2013年1月13日 主の洗礼日主日 「主イエスの洗礼」

ルカによる福音書3章15〜22節
高野 公雄 牧師

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ルカによる福音書3章15~22節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

きょうは、「主の洗礼」の祝日です。イエスさまがおよそ30歳のころ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことを記念し、お祝いする日です。この日が最上級の祝日であることは、典礼色が白色(本当は金色)であることで示されていますが、今日、私たちはさほど重要な日という認識をもっていないように思います。しかし、その昔は違いました。実は、この祝日はイエスさまのご降誕が祝われるよりも、もっと古くから祝われていました。きょうはまず、イエスさまが洗礼を受けたことを祝うことにどんな意味があるのか、それを話すことから始めようと思います。

キリスト教もその母胎となったユダヤ教も唯一神教です。神は神、人は人であって、神と人とは隔絶した存在であって、神が人となることも、人が神となることも、とうてい考えられないことです。ですから、イエスさまを信じる者の中には、イエスさまは生まれたときはふつうの人にすぎなかったのだけれど、洗礼のときの「あなたはわたしの愛する子」という神の宣言によって、養子として「神の子」になったと考える人たちがいました。彼らにとって、この「主の洗礼」こそが「顕現」つまりイエスさまが神の子、救い主であることが明らかに示された出来事だったのです。その後、イエスさまの人格についての教理が整ってくると、この養子説は異端とされ、否定されました。そして、「イエスさまは誕生の時から神の子であった」、「神が人イエスさまとなって地上に降り立った」という教理が正しい教えとして確立します。それにともなって、クリスマスが盛大に祝われるようになりました。それ以来、「主の洗礼」は新しい意味づけをもつようになり、今日に至っています。

《民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。》

今日「主の洗礼」を祝う意味は、三つの点にまとめることができます。第一点は、イエスさまの洗礼において、三位一体の神が啓示されたということです。「顕現」を祝うことは昔と変わりませんが、「キリストの顕現」から「三一神の顕現」へと強調点が移ります。「主の洗礼」において、天の声によって「父なる神」が現わされ、鳩のような形で「聖霊なる神」が現わされ、そしてイエスさまによって神の子つまり「子なる神」が現わされたことを祝います。

第二点と第三点は、イエスさまがなぜ洗礼をお受けになられたのかということに関わります。第二点は、神の子であるイエスさまは悔い改めを必要としない身でありながら、自ら洗礼を受けて身を低めることを通して、悔い改めを必要とするすべての人とひとつとなられたということです。イエスさまが洗礼を受けたことは、イエスさまが神の子、救い主としての使命を自覚し、その使命を生き始めたことを祝います。

第三点は、イエスさまが洗礼をお受けになられたのは、洗礼によってイエスさまが清められるためではなくて、イエスさまによって洗礼が清められるためであったいうことです。イエスさまの洗礼は、キリスト教の洗礼の源となりました。私たちはこの洗礼を通して、イエスさまとひとつになることができようになったことを祝います。

ところでイエスさまに洗礼を授けたヨハネは、ヨハネ福音書を書いたとされる使徒ヨハネ、ヨハネの手紙の著者である長老ヨハネ、黙示録の著者ヨハネらと区別するために、洗礼者ヨハネ(またはバプテスマのヨハネ)と呼ばれます。「主の洗礼」の祝いでは、以上で見てきたように、誰がイエスさまに洗礼を授けたかということは大きな意味を持ちません。しかし、伝統的には、教会はイエスさまに洗礼を授けたヨハネに対して、イエスさまの先駆者として、また聖人つまり私たちの模範として、特別な崇敬の念を寄せてきました。

《民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。》

洗礼者ヨハネは、旧約聖書の預言者のような出で立ちでユダの荒れ野に現われて、人々に悔い改めを勧める説教をし、ヨルダン川で洗礼を施していました。彼は人々の人気を得て、もしや彼が待望のメシアではないかと期待されるまでになっていました。しかし、ヨハネは自分の後から「わたしよりも優れた方が来られる」と言って、自分はメシアではなく、イエスさま登場の先駆けにすぎないとはっきりと証しした、というのです。また、ヨハネは「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」とも言います。「霊」は「息」とか「風」をも意味します。聖霊と火による洗礼は、風と火のイメージにつながります。脱穀の道具を使って麦の穂から実ともみ殻を分離させ、それを箕であおって、もみ殻やゴミを吹き払い、実を集めて倉に納め、殻を集めて火で焼く、というものです。悔い改めて洗礼を受ける者は神が救ってくださるが、悔い改めない者はゲヘナ(地獄)の火に焼かれて滅びる、と言っているのでしょう。

ところで、ヨハネもイエスさまも、説教の中心は《悔い改めよ。天の国は近づいた》(マタイ2章2と4章17)というものでした。聖書のいう「悔い改め」とは、私たちのひとつひとつの行いを反省するという倫理を意味するものではありません。私たちの生き方、あり方の全体を神の招きに応えて翻して、神に立ち帰るという宗教的な意味合いの言葉です。私たちの心の向きはそれぞれ自分勝手な方向に向いていますが、その心を翻して、神の方に向き直す、あるいはイエスさまとひとつになって心をつなげるという意味です。それは、「悔い改め」と訳すよりも「回心」と訳すのがふさわしいことかもしれません。

ヨハネ福音1章35以下によると、イエスさまご自身だけでなく、イエスさまの最初の弟子となる二人、アンデレともう一人(おそらくはヨハネ)も洗礼者ヨハネの集団の中にいたのですが、のちにそこからイエスさまの集団は分かれて行きました。使徒言行録によると、洗礼者ヨハネの集団による「水の洗礼」とイエスさまの弟子たちによる「聖霊による洗礼」という理解との間に確執があったようです。《アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。》(使徒言行録19章1~7)

このパウロの言葉にあるように、イエスさまが洗礼を受けて「神の子宣言」を聞いたと同じように、私たちも洗礼を受けてイエスさまの仲間にされるとき、神の子とされるのです。きょうの礼拝の初めの「主日の祈り」で、私たちは声を合わせてこう祈りました。「天の父なる神さま。あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで『わたしの愛する子』と言われました。み名による洗礼によって、あなたの子どもとされた私たちがみ心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください」と。そしてまた、「主の洗礼」において、イエスさまが神の子の自覚をもって福音宣教の使命に生き始めたように、それを祝う私たちもまた、きょう心を翻して神に立ち帰り、ともに力を合わせてみ国の福音の証人となることができるよう祈りつつ、新しい年の歩みを進めましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン