マルコによる福音書12章41〜44節
高野 公雄 牧師
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12章41~44節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
きょうの福音は、その前の段落でイエスさまが律法学者たちは「やもめの家を食い物にし」ていると非難している、その実例として記されていると見なされています。それで、他の教会では、きょうの福音を私たちよりも長く38~44節と、前の段落を含めています。きょうの福音が置かれている文脈を理解するために、前の段落の言葉を読んでおきましょう。
《イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」》(マルコ12章38~40)。
イエスさまは、律法学者がやもめの家に行って、見せかけの長い祈りをして、謝礼金を巻き上げている、と律法学者の振る舞いを厳しく批判しています。しかし、イエスさまの批判は単に道徳のレベルにとどまりません。その批判はきょうの福音の次の段落を読みますと、神殿の崩壊を予言するまでに、ユダヤ教のあり方そのものを根本的に批判するものでした。こう言っておられます。
《イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」》(マルコ13章1~2)。
前後にこういう聖書個所があるのを知った上で、もう一度、きょうの福音を注意深く読んでみましょう。
《イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」》。
一人の貧しいやもめが神殿に来て、小銭二枚、金額にすると一クァドランス、つまり100円ほどを賽銭箱に投げ入れたのですが、イエスさまの見るところ、それは彼女の有り金のすべてであったということです。
前後の脈絡を頭において読みますと、この物語は、ふつうそう読まれているように、有り金全部を神殿に捧げた信仰深いやもめを称える美談であるというよりも、イエスさまはここに宗教が人間を疎外する悲劇を見ているようです。
やもめは有り金のすべてを神殿に献げました。それは死を覚悟してのことでしょう。その献金が何か有益なことに生かして用いられると良いのですが、イエスさまの見るところ、この神殿は間もなく滅びます。ならば、この献金は死に金、彼女の死は犬死です。イエスさまは彼女の行為を悲劇と見て嘆いているのであって、弟子たちに彼女のしたことを見習いなさいとは言っておられません。彼女は敬虔な振る舞いでもって生活に必要なお金を失いました。イエスさまは、彼女にこのようなことをする信仰を植え付けたユダヤ教の指導者たちを批判しておられるのです。
私たちは新聞やテレビの報道をとおして、繰り返して、宗教家に騙されて大金を奪われた人々の悲劇について聞きます。そのたびに、宗教っておそろしいものだな、宗教ってうさんくさいものだなという印象を深めています。にもかかわらず、人生に生・老・病・死の苦難があるかぎり、人は宗教に救いを、益を求めることを止めることができません。そして悲劇は繰り返されます。
聖書に描かれたイエスさまは、宗教よりも人間性を優先しておられます。信者から生活費を搾取するような宗教指導者ではありません。いくつかのエピソードを思い出してみましょう。
安息日(の律法)は人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない、と宣言されました(マルコ2章27)。イエスさまは安息日に病人を癒されました。安息日の律法を破ってでも人道的な援助を優先させました(マルコ3章1~6)。善きサマリア人のたとえでも、宗教上の掟を守る同胞のユダヤ人よりも、傷ついた旅人を介抱する異教徒を弟子たちの身習うべき者とされました(ルカ10章25~37)。コルバン(神への供え物)の掟を優先させて両親の必要に答えない人々を非難しました(マルコ7章10~13)。
《とこしえにまことを守られる主は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる》(詩編146編6~9)。
これは、きょうの賛美唱の一節です。人を救うはずの宗教が、往々にして、人を抑圧する、人間性を阻害する原因となります。イエスさまはそういう宗教を改革しようとしたお方です。イエスさまはその言葉と行いにおいて、弱い人々に対する神の信実を証しされました。みなし子、やもめ、寄留の難民は、弱い人々の代表です。
貧しい人々は幸いだ、今飢えている人々は幸いだ、今泣いている人々は幸いだ、とイエスさまは神が彼らと共におられることを説かれます(ルカ6章20~23)。あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ず報われる、と弱者への愛を高く評価します(マルコ9章41)。何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと言って思い悩むな、天の父はその必要をよくご存じでお与えくださる(マタイ6章25~34)。あなたがたは神と富とに仕えることはできない、と神のみを愛する生き方を示されました(マタイ6章24)。
この物語を読むについては、以上のイエスさまの宗教改革の心をしっかりと受けとめ、私たちが人を軽んじるような間違った方向に引っ張られないように、その信仰を聖書のみ言葉の上にしっかりと立てる必要を確認したちと思います。
その上で、次に、この貧しいやもめの姿は、これから起こるイエスさまの死を賭した献身、十字架への道を前もって示すものでもあることに目を留めましょう。
この貧しいやもめは、その動機が絶望からか、何かの償いであったのか、注目されたいからか、または深い献身であったのか、何が本当の動機であったかは書かれていませんが、ともかく、彼女は持てる物のすべてを、生活のすべてを神殿に献げました。しかも、それはまったくの無駄になったように見えます。
イエスさまの場合も同じようです。イエスさまの動機は、人間に対する神の愛を極限までの実践で示すためでした。そして、それは十字架刑による死に極まり、すべては無に帰したように見えました。しかし、神は三日目にイエスさまを復活させて、人々にイエスさまの証しが真実であることを示されました。
このイエスさまの生き方をとおして、私たちは弱い者に配慮してくださる神を知りました。この神に私たちのすべてを委ねることができることを知りました。イエスさまが共に歩んでくださることを信じて、自分を神に委ね、神に献げて生き者となりたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン