2013年1月27日 顕現節第4主日 「最初の弟子を得る」

ルカによる福音書5章1〜11節
高野 公雄 牧師

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

ルカによる福音書5章1~11節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週、私たちは、ルカ福音がイエスさまの活動を故郷のナザレの会堂でのメシア宣言から書き始めたところを読みました。今週は、ガリラヤ湖畔で最初の弟子たちを招く記事です。マタイ福音とマルコ福音によれば、イエスさまの活動はこの弟子たちとの出会いから始まります。弟子が生まれることはイエスさまの宣教が実ったことの表れですし、その弟子たちがイエスさまの活動の最初からの証人となるのです。

《イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。》

ゲネサレト湖とは、ガリラヤ湖のことです。ゲネサレトはこの湖の北西に広がる肥沃な平原を指す地名であり、この地名が湖の名としても使われていました。また、この湖はティベリアス湖とも呼ばれていますが、ティベリアスは湖の南西岸にガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスが築いた首都の名です。わたしたちがもっとも馴染みとしているガリラヤ湖という名は、実はマルコがパレスティナの地理を知らない読者のために考え出した独自の呼び名であって、マルコ福音書以前にはこの名は使われていなかったそうです。

イエスさまはこの湖畔を中心に宣教活動をしました。その様子は、4章に記されています。イエスさまの言葉は力強く、病気を治すこともできました。その噂はまたたく間に広まり、イエスさまが湖畔に現われると、噂を聞いた群衆は神の言葉を聞こうとして押し寄せて来ました。

《イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。》

ガリラヤ湖の漁は夜に行われました。魚は日中は深いところにいて、夜になると湖面近くに上がってくるのだそうです。漁師たちは夜中に漁をし、朝になると岸辺でその網の手入れをします。ヨハネ21章にも、夜が明けたころ、イエスさまは岸に立って、弟子たちが漁から戻るのを待ち受けていた記事があります。

群衆に取り囲まれたイエスさまは、シモンの舟に乗せてもらい、舟の上から岸辺に群がる人々に教えました。しかし、きょうの福音は、教えの内容については語ろうとしません。シモンたちとの出会いがテーマだからです。

《話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。》

ここでは、イエスさまの提案に対するシモンの応答に注目しましょう。シモンはまず、自分たちは漁師としての知識と技術を駆使して夜通し働きましたが、何もとれなかったと訴え、さらに続けて、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。日本語訳では明らかではありませんが、ここで主語が「わたしたち」から「わたし」に替わっていることは大事な点だと思います。英語訳ですと、”But because you say so, I will let down the nets.” とか “Yet if you say so, I will let down the nets.” となっています。収獲の見込みが無かろうが、仲間がどう思おうが、わたしはお言葉に従います、とシモンは自分の決意を述べているのです。シモンのこの率先垂範に仲間たちも立ち上がります。そして、それが奇跡的な大漁につながります。私たちもシモンの振る舞いに見習いたいものです。

常識では、漁は夜、浅瀬でするものですが、イエスさまのお言葉は、日中に沖で漁をせよ、という常識に反するものでした。「沖に漕ぎ出せ」とは、常識的な物の見方、考え方を超えた信仰の世界に歩み入れという招きです。イエスさまは、私たちが行き詰ったとき、神に委ねて生きるよう呼びかけておられるのです。

《そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。》

網が破れそうになった、舟が沈みそうになった、とあるように、この出来事は異常なものでした。イエスさまを信じてご利益を喜ぶというレベルを超える危機的な事態です。シモンたちはそこにイエスさまの神性を垣間見て、畏敬の念に襲われます。イエスさまの足もとにひれ伏して、「わたしは罪深い者なのです」と告白します。これは、自分の犯したあの罪、この罪のことを言っているのではなく、神聖なものを前にした人が抱く深くへりくだった思いを言い表す言葉です。前には「先生」と呼びかけていましたが、いまは「主よ」と呼びかけています。「主」とは、聖書においては、神を指します。これは、シモンがここで早くもイエスさまの神性を予感していることを表わしています。

ここで、シモンがあだ名でペトロと呼ばれる人であることが示されています。《イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた》(ヨハネ1章42)とあります。イエスさまの言葉アラマイ語の「ケファ」をギリシア語に訳すと「ペトロ」になります。彼が「岩」と呼ばれるわけは、《イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。》(マタイ16章15~18)と説明されています。

《すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。》

イエスさまは、ひれ伏すペトロに「恐れることはない」と言われました。これは、単にラビが弟子をとるときの言葉ではありません。イエスさまをとおして語られた神の恵みの言葉です。そしてさらに、イエスさまは「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。「人間をとる漁師」とは、「人間を生け捕りにする者」という意味です。この比喩は、「福音」という網で人間を捕らえ、「神の国」という恵みの生簀(いけす)に招き入れる、ということを意味しているのでしょう。これは、旧約聖書に出てくる漁の比喩と全く逆です。エゼキエル書で神が網を使って漁をするのは、背信の罪を犯している者たちを一網打尽に捕えて裁くためでした。しかし、イエスさまは、人を救う御業の比喩として漁を使っておられます。

イエスさまは、ペトロたちを新しい生き方へ、すなわち「弟子」としてお召しになりました。漁師として魚をとるのは、自分の生活のためでした。けれども、人間をとるということは、自分のためではなく、その人のためにその人をとるということ、つまり「相手」のために生きる、ということです。自分のために生きることから、相手のために生きることへと生き方を変える。イエスさまが私たちに求めているのは、これです。

ペトロたちは、「人間をとる漁師」にと召されて、「すべてを捨ててイエスに従った」と締めくくられています。舟も網も、今までの職業も、家族さえも捨てて、イエスさまに従って行きました。今までどおり、自分にとって快い、都合の良い日常生活を守ったまま、イエスさまに従って行くことはできません。少なくとも「自分のために」という自己中心な生き方を捨てて、「相手のために」という愛の生き方を目指そうというのですから、そのために忍耐したり、時間や労力やお金を献げたり、自己主張や自分の考えを引っ込めて譲ったりすることがあるはずです。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。私たち一人ひとりも、この人生に召されています。利己心を捨てて、己のタラントを神に献げる心で、この道を歩みたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン