ルカによる福音書4章16〜32節
高野 公雄 牧師
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」
ルカによる福音書4章16~32節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
《イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。》
イエスさまが故郷のナザレに戻って、会堂で教えたが、故郷の人々から拒否されたという出来事は、マルコ福音とマタイ福音ではガリラヤ伝道のもっと後の時期に置かれています。それをルカはガリラヤ伝道の最初にもってきています。なぜそうしたのか、ルカの意図はこの箇所の理解にとって大事なポイントですが、まずはナザレの会堂での出来事自体を見ていきましょう。
「いつものように」とあるように、安息日に会堂で教えることが、イエスさまのガリラヤ伝道の基本的な形でした。会堂はガリラヤの村社会における生活の中心でした。とくに安息日には人々は会堂に集まって、ユダヤ教の礼拝を守り、聖書の朗読と解説を聞き、祈りと賛美を献げました。ユダヤ教の会堂では、聖書を朗読し、それについて説教をする者は、男性の信者であれば誰でも許されていたのです。そこで、イエスさまはご自分が御霊によって新しく受けた啓示を伝え始められます。きょうの福音の直前に、荒れ野で試練に遭われたあと、《イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた》(ルカ4章14~15)とあるとおりです。
《預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。》
その日、世話係から手渡された預言書はイザヤ書でした。イエスさまは巻物を開いて、次の預言の言葉を読まれます。ふつうは各安息日に会堂の礼拝で読まれる箇所は決まっています。ルカの引用は、イザヤ書61章の1節と2節の間に58章6の一部をはさみ込んでいます。
《主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。》
この箇所は、「第三イザヤ」と呼ばれる預言者が、バビロンからの帰還し神殿を再建してしばらく経って、なお幻滅しているイスラエルの民を救うために、将来、神からメシヤ(油を注がれた者)が遣わされることを預言した言葉です。神は終わりの日に、主の霊を与えられたメシヤを遣わして、霊的には捕らわれの状態にある人間を解放してくださると語られます。とくに、時代の状況から、将来現れるメシヤの救いの告知が「貧しい人」に向けられるとされていることは、イエスさまの使命にぴったりです。
《イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。》
聖書は立って朗読しますが、朗読箇所を解き明かすときは、座わって行います。イエスさまが席に座られると、「会堂にいるすべての人の目が」イエスさまに注がれます。ナザレの人たちはイエスさまがカファルナウムなどでなされた奇跡について聞いていたので、この同郷の人物に特別の興味と関心を寄せていたことでしょう。
《そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と話し始められた。》
イエスさまは聖書の言葉の一つ一つについて解説をなさったでしょうが、ルカはその内容を伝えるのではなくて、むしろこの時のイエスさまの講話の核心を、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という宣言として要約して伝えます。聖書が終わりの日に現れると預言したメシヤ、主から油を注がれた者、主の霊がとどまる方が、いま目の前に立っているという宣言です。これぞイエスさまの福音の画期的な新しさです。マルコ福音も「時は満ち、神の国は近づいた」(1章15)という言葉でイエスさまの宣教を要約していますが、ルカ福音も同じように、ナザレの会堂におけるイエスさまの宣言でもって宣教の核心を述べているのです。
イエスさまは、「ヨベルの年」(レビ記25章10)が無条件に負債者を負債から解放したように、貧しい者が無条件に主の御霊の働きによって苦悩から解放される「恵みの年」の到来を告知されます。引用されているイザヤの預言の最後の節は、「主の恵みの年と神の報復の日を告知する」とありますが、「神の報復の日」を省略しておられます。イエスさまの使命と福音を先取りして、神の終末的な恵みの時の到来を強調するためでしょう。
《皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか」。》
自分たちがよく知っているイエスさまの口から出るこうした大胆な言葉に、ナザレの人々は驚きます。それは、《その言葉には権威があったから》ではありますが、実は、自分たちが「ヨセフの子」として子供の頃からよく知っているイエスさまの口から出ていることに驚いているのです。彼らの思いを見抜いて、彼らが言おうとしていることを、イエスさまの方から言い出されます。
《イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」。そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」》
ナザレの人たちが奇跡を見たいと願っていることを見抜いておられるイエスさまは、その要求を拒否されます。そして、預言者は自分の故郷では受け入れられないことを、イスラエルの歴史の中で代表的な預言者とされているエリヤとエリシャの例を挙げて語られます。エリヤの例は列王記上17章に、エリシャの例は、列王記下5章にあります。どちらも、神から遣わされた預言者が、神から受けた言葉で助けたのは、イスラエルの民ではなく、異邦の女や将軍であったという話しです。このように、「預言者は自分の故郷では歓迎されない」という言葉は、イエスさまの福音がユダヤ人同胞には受け入れられずに拒否され、異邦の人々に向かうという預言として用いられています。マルコとマタイは、イエスさまは故郷の人たちの不信仰のゆえに、ごくわずかの癒ししかできなかったと語ります(マルコ6章1~6)。それに対してルカは、福音がイスラエルではなく異邦人に向かうことを、イエスさまの伝道活動の初めに、イエスさまご自身の宣言として置くのです。
このような内容の記事がガリラヤ伝道の最初に置かれていることの意義は、次の三点にまとめることができるでしょう。
第一に、イエスさまの福音告知の内容を、その活動の最初に綱領として掲げるためと考えられます。聖書が来たるべきメシアについてしている預言がイエスさまにおいて成就したという宣言です。このように、ルカが提示しようとする福音のもっとも基本的な内容を、イエスさまご自身が宣言されたとして、ガリラヤ伝道の最初に置きます。
第二に、ルカは使徒言行録で、イエスさまの福音が同胞のユダヤ人に拒否されて異邦の諸民族に向かう歴史を描いていますが、その理念を、福音書の冒頭で、郷里のナザレでの同郷人の拒否と、イエスさまご自身の宣言という形で提示します。
第三に、イエスさまの宣教活動全体が激しいユダヤ人の敵意の中で行われたことを示すために、イエスさまを石打にしようとした同郷のユダヤ人の行為が最初に置かれたと考えられます。
このように見てくると、ナザレの会堂での出来事を描くルカの記事は、ルカが伝えようとしている福音宣教の基本理念を表わしていることが分かります。ルカはここで、ナザレでのある一日の出来事を描いているというよりも、イエスさまの活動全体の縮図を前もって提示したものです。この出来事には「貧しい人に福音を告げ知らせる」イエスさまの姿と、それを受け入れることのできなかった人々の姿がはっきりと表わされています。イエスさまは《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》と宣言されました。それは、この礼拝でこの言葉を聞いている私たちにとっても「今日」のことです。私たちがイエスさまを信じるなら、私たちは「今日」救われるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン