2012年9月30日 聖霊降臨後第18主日 「いちばん偉い者」

マルコによる福音書9章30〜37節
高野 公雄 牧師
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
マルコによる福音書9章30~37節


今年、当教会は、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教員たちによる講壇奉仕を希望しておりまして、本日、それが実現しました。ジョナサン・ブランキ准教授が来てくださいまして、主日礼拝では、「いちばん偉い者」と題する説教をし、また午後は、先生のご専門である新約聖書学の観点から、「聖書をどう読むか Reading the Bible with understanding」というテーマの講演をしていただきました。毎年の秋分の日に行われている「一日神学校」に参加して先生方の講義を聞く機会のない者たちにとって、得難い機会を与えてくださった大学・神学校に感謝し、主日礼拝の献金をお献げすることとし、先生に託しました。

このような事情により、今週の説教録では、当日の説教のテキストとなった聖書個所の、牧師による解説を載せることにしました。

先週は、フィリポ・カイサリアにおけるペトロの信仰告白とイエスさまの第一回の受難と復活の予告(マルコ8章27~38)を聞きました。その時以来、福音書では、イエスさまがどのような救い主であるかとテーマと共に、イエスさまに従うとはどういうことかという新しいテーマが採りいれられるようになります。

きょうの福音は、先週に続いて、受難と復活についてのイエスさまによる二回目の予告に記事ですが、予告だけにとどまらず、それに続いて、ふたたび弟子のあり方についての教えが記されています。

《一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った》とあって、《一行はカファルナウムに来た》と続いているように、第一回の予告は国外で行われましたが、イエスさま一行は、そこからガリラヤ地方に戻って来て、カファルナウムに到着しました。カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸の町で、イエスさまはそこをガリラヤ伝道の拠点としていました。イエスさまは、ここガリラヤで「わたしに従いなさい」と弟子たちを招いたのですが、カファルナウムでの活動の後、イエスさまはガリラヤを去り、一路、エルサレムに向かって旅を続けます。それが、イエスさまに従う道となります。

《家に着いてから》(33節)という言葉は、カファルナウムがイエスさまたちの活動拠点であったことを表わすだけでなく、これからイエスさまが話すことを、弟子たちは腰を据えてしっかりと聞くべきことを示しています。

《人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する》。

簡潔なことばですが、これはただごとではありません。《弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった》とあります。弟子たちはこの予告の意味を十分には理解できなかったけれども、何かしら感じるものがあったのでしょう。「それはどういうことですか」と尋ねるのが怖くて黙っていました。それだけならまだ良いのですが、あろうことか、道々、《だれがいちばん偉いかと議論し合っていた》ということです。それと知って、

《イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」》。

自分と他者とを見比べて、いちばん偉い者になりたい、いちばん先になりたい、そのような思いは、弟子たちにかぎらず、私たちだれもが心に抱くのではないでしょうか。しかし、人間に共通するこの思いに、イエスさまは挑戦します。イエスさまは、私たちの偉くなりたい、一番になりたいとい思いそのものを否定はしませんが、私たちの考える「偉い」とか「一番」とかの理解を逆転させます。

この点について、イエスさまの考えを良く表しているのが、三回目の予告のあと、弟子のヤコブとヨハネが高い地位を願い求めたときに、弟子たちに言われた、このことばです。

《そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」》(マルコ10章25~28)。

イエスさまに従う者は、人々の上に権力を振るうのではなく、人々に仕えなさい、それが私たちの生き方だとおっしゃっています。そして、それは、イエスさまご自身が主でありながら人々の救いのために僕となり、ご自身の命を献げられた、その生き方にならうものだと説明されています。

イエスさまはまた、聖木曜日に弟子たちの足を洗ったあと、こう言っています。

《さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。》(ヨハネ13章12~17)。

使徒パウロもまた「キリストの模範に従う」ことについて、こう書いています。

《そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです》(フィリピ2章1~8)。

このような、「奉仕こそがリーダーシップの本質だ」というイエスさまが教える人間のあり方は、世に「サーバントリーダーシップ Servant Leadership」という言葉で知られています。この説教録のしめくくりに、同名の書物からの一文を紹介したいと思います。それは、ロバート・K・グリーンリーフ著『サーバントリーダーシップ』(英治出版)の前書きにあるバーナード・ショーの言葉です。

「人生における真の喜び。それは,素晴らしいと思える目的のために自分を捧げることである。不平不満を抱えて大騒ぎする利己的な小心者になって、世界は自分が幸福になるために何もしてくれないなどと文句を言うのはやめよう。自分の人生がコミュニティ全体のものであると、私は考えている。そして、命ある限り、コミュニティのためにできるだけのことをすることが、私にとっての栄誉だ。私というものを使い尽くされて、最後を迎えたい」。