2014年5月18日 復活後第4主日 「どこからきて、どこへいくのか」

ヨハネによる福音書14章1〜14節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「私は道であり、真理であり、命である。」主イエスは弟子たちに、そして御言葉を聞く私たちに、こう語りかけられます。「私は道であり」、これは「私こそが道である」と訳せます。主イエスが神様の救いに至る何か特別な道を説明し、それを私たちに勧めているわけではありません。主イエス、この方こそが唯一の真理と命の道、そのものであるとご自身は語っておられるのであります。

主イエスがこのように語られた本日の御言葉であるヨハネ福音書14章は、最後の晩餐の後、主イエスが弟子たちに語られた「告別説教」と言われています。いわば主イエスの遺言であります。この説教は16章まで続くのでありますが、今日の福音である14章1節からの御言葉は、よくお葬儀で聞かれるように、神様の慰めと励ましに満ちている箇所であります。

1節で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と主イエスが弟子たちに言われるように、この時彼らは心中穏やかではありませんでした。「心を騒がせる」、これは嵐によって激しく波立つ海の水のように、心が落ち着かず、激しい動揺と不安な状態にあることを指し示す言葉です。弟子たちに何が起こったのか、前の13章から読んでまいりますと、弟子のユダが裏切って、自分たちの下を去って行っていきました。それは夕食の時でした。「サタンが彼の中に入った」と聖書は記します。この表現は、弟子たちにとって、まさかあのユダが、ユダに限ってこんなことが起こるとはという、真に青天の霹靂であったことを強調しているのでしょう。弟子たちだけではありません。主イエスご自身も、13章21節で、「心を騒がせながら」、ユダの裏切りを断言したのでした。この時、あたりはすっかり暗くなっていました。夜の出来事です。夜は闇を表しますが、彼らの心もまさに闇の只中にあったのです。さらに、ユダだけではありません。あのペトロも、主イエスから3度の否認の予告が言われるのです。

ユダの裏切り、ペトロの否認の予告は、主イエスの後に付き従ってきた弟子たちを不安に突き落としました。主イエスのみ後についていけない、それは自分たちが主イエスの救い、いわば神様の救いから遠ざかる、振り落とされるということだからです。弟子たちはすべてを捨てて、主イエスにただ唯一の望みを託して、主イエスと共に歩んできました。彼らは度々主イエスから叱られ、神様の御心を受け止めることができませんでしたが、それでも彼らは熱心だったのです。熱意があった。主イエスがおられるところなら、行くところなら、いつどこにでも従っていく。されど、弟子たちは、これから主が突き進まれる十字架の道には従い得ないのです。十字架に背を向けるのであります。罪ゆえの彼らのこのような信仰の弱さは、また私たちの姿と重なるのではないでしょうか。主イエスのみ後に従う私たちもまた、自身の熱心さにおいて、十字架の主を見失うことがあります。十字架の主に示された愛、執り成しの愛にこそ生かされているのだろうか。熱心さの中に、他人の不信仰を見出し、赦すのではなく、裁いてしまう私たちの姿があるように思えます。

されど、十字架に背を向け、主に従い得ない私たちに、主は直語られるのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

緊迫した状況の中で、心を騒がせていた弟子たちでありますが、しかし、主イエスご自身も、心を騒がせて、彼らと同じ心境に立ち、弟子たちと共におられるのです。波立つ嵐の只中に弟子たちが、私たちが立たされて、安全な所から主は呼びかけておられるのではなく、主も私たちと同じところに立ち、そこから呼びかけておられるのです。「信じなさい」。この時の弟子たちの心境を考えますと、この言葉は「恐れるな」と言っているように聞こえてまいります。恐れず、信ぜよ。主イエスは叱責し、見捨てるわけではなく、直招かれるのです。そして慰めてくださいます。

そして、心騒がせ、闇の只中にある彼らに、主イエスは、天の住まいを用意して、再び戻り、あなたがたを迎えると言われ、「私がいるところに、あなたがたがいる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(2節)と約束されます。「住まい」と言われていますが、この言葉は「留まる」メノウというギリシャ語の言葉から出た語であります。ぶどうの木の例え話で、主イエスが「つながっていなさい」と私たちに語られる、あの「つながる、留まる」という言葉です。主イエスが用意して下さる天の住まい、それは私たちが想像する具体的な建物というよりは、この留まる、つながっているというあり方、存在を強調しているのです。すなわち、心騒がせ、十字架に背を向けてしまう私たちに、主はつながっていてくださる、闇の中にあって、主イエスという救いの光は輝いているのです。だから、わたしがいるところに、あなたがたはいる、確かに私の御手の中にあるのだから、安心しなさいと、心騒ぐ弟子たち、私たちに平安を与えてくださる、主の慰めに満ちた御言葉が語られているのです。

「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。(4節)その言葉に対し、弟子のトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(5節)と言いました。トマス、あの疑い深いと言われるトマスでありますが、彼はどこにそんな道があるのかと言うのです。トマスが不信仰だと一概に言いうることではないでしょう。その道を知りたいと思うのは私たちもそうです。

「その道を極める」という言葉がありますように、私たちは「道」と聞けば、自分の力で目的地に向かう、その目標に向かって頑張っていくというイメージが根強くあります。様々な道がありますが、私たちは人生において、己の生き方を求めて、どの道を行こうか、極めようかと悩みます。または、私たちの存在を問うものではないでしょうか。行くべき道、目的を見失い、自分は何のために生きているのか、どこに向かっているのかわからなくなることがあります。

旧約聖書創世記16章のアブラハムの物語の中に、女奴隷ハガルという人が登場します。アブラハムがアブラム、妻のサラがサライとそれぞれがまだ呼ばれていた時代、彼らは未だに、子宝に恵まれていませんでした。ふたりは相当な高齢でした。誰が見ても、老夫婦から子供が生まれるとは思っていなかったし、自分たち自身がそのように自覚していました。アブラハムは神様から、老齢の自分から子孫が与えられることを既に約束されていましたが、結局その約束を待たずして、妻のサラの助言に従い、女奴隷ハガルを側室に迎えて、彼女は男の子を身篭ります。子供が与えられたという喜びは無論あったことでしょうが、その子供を巡って、聖書は複雑な人間関係を描いております。ハガルは自分が子供を得たので有頂天になり、主人のサラを軽んじます。サラは彼女の態度に腹を立てて、夫のアブラハムにそのことを訴え、アブラハム自身も収拾がつかなくなり、サラの好きなようにさせます。そして、サラはハガルに辛く当たり、ハガルはその辛さから、彼らのもとから逃げ出します。彼女には行くあてがなかっただろうし、荒野が多いこの地域で、むやみに旅をすることは、死を意味します。死の危険を厭わずに、彼女は本当に辛く、悲しくて、その場から出ていったのでしょう。

そして、シェルの街道というところで、ハガルは神様の御使いと出会います。その時、御使いはまず彼女にこう言ったのです。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」彼女は言います。「女主人サラのもとから逃げているところです。」御使いは言います「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」またさらに、「わたしはあなたの子孫を数え切れないほど多く増やす。」そしてまた更に「身ごもっている男の子にイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。」と言われました。そして彼女は、御使いを通して語られた神様の御名を呼んで「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と告白し、再びアブラハム、サラのもとに帰って、イシュマエルを産みました。

ハガルは決して悲劇のヒロインとは言えないでしょう。彼女は男の子を身篭った喜びよりも、主人に仕えていくことの使命を忘れ、立場を顧みず、サラを見下しました。結果、よりどころを失って、逃亡していくのです。自業自得であるとも言える。けれど、主の御使いは「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」と最初に彼女にこう問うたのです。もちろんそれはサラのもとから逃げてきたという彼女の答えがそのままの状況を語っていますが、しかし、この御使いの問は、実に彼女の存在そのものにかけて問うている言葉であります。「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」そう、私自身は何を目指して歩んできたのか、これからどうすれば良いのか、彼女の「道」が失われていたのです。

主が彼女に示された道は、「サラの元に帰り、仕えなさい」という言葉だけではありません。子孫を増やし、身籠っている男の子の名前を与えたことでした。子供の名前をつけるのは一家の主人、この場合はアブラハムです。しかし、その名付け親は神様です。子供は神様から与えられる祝福の御業であるということです。命の源である神様こそが、子供の命の主なのです。ここに真実の喜びがあるのです。彼女はこの真理をも見失っていました。

しかし、彼女は神様に「わたしを顧みてくださる神」であると告白しました。すなわち慰めてくださる方であると告白するのです。ハガルは身にかかった全ての不幸が取り除かれて、幸せになったというのではなく、真に自分を顧み、慰め、共にいてくださる方と出会ったのです。御使いとの出会い、すなわち神様との出会いは、真の道が開けた、顕にされたという出来事。真の自分を回復したのであります。それは神様が唯一の道である真理であり、命だからです。

神様は、御子主イエスをこの世に遣わされて、主イエスを通してご自分を顕されました。それは独り子を送るほどに私たちを愛し、顧みてくださるからです。どこから来て、どこへいくのか。そのようにして、人生という道に私たちはしばし悩みます。辛く苦しいことが直、私たちを迷わせ、己の存在を見失うことがあります。私が私として歩む、それは全ての不幸が取り除かれることでしょうか。苦しくても悲しくても、それでも私として歩むということが許されている、歩むことができる。それは主イエスこそ、唯一の真理と命の道として、あなたの道になってくださるからです。ヘブライ書10章20節にこういう言葉があります。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」

主イエスは新しい生きた道を私たちに開かれるために十字架に掛かられるのです。それは死の勝利ではないか、敗北ではないかと思えます。事実この世における私たちの道、その最終地点は死であります。されど、この告別説教の結びには何が書かれているか、16章33節にこう記されています。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。私は道であると語られるキリストは命、死を克服した命の道であります。この道を私の真ん中に据え、主イエスが開かれた命の道、復活の道に歩んでまいりましょう。どこから来て、どこへいくのか、そんな私の道は、このキリストの復活の命から来て、キリストと共に天の住まい、すなわち御国に向けて歩んでいくのであります。「わたしは道であり、真理であり、命である。」アーメン。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。