ヨハネによる福音書10章1〜16節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
第16回教団総会が5月5日から6日の2日間にかけて開催されました。3年後に宗教改革500周年を迎えます。私たちは、私たちの教会は常に御言葉に立ち返り、ただ主の憐れみによってのみ生かされ、立たされているという主の恩恵を再確認し、福音の豊かさを証していくということ、そのようなルターを初め、宗教改革の精神を改めて分かち合う、そのような総会のひと時であったかと思います。今後3年間の宣教主題に、次のルターの言葉が引用されました。「我ここに立つ。主よ、憐れみたまえ」。正確には「わたしはほかになしえない。わたしはここに立っている。神よ、わたしを助けたまえ。アーメン。」
1517年10月31日に、ヴィッテンベルグの城教会に張り出された95箇条の提題は、瞬く間にヨーロッパ中に広まっていき、波紋を広げました。贖宥状への痛烈な批判をはじめ、ルターの行為は当時のカトリック教会の教会体制、及び神学を根本から揺さぶる驚異となりました。当然このルターの動きに関して、カトリック教会とその周辺の神学者は黙って見過ごすわけにはいかないのです。4年後の1521年にルターはヴォルムスの国会に召喚されます。そこで自身の神学、著作を撤回するように迫られます。ルターは孤立無援の中にあって、社会的地位、権利を全て奪われる破門の危機に立たされました。その時に、この国会で、論敵たちを前にして言った言葉が、「我ここに立つ」という有名な言葉です。
その直前に彼はこういうことも言っています。「もしわたしが聖書の証明によって、あるいは明白な理由によって反駁されるのでないなら、わたしは取り消すことができません。わたしは自分が引用した聖書の論証によって説き伏せられたのです。そして私の良心は神の言葉に縛られています。わたしは取り消すことができないし、またそうしようとも思いません。なぜなら、自分の良心に反して行動することは、危険であるし正しくもないからです。」神の言葉に自尊の良心は縛られている。自身の主義主張、信念、思想などは全く皆無である。ただキリストのみ声を聞くことだけに従事し、そこにしか真理がないと語るルターの姿が垣間見えます。そして、この危機的な状況において、宗教改革者ルターを生かすのも、立たせることも、もはや自分の良心によるものではない。このキリストの御言葉、御言葉を通じて示されている神様の憐れみによる以外にないのです。
教会はこの御言葉を、キリストの声を響かせ続けていく場であり、むしろ教会そのものがキリストのみ体でありますから、このみ体に結ばれる私たち一人一人が、主の御言葉に立ち返り、生かされ、立たされていくのです。悔い改めるのであります。
「私は良い羊飼いである。」今日の福音書で主イエスはご自身のことをこう言われます。もっと具体的に言えば「私こそが良い羊飼いである」と言う言葉です。この良い羊飼いは、羊のために命を捨てるのです。
当時のパレスチナの日常生活、一般的な職業として羊飼いは定着していました。羊は臆病で、自衛力がなく、迷いやすく、打たれ弱い動物と言われています。羊は羊飼いに導かれ、養われないと生きてはいけないのです。昼間は広大な草原地帯の中を、羊飼いに導かれて、群れを成して移動します。この時羊飼いは、1匹1匹の羊に名前をつけて、その名前を呼んで、連れ出していたそうです。羊は羊飼いの声を知り、その声の後についていくのです。夜になると、羊たちは「羊の囲い」とありますように、周りを柵で囲んだ牧草地で眠ります。その柵には門があります。門番がいますが、羊飼いは羊を狙う、盗人、強盗に備えて夜も警戒を怠りません。盗人、強盗は柵を乗り超えて来ますが、羊は羊飼いの声を知っているので、知らない声にはついていかず、逃げるのです。
主イエスはこの話を、ファリサイ派の人々に話しました。しかし、彼らは主イエスの話がわからなかったと言います。主イエスが話された羊飼いと羊の情景は、彼らにとって容易に想像することができたでしょう。彼らは、それが自分たちと何の関係があるのか、わからなかったのです。
すぐ前の9章に、盲目の人が癒されたお話があります。主イエスによって癒されたこの盲目の人は、ただ周りが見えるようになったということだけを言ってはいません。彼は、癒された目、その眼差しを通して、「主イエス」を見たのです。あのお方が私の主であると。神のもとから来られた救い主であると、皆の前で公言するのです。そして彼は、主イエスに敵意をもっていたファリサイ派の人々によって、ユダヤの共同体から外に追い出されてしまうのです。ユダヤの社会から抹殺されることを意味します。彼らファリサイ派の人々にとっては、一人の罪人を自分たちの共同体、社会から追放したということでしょう。ユダヤの共同体ですから、神の民からの追放であります。
されど、追放された後、この盲目を癒された人は主イエスと再び出会い「主よ、信じます」と主に告白するのです。それはキリストと共に生きるということ、従っていくということである信仰の告白なのです。彼は真に自分を導く方を知ることができた。生まれつき目が見えないという事実を、罪との因果関係の中で結ばれ、苦しめられてきた自身の思いを受け止めてくださったのは、ファリサイ派の人々ではなく、主イエスというお方であると。神の御業は人間の思いを超えて、救いを、命を与えるということだと。
主イエスのたとえ話は、この出来事を背景にして語られました。盲目を癒された人は主イエスについていきます。主イエスを知ったからです。たとえ話に出てくる羊のように、キリストの声を知った者なのです。
主イエスは7節からこう言われます。「イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」主イエスは羊たちが通る門は、自分自身であると言われます。この門を出入りする羊は、豊かな牧草を見つけることができる、だから、他のどんな出入り口でもないこのキリストの門を、キリストを通る者は、キリストの囲いの中でそのみ腕の中で養われる、豊かに命を受けることができるということです。
対して、ここにも盗人が登場します。盗人は、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする、命を奪うものにほかならないというのです。彼らは盗人ですから、自分たちこそが養われ、救われることだけを考え、羊のことなど考えないのです。しかし、羊たちは「彼らの言うことを聞かなかった」のです。羊たちが彼らの滅びの声を聞き取ったから、彼らの言うことを聞かなかったとは言えないでしょう。ただ、彼らよりも前に、自分たちに呼びかける声があったということです。羊飼いの声であり、それこそ、命の声、養いの声です。その羊飼いの声を知っているという、羊飼いと羊の関係が、信頼関係がここにあるのです。
私たちはこの世にどれだけの美声が蔓延り、そこにどれだけの偽りが隠されていることを知ることができるのでしょうか。どれだけ、それらの美声に信頼して裏切られてきたのでしょうか。傷つき、痛めつけられ、悲しみ、苦しみ喘いできたことか。果てには命を奪われてきたことでしょうか。それ故に私たちは、真に自分を生かし、養ってくれる命の声を求めて彷徨ってはいないでしょうか。
5千人の給食の物語で、主イエスは自分の下に集まってきた群衆を見て「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」姿を見ました。飼い主のいない羊は生きてはいけません。飼い主のいない羊は、羊飼いを見失い、羊飼いの声が聞こえないのです。主イエスはこの群衆を見て、群衆に深い憐れみを向けました。群集たちの苦しみ、悲しみをご自身に担われるのです。彼らに心を向けて、命の眼差しを向けます。だから主イエスは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言われるのです。そのために主イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)のです。それはどういうことでしょうか。
12節から狼の存在が言われています。羊が狼に襲われたらひとたまりもありません。狼は羊にとって「死」そのものを意味します。それは容赦なく、突然やってきます。だれが狼から、「死」から守ってくれるのか、防いでくれるのか。雇い人は逃げてしまう。責任を逃れるため、自分の命を守るためでもありますが、結局この狼、「死」の力を前にして、どうにもならないのです。良き羊飼いは、逃げるのではなく、羊のために命を落とします。それは、この迫り来る狼、死の力に向き合い、羊を守るために、自分が命を落とすのです。良き羊飼いは、羊のことを心にかけているからです。それは、迫り来る狼という死の脅威にさらされても、この良き羊飼いは、羊を孤独にはさせないということ、共にいてくれるということです。死の雄叫びが響く只中にあって、命の声をもって、自分のことを呼んでくれるのです。命懸けで呼び続けてくださるこの良き羊飼いの声は、狼という死の現実の中において、死を打ち破る真の命の声であります。羊はこの声を、ただこの声を聞くのです。信頼に満ちた声を。
この世の様々な声に翻弄され、飼い主のいない羊のように弱り果てる群衆である私たちは、たとえ物資が豊かにあろうとも、魂の危機を感じることが幾度となくあります。良き羊飼いは、キリストは、私たちを憐れまれる。命を捨てる思いで、私たちを見捨てはしないのです。そのような声が今も響いているのです。
教会は、この良き羊飼いの命の声を、キリストの声を、響かせ続けていくのです。この声に導かれて、豊かな牧草という糧に恵まれるように、御言葉によって養われ、命を与えられるように。この御言葉が私たちの命を奮い立たせるのです。
「わたしはほかになしえない。わたしはここに立っている。神よ、わたしを助けたまえ。アーメン。」
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。