2014年4月13日 受難主日 「命の杯」

マタイによる福音書26章36〜46節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

受難主日を迎えました。主イエスの受難の出来事を覚えて、伝統的に教会では、この受難主日に、マタイによる福音書26章―27章という非常に長い主イエスの受難物語が礼拝の中で朗読されてきました。私たちは本日の受難主日からイースターまでの平日の一週間を聖週間として過ごしてまいります。聖週間、それは単に受難と十字架を覚えるということではなく、主イエスの受難と十字架が、私のため、私のために担ってくださった主イエスのお姿を仰ぎ見る期間です。ですから、教会によっては主イエスの受難に思いを向けて、断食や節制に励む人がいます。けれど、これは形の問題ではありません。中身の問題であります。心とか魂というより、「霊的に」、すなわち「霊性」のことではないかと思います。深い沈黙、祈りの中にあって、神様と対話する交わりの時、繋がる時です。喪に服するということではありません。私のための受難とは、十字架とは何か。改めて思いを深め、神様の御心を受け止める特別な時であります。ですから、断食や節制はそこから形となって表れてくるのであって、断食や節制をすることが目的ではないのです。

今年はこの教会で聖金曜日、主イエスの十字架、その死に思いを深く向ける礼拝、(これを受苦日礼拝とも呼びますが)、を守りますので、今日は主イエスの受難の一部分、ゲツセマネの祈りと言われる26章36節から46節から御言葉を聞いてまいりたいと思います。

ゲツセマネ、それは「油絞り」という意味です。オリーブ山の麓に、このゲツセマネの園があります。オリーブの木が多く生い茂る園で、人々がこの木からオリーブの油を絞り出していたことから、この名称がつけられたそうです。ルカ福音書では園ではなく、オリーブ山で主イエスは祈られていますが、(22:44)「汗が血の滴るように地面に落ちた」とありますように、この時主イエスは苦しみもだえていました。油が絞られる、それはあたかも「汗や血が絞られて、滴り落ちる」ほどの御苦しみ、ゲツセマネでの主イエスの心境をそのままに語っていると言えます。というのも、主イエスのお姿は、十字架の死を前にして悲しみ悶えていたからです。

悲しみ、苦しみ、深い嘆きを叫んでいる、狼狽している神の子の姿は私たち人間の姿と重なります。驚くばかりです。苦難や困難が先に待ち構えていると知れば、私たち人間は狼狽し、混乱し、不安に駆られるものです。主イエスのお姿は私たちの姿に他ならない、真の人の子です。人間なのです。

既に、主イエスは弟子たちに、3回に渡って、ご自分の受難と十字架、復活の出来事を予告しているのです。ご自分が必ず辿る道です。その道筋、生涯の歩みをご自身がわきまえているのです。それが神の子としてこの世に遣わされた、神様の御心だからです。神様の御意志とも言っていい。どのような御心、ご意志かというと、ヨハネによる福音書3章16節にこう書いてあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」この神の愛、世を惜しむ愛は、私たち一人一人への愛です。その神の愛がイエスキリストであり、その主イエスは神の愛を全うするために、十字架にかかって死なれる、私たちの罪の赦しのための十字架の死です。そしてここには永遠の命ということも語られています。永遠の命、それは復活の命として、ご自身が十字架の死から復活するということが示されているのです。

だからといって、主イエスが十字架の死を恐れないでいたであろうか。やはり恐れていたのです。十字架は神様の裁きの象徴そのものだからです。それが恐ろしくないと言ったら、主イエスは真に罪を軽んじていたということになります。罪故の神様の裁き、その出来事を前にして、恐れないでいられようか。狼狽せずにいられるものか。できれば避けたい、逃げたいと思う。ご自身が受ける杯、つまり受難と十字架の死から免れたいと思う。目の前の困難、苦難が見えているならば、それを避けて通りたいものです。

主イエスのこの姿、神の子というよりも、人間の姿。狼狽し、恐れ、不安に駆られているこの様子から、私たちは何を聞くのでしょうか。主イエスも私たちの気持ちをわかってくれる人、共感してくれる人だ。そういうことでしょうか。むしろそれ以上に、この主イエスのお姿は私たちに伝えているものがあります。それがやはり「罪」です。罪人の姿です。主イエスは神の子だから、罪などないと思われるかもしれません。確かに罪はないでしょう。しかし、主イエスもまた洗礼を受けられたのです。この世に降誕され、罪の只中に入ってこられた方なのです。罪の現実に生きた神の子であります。神の子が罪故に神様から裁かられて死ぬのです。それは罪人の姿、人間の姿です。だからこそ恐れる、狼狽するのです。十字架が神様の御心であっても、その御心を楽観的に捉えてはいない。悲しみ悶えているそのお姿の中で、真剣に向き合っているのです。罪と向き合っているのです。だからこそ、過ぎ去らせてほしい、避けたいと願うのです。罪ゆえに、これから受ける杯を恐れるのです。

この時、近くにいた弟子たちは眠りこけていました。主イエスは40節で言います。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」何からの誘惑かと言いますと、やはりこれも罪です。罪を犯さないように、目を覚ましていなさい、祈っていなさい、神様と繋がっていなさいと言われるのです。あるいは、この主イエスの言葉は、罪の現実と向き向き合いなさいと言っているようなものです。ところが、弟子たちは結局最後には全員寝てしまうのです。だれ一人起きている人はいなかった。主イエスと共に祈ることはできなかったのです。

このゲツセマネの祈りの前で、それは26章35節ですが、ペトロ初め、弟子たちは主イエスにこう言ったのです。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちは皆、同じように言った。弟子たちの思いは熱いものであったかと思います。他の誰かが裏切っても、私たちはあなたを裏切らない。どのような困難、苦難が待ち受けていようとも、あなたと最後まで共にいます。十字架の死まで従っていく覚悟です。弟子たちも真剣だった、けれど彼らは眠ってしまう、意識が薄れて、主イエスの姿が見えなくなる、十字架に向かう主を見失うのです。主イエスは41節で「肉体は弱い」と言われました。この肉体はパウロの言葉で言う「人間」のことです。そのすぐ前に言われた「心は燃えても」の「心」は霊という意味です。神の霊は燃えても、人間は弱いのです。

この弱き人間の肉体を伴った神の子、主イエスは真の人として、受けるべき杯を前にして、狼狽しているのです。しかし、この主イエスのゲツセマネでの祈りは、その弱さ故に、諦め、絶望に向かっていくのではなく、終始「御心のままに」、「御心が行われますように」という言葉で結ばれているのです。それはあの主の祈り、「御心が天で行われるように、地上でも行われますように。」を私たちは思い起こし、この祈りを教えてくださったのが、何よりも主イエスご自身であったことを深く心に留めるものです。

私たちは確かに、目の前の困難、苦難が解決されるようにと祈ります。その声を聞かれるかたに祈るのです。だから、私たちの祈りを聞かれる方が、私たちの思いに立って下さり、御心を示されます。それが、祈りが適う、聞かれるということです。願いが適うということではないのです。思い通りにしてくださいと祈ったとしても、思い通りにはならない神様の奥深きご計画がある。あなたの思いへのご計画です。神の霊が導くご計画として、そのご計画は冷めないのです。ずっと燃えているのです。人間の願い、計画、約束は弱く、すぐ冷めてしまっても、神のご計画は霊の導きとなって、燃え続けているのです。そのご計画に委ねて、私たちは「アーメン」と応えるのです。

主イエスが受ける杯は、十字架の死となって顕れる苦き杯です。いわばこの杯が御心となるのです。神様のご計画がここにある。しかし、この杯こそが私たちへの「命の杯」となるのです。「最後の晩餐」において、主イエスは「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。もうご存知かと思いますが、この言葉は聖餐式における設定時の言葉です。罪人を救うために流される契約の血であります。私たちはこの杯から、葡萄酒、いわばキリストの血を頂き、救いの確信を得るのです。主イエスが私たちのために流された血、さらには十字架に掛かられたみ体をパンとして頂く聖餐の恵みです。主の御心は恵みとして、ここに示されているのです。そして、この主の聖餐において、主は真にそこにおられるということ、「現在」されておられるのです。あなたの罪の赦しのために流されたキリストの血をあなたは杯からいただくのです。あなたの罪の赦しのため、その言葉を通して「肉体は弱い」と言われた主の言葉を思い起こすかもしれません。しかし、その弱さ故に受ける杯を受けてくださったのは主イエス、神の子なのです。

肉体は弱い、人間は弱いと言われる主。この四旬節から受難主日、聖週間を過ごす私たちは、特にこの主の御言葉に思いを巡らします。主の受難と十字架を覚えるこの四旬節にあって、主がゲツセマネの園で狼狽し、恐れ、不安に駆られたように、現実を生きる私たちそのものの姿が主イエスを通して示されています。主の受難と十字架を覚えつつ、己の弱さ、惨めさ、小ささに打ちひしがれる。特にその思いを抱く季節ではないかと思います。弟子たちはこの後、主イエスを裏切り、逃げ去っていきます。これからの聖週間、この弟子たちの姿と自分の姿を重ねつつも、私たちは命の杯を与えてくださった主イエスと共に、目を覚まして祈っていきたい。御心が示されますようにと。そしてこの御心は、イースターに結ばれるのです。

人 知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。