2012年11月11日 聖霊降臨後第24主日 「最も重要なおきて」

マルコによる福音書12章28〜34節
高野 公雄 牧師

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。

もはや、あえて質問する者はなかった。
マルコによる福音書12章28~34節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

地上におけるイエスさまの生涯最後の週、日曜日にエルサレムに到着してから、金曜日に十字架に付けられるまでの六日間は、日付が書き入れられています。三日目の火曜日の出来事がマルコ11章20~13章31に描かれていますが、きょうの福音である律法学者とイエスさまの対話個所もこの日の出来事とされています。

《あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか》。一人の律法学者がイエスさまにこう尋ねることから、きょうの話は始まります。「最も重要なおきて」は何かとい問題は、当時のユダヤ教において大いに論じられていたものでした。これはキリスト教徒にとっても重要な問題であって、この出来事はマタイ22章34以下とルカ10章25以下にも書かれています。これらの個所は礼拝において毎年交代に読まれます。

《第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない》。

これが律法学者の問いに対するイエスさまの回答です。第一のおきてとされたのは、きょう旧約聖書の日課として読まれた個所の引用であり、第二のおきてとされたのは、レビ記19章18です。律法学者は「どれが第一でしょうか」と一つのおきてを求めたのですが、イエスさまは神を全身全霊でもって神を愛すべきことと、隣人を自分のように愛すべきことという二つのおきてでもって答えています。神への愛は「信仰」、そして、隣人への愛は「倫理」と言い換えることができるでしょう。イエスさまは、信仰とその具体的な生き方である倫理とは、次元の異なることではあるが、深く関係することであると見ておられます。

《わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です》(Ⅰヨハネ4章19~21)。このように、神への愛と隣人への愛は互いに別々の愛ではなくて、二つの愛は一つと言えるほどに深く関わり合っている。これが聖書の見方です。

そして、結びとして、「この二つにまさる掟はほかにない」と言います。聖書には、これこれをしなさい、あれそれをしてはいけないという教えがたくさん記されていますが、それらはみな、神と隣人への愛の下位にあるものであって、すべては二つで一つの愛のおきてのもとにあることを、イエスさまは明らかにしておられます。愛は、キリスト者の生活の本質であって、それなくしてはキリスト者でありえない必須の条件です。

第一のおきては申命記6章4~5節の引用ですが、第一朗読ではこれに続いて次の言葉を聞きました。《今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい》(申命記6章6~9節)。これでこのおきてがいかに大切にされていたかが分かります。これが最も重要なおきてであることは、ユダヤ人の誰もが認めていたことでしょう。

ところで、「愛しなさい」と言われていますが、神への愛は義務ではありません。神に愛されていることを知った者が、感謝して返す自発的な応答の愛です。聖書に証しされている神は、《わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない》(出エジプト記20章2~3)、と人々に自己紹介をしています。神は、エジプトで奴隷として苦しんでいるイスラエルの民を憐れみ、強い力で救い出してくださいました。民は喜びと感謝をもって神への信頼をはぐくみました。そして、新約の時代になると、《実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました》(ローマ5章6~8)とあるように、神はイエスさまの言行において、とくにも十字架の死において人に対する愛と信実を明らかに示してくださいました。人はこの福音を信じることを通して自分の救いを手にすることができます。その信仰は神に対して自分の愛と信実をもってする感謝の応答です。そして、その感謝が私たちを神のおきてを喜んで果たすことへと導き、神を愛するだけにとどまらず、隣人を愛すること、神のおきてを喜んで果たすことへと導きます。

次に、第二のおきて「隣人を自分のように愛しなさい」について学びたいと思います。このおきてはレビ記19章18の引用ですが、この章には自分の隣人をどのように愛すべきかという実例がいろいろと示されています。その中心となる考え方は、《主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である》(レビ記19章1~2)というものです。

このおきてについては、自分自身への愛をどう考えるかによって、二つの考え方があります。

ひとつは、宗教改革者たちが支持しており、いまでも有力な考え方なのですが、このおきては隣人愛だけを命じているのであって、自己愛は命じられていないと理解します。この場合、「ように」というのは、「同じ仕方で」という意味ではなくて、「同じ程度に」という意味だとされます。人は自分を深く愛して関心を持続し、熱心に幸せを求めます。自分には寛容であり、たくさんの言い訳をし、自分に多くの時間を費やします。このような自己愛は、愛の堕落した姿なのですが、このおきてはこの自己愛と同じほどの熱心さで隣人を愛することをと求めているという理解です。

もうひとつの考えは、これも昔からあった考えではあるのですが、とくに現代心理学の発達に後押しされて、現代人には受け入れやすい考え方です。隣人を正しく愛するためには、まず自分自身を正しく愛することを身に付けなければならない、という理解です。口語訳聖書の《自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ》という翻訳は、こういう考え方にもとづいています。この場合は、「ように」は、先ほどの場合と違って、「同じ程度に」ではなく、「同じ仕方で」という意味に理解します。このような「ように」の使い方はイエスさまもしておられます。《だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》(マタイ5章48)。この「ように」は、「同じ仕方で」という意味だと考えられます。

どちらの考え方を選ぶにしても、イエスさまは、人は神と隣人とを愛する生き方においてこそ、自尊心を正しくもち、自己実現を成し遂げられると教えておられることは明らかです。

このおきてについては、パウロも《律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです》(ガラテヤ5章14)と述べていますが、イエスさまにはこれとは別に、黄金律(おうごんりつ Golden Rule)と呼ばれるイエスさまの言葉があります。《だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》(マタイ7章12)。この言葉の場合、「人にしてもらいたいと思うこと」つまり、人として何を本当に欲するべきことなのかを、イエスさまに従う歩みの中で見出していくことが前提となります。それが明らかになった上ではじめて、そのことは「何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉が、本当に意味ある教えとなります。私たちが独りよがりで自分勝手でわがままな願いを抱いたまま、この言葉を実行したとしても、それは決して本当に他者を生かし、共に生きていく救いの道にはつながりません。私たちは、イエスさまに聞き従う歩みを続ける中で、本当に欲するべきものを見定めていきたいと思います。

「正しく自分を愛する」ということについても同じことが言えます。イエスさまは弟子たちに《それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか》(マルコ8章34~36)と諭されました。私たちは本当に私たちを生かすことの出来るお方、イエスさまと共に歩んで参りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン