2013年2月24日 四旬節第2主日 「受難の予告」

ルカによる福音書18章31〜43節
高野 公雄 牧師

イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

ルカによる福音書18章31~43節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

《イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」》

イエスさま一行の旅も終わりに近づき、ユダヤ南部にある死海に近いエリコの町まで来ました。エルサレムまであと少しです。そこでイエスさまは弟子たちに、ご自分の受難を予告します。

予告に表われる「人の子」という言葉は、旧約聖書の言葉でベン・アダーム、つまりアダムの息子であり、一般に「人間」の意味で使われます。しかし、次第にメシアの呼称として使われるようになり、新約聖書ではもっぱらイエスさまのメシアである自分を指す言葉となりました。イエスさまは、まずメシアについての旧約の預言はみな自分において成就すると宣言します。メシアの受難は聖書に預言されていることであり、それが神のみ心なのだ言っているのです。

受難を描く言葉の中で、「乱暴な仕打ちを受け」という言葉ヒュブリゾーは、口語訳聖書では「はずかしめを受け」と訳されましたが、マルコにもマタイにもない、ルカに特有の言葉です。これは「ヒュブリス傲慢、思い上がり」という言葉を動詞化したもので「他者に対して傲慢に振る舞う」ことを意味しています。

このヒュブリスはイソップの「戦争と傲慢」という話に出てきます。ヒュブリス Hybris は外面は華やかな美女ですが、内面は性悪な傲慢の女神です。その夫が戦争の神ポレモス Polemos です。ポレモスはヒュブリスを愛して、彼女が人間界を巡りゆくのを、ポレモスはどこまでも後から付いて歩きます。「ヒュブリス(傲慢の女神)が、民に笑みを振りまきながら、諸国民、諸都市を訪れることのないように。その後から必ずポレモス(戦争の神)がついてくるのだから」(『イソップ寓話集』中務哲郎訳、岩波文庫)。傲慢の後には戦争がやってくるから、傲慢に惑わされないように、という戒めの話です。

古代ギリシアの倫理思想では、ヒュブリスは人間にとって最も避けなければならない悪徳の女神です。彼女に魅入られて自分の力を過信した人間は、他者への思いやりを失い、横暴な振る舞いで周囲を傷つけ、争いを引き起こします。時には正義の女神ディケーに仕える人の心にすらいつの間にか過信やおごりを宿らせ、不正へと導きます。また、みずからの力を過信して,ときには神々に対してさえ思い上がった言動を示します。それがヒュブリスで、こうした人間の分をわきまえぬおごりやたかぶりは、かならずや天罰を招き、人を破滅させると考えられました。

聖書が語るところによっても、人間の罪の本質はこの「傲慢」です。イエスさまは人間のさまざまな罪のほかに傲慢の罪にも苦しめられて死に至ったというのではなく、むしろ人間のさまざまな罪の根源がこの「傲慢」なのです。神によって造られ、生かされている人間が、神に従うのではなく、自分が神の立場に立ち、自分の思い通りに生きようとする、それが罪なのです。その傲慢のゆえに、私たちは神を愛することも、隣人を愛することもできずにいます。私たちは神に対しても、隣人に対しても、もっと謙虚にならなくてはいけないのですが、人間の努力によってはそれはできません。私たちが傲慢の支配から救い出されて義とされることは、神の子であるイエスさまが、人間の傲慢の罪の犠牲となって苦しみを受け、死んでくださることによるのであり、神ご自身の御業によってのみ実現するのです。

予告の最後に、「人の子は三日目に復活する」とあります。私たちの傲慢はイエスさまを殺しまが、神はイエスさまを復活させてくださいました。人間の傲慢がもたらした死を、神の恵みが打ち破り、命への道を切り開きます。私たちは、この新しい命の道を通って神の救いにあずかることができるのです。神の救いは、イエスさまの死と復活によって実現します。イエスさまはいま、この神のみ心を成し遂げるためにエルサレムに上って行こうとしておられます。私たちはいま、イエスさまの十字架の死と復活への歩みを覚える四旬節の季節を歩んでいるのです。

《十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。》

この弟子たちの無理解は、この後、イエスさまを十字架に見捨てるまでに至ります。自分の世界から踏み出すことができず、十字架の主を信仰の目で見ることができないからです。それが私たちの罪の姿です。その罪の私たちをイエスさまは愛して、十字架の道を歩んでくださいます。それゆえに、私たちは、いま十字架を仰ぎ見、そこに私たちの救いをはっきり見るのです。

この福音を聞いても、そこで示された救いがどのようなものであるか、分からないと思います。神の恵みにより頼むこともまた、人間の理解力や努力によってはできません。復活したイエスさまの霊、聖霊の働きによって、私たちの心が開かれることによるのです。聖書の解き明かしを受け、聖餐にあずかるときに、聖霊の導きによって初めて分かることなのです。今は分からなくとも、イエスさまと共に歩む中でいつか分かってくると信じます。

《 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。》

エリコの町の門の外で物乞いをしている人がいました。マルコ10章には、この人はバルティマイと名が出ています。ルカ福音が「ある盲人」と記すのは、彼が「見えなくなっている人間」の象徴だからでしょう。イエスさまが十字架と復活の予告をした時、弟子たちはそれを理解することが出来なかったと記されていました。目の不自由なバルティマイは、その意味で、イエスさまを理解できない弟子たち、そして私たちの象徴でもあるのです。

ナザレのイエスが通っていると聞いて、彼は「ダビデの子よ」と呼びかけています。ダビデの子孫からイスラエルの繫栄を回復させてくれる王が生まれるという預言があります。人々はそれに期待して待っていました。彼はイエスさまこそ、約束されたメシアだ、世の救い主だという信仰を言い表していることになります。彼は人伝てにイエスさまの神の国の福音や病気の癒しなどを聞いて信じたのでしょう。そう信じた彼は、イエスさまとの出会いを求めて叫び続けます。「わたしを憐れんでください」。彼は苦悩と悲惨を自分ではどうすることもできません。イエスさまは立ち止まり、盲人をご自分のもとへお招きになります。その招きに応えてみ前に出ることが救いへの第一歩です。

《彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。》

イエスさまは彼に「何をしてほしいのか」と尋ねます。この問いかけは、私たちへの根本的な問いです。なぜなら、私たちは、自分を見失い、自分が本当に何を求めているかが分からなくなっているからです。「あなたは、本当に何を求めているのか。」それは、私たちへの根本的な深い問いかけなのです。

盲人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えます。そして、癒されます。それと同時に、イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と言います。イエスさまはご自分に対する信頼を彼の信仰と認め、彼の目を開いてくださったのです。ただし、私たちはこの言葉を、彼の立派な信仰の力によって神のみわざを引き出すことができたかのように考えてはなりません。この癒しは神の子イエスさまの力と憐れみによることです。

そして、彼は目が開いたことよりもイエスさまと出会ったことがもっと大切なことだと分かり、イエスさまに従います。それによって、本当の意味で目が見えるようになったのです。

私たちの罪のために十字架の苦しみと死への道を歩んでおられる救い主イエスさまの姿をはっきりと見えるように、また、イエスさまに従っていく歩みを導いてくださるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。