2013年2月3日 顕現節第5主日 「幸いの呼びかけ」

ルカによる福音書6章17〜26節
高野 公雄 牧師

「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

ルカによる福音書6章17~26節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

先週は、ルカ5章のイエスさまがガリラヤ湖畔で最初の弟子たちを得る記事を読みました。その後も、町々村々の会堂を巡って教えを宣べ伝え、弟子たちもますます増えてきました。その一方で、イエスさまに反対する人たちの敵意も強まり、緊張が高まってきました。そのころ、イエスさまは祈るために山にのぼり、徹夜して祈ったあと、弟子たちの中から十二人を選び出し、「使徒」と名付けられました。「使徒」とは、一般に(特別な使命を委託されて、代表者として)派遣された者のことですが、聖書ではイエスさまによって選ばれて福音宣教の使命を委ねられた者を指す言葉として使われています。そして、きょうの福音に続きます。

《イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。・・さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、・・》

このように、聖書の小見出しに「幸いと不幸」と付けられた説教が続きます。これと平行する説教がマタイ5章にも書かれています。そちらは山上で話されたとあるので、「山上の説教」と呼ばれ、こちらは「山から下りて、平らな所にお立ちになった」とありますので、「平地の説教」と呼ばれます。もともとは共通のイエスさまの語録が、マタイとルカが自分の福音書を書くに際して、それぞれの構想にしたがって、アレンジしたために、多少異なったものとして伝えられていると考えられています。

では、きょうの福音の中心部分を見てみましょう。

《貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。》

まず、「貧しい人々」と出てきますが、聖書では「貧しい」という言葉は、単に年収が少ないという経済的な面を言うだけではありません。ルカ4章で、イエスさまの宣教活動の初めに故郷のナザレの会堂で読まれた預言者イザヤの言葉にこうありました。

《主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。》

ここで「貧しい人」が、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人と敷衍して言い換えられています。その他に、病気や障がいを負っている人、子供や老人、寡婦や寄留の外国人なども付け加えることができるでしょう。つまり、「貧しい人」とは、社会の片隅に追いやられたもろもろの弱者であり、神に寄り頼むしか出口のない人々を指します。

さらに、日本語では分かりにくいですが、ここは三人称で一般論が論じてられているのではなく、イエスさまは今ここに、目の前にいる人々に向かって、「あなたがた貧しい人々は、幸いである」、「あなたがた今飢えている人々は、幸いである」、あなたがた今泣いている人々は、幸いである、というように二人称で語りかけておられます。

山を下りてきたイエスさまのところに押し寄せた弟子たちと民衆の中には、自分は貧しくない、富んでいると考える人もいたのでしょう。聖書の意味では、彼らは神なしにもやって行ける、大丈夫という人たちです。イエスさまは彼らにこう言われます。

《しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。》

ふつうは貧しい人、飢えている人は不幸だと見られるのにもかかわらず、幸いであると言われます。ふつうは富んでいる人、満腹しているは幸せだと考えられるに、不幸だと言われます。このイエスさまの言葉は逆説的な真理だと言われます。「逆説」とは、常識的な見方に反する形で、事の真相を表そうとする言説です。たとえば、「急がば回れ」がそうですし、親鸞の言葉「善人なおもて往生をとぐ,いわんや悪人をや」もそうです。

とくにも、イエスさま時代のユダヤでは、因果応報の思想が一般的でした。貧しい人は、何か神に罰せられるような悪事を働いたから貧しいのだと思われて、さげすまれました。富んでいる人は、何か善いことをしたので、神の祝福を受けているのだと自認し、高ぶっていました。このような考え方のもとでは、隣人愛の教えも窒息させられてしまいます。

イエスさまを身ごもったマリアはこう歌いました。《主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません・・》(ルカ1章51~54)。そのように、イエスさまは、ものの見方、考え方を一新します。貧しい人は他人から不幸だと見られるし、本人も不幸と思っているでしょう。しかし、イエスさまは権威と力をもって、「あなたがたは幸いだ。なぜなら、神の国があなたがたのものだから」と祝福を宣言なさいます。出口のない境遇にある人々に神が働いてくださって、空腹を満たして、涙を喜びに変えてくださる、と言われます。悩み苦しみの中にあって、自力ではそこから抜け出せずにいる人に対するこの慰めの言葉は、イエスさまの口から出た言葉であるからこそ、人を生かす力があり、信じるに足る言葉なのです。イエスさまはたんなる口舌の徒ではありません。つねに貧しい人たちと共にいて、ご自分のすべてを彼らのためにお与えになりました。その言葉は、ご自分の生き方と十字架上での死をとおして、人間に対する神の信実と愛を伝える言葉です。実に、イエスさまは貧しい人に福音を告げ知らせるために、この地上に遣わされたお方です。

きょうの福音で聞いたイエスさまの言葉は、貧しい人々を希望に導く言葉であり、富む者に対して回心を、神への立ち帰りを促す言葉であったと思います。神は人を分け隔てせず、誰ひとりないがしろにすることなく、寄り添って歩んでくださり、時にかなった助けを与えてくださいます。イエスさまの生涯をとおして、この神の愛と信実を知ったならば、わたしたちの幸福観も変わります。一タラントン預かった人も十タラントン預かった人も同じく、自分にできる努力は自分でする、自分でどうにもならないことは神にお任せする、そして神の働きを望みをもって待つ。神を信じる者の生き方は、そういう生き方になると思います。

ところが、実際のわたしたちの生き方はどうでしょうか。幸いは自分の力でつかむものだ、神仏に頼ったって幸せが来るはずがないと思って、快適な生活を追い求めてあくせくし、不満をもち、疲れ、不幸の身を嘆くというような負の循環に陥っていないでしょうか。

きょうの礼拝の始まりに、わたしたちはこう祈りました。「全能の神さま。あなたはいのちの言であるみ子によって、私たちの目と耳を開いてくださいました。聖書の宣べ伝えていることを、私たちが喜んで信じ、行なうことができるように助けてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります」、と。

きょうのみ言葉から、わたしたちを支える真の幸せの源は、神の国にあること、神の愛の働きにあることを教えられました。その幸せをこの礼拝でわたしたちはいただきました。今ここから、イエスさまを信じる貧しい者としての歩みを始めさせていただきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン