他者に対する態度ではなく、自らの内面の罪に目を向けさせます。「つまずき」は自分の外に置かれているものであると同時に、より根本的には自分の中に巣食っているものです。

ここでも誇張した表現が使われています。まず《もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい》とあり、次に《もし片方の足が・・・》、そして《もし片方の目が・・・》と、三重に言われます。文字通りに受け取るべき言葉ではなく、どんな犠牲を払っても救いを達成することが大切なのだと強調している表現です。この言葉は、《人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか》(マルコ8章36~37)という言葉に通じます。それだけでなく、この言葉は、受難と復活の預言、《それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた》(マルコ8章31)とも強いつながりをもっています。まことの命への道を切り開くために、ご自分の命を懸けてエルサレムに向かって歩むイエスさまの口から出た言葉として理解すべきでしょう。

なお、この段落で44節と46節が抜けていて、その代わりに短剣符(ダガー dagger)が付いています。短剣符は注のしるしです。マルコ福音書の最後の98頁に、その説明があります。その注によると、新約聖書に節番号を付けた当初の16世紀には44節と46節は本文と見なされていましたが、今日ではそれは本文ではなく、三重の警告の形をそろえるために、後から加筆されたものと考えられて、空節となっています。どんな加筆だったかというと、実は48節と同じ《地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない》という言葉で、イザヤ66章24からの引用です。

《人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい》。

きょうの福音の最後のことばです。この「自分自身の内に塩を持ちなさい」という表現は、祭壇への供え物に関係しています。《穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ》(レビ2章13)とあります。供え物に塩をかけることは、供え物が火で浄化されること、ひいては殉教をも連想させる表現です。イエスさまはご自分の十字架の死によって、すべての人の罪をあがなってくださいました。わたしたちはそのイエスさまのあがないの功徳にあずかって永遠の命に入る希望を与えられているのです。

したがって、「自分自身の内に塩を持ちなさい」という、イエスさまに従おうとする者の生き方を教える言葉は、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである》(マルコ8章34~35)という言葉とも通じる教えです。最後にもう一度言います。イエスさまは、どんな犠牲を払っても救いを達成しなさい、それが何をおいても大切なことだと言っておられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン