ヨハネによる福音書11章17〜53節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
四旬節の第5主日を迎えました。来週は受難主日、そして聖週間、再来週にはいよいよイースターを迎えます。イースター、主イエスの復活が近づいてきたという感じが致しますが、未だ四旬節の只中にある私たちに与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書11章のラザロの復活物語であります。大変長い物語ではありますが、ラザロの死と復活を通して、四旬節を過ごす私たちに復活の命がここで示されています。それはまず何よりも、25節で主イエスご自身が「私は命であり、復活である」と、ご自身の栄光を語っていることに強調されています。しかし、改めてこの四旬節を振り返ってみますと、私たちは主イエスの受難と十字架、復活の予告を既に聞いているのです。福音書の中で実に3度も聞いているのです。私たちはよく、その予告を「受難予告」と呼びます。弟子たちがこれら3度の予告を聞いて、動揺し、悲しみを覚えたように、私たちも主イエスの「受難と十字架」だけに思いが向いてしまう。イースターはまだ先なんだから、四旬節を過ごす今の時期は、主イエスの受難と十字架だけに思いを向けなくてはならない。それは確かに大切なことではありますが、今日の御言葉も含めて、この四旬節を歩むというのは、「受難と十字架」を覚えつつも、そこから先がないということではありません。復活を信じるという信仰のプロセスへと向けられているのです。私たちはイースターの日時を既に知っていますが、復活の命を信じる、命に与るということと、受難と十字架を覚えるということは結びついているのです。四旬節を過ごす大切な気づきではないかと思います。
主イエスの受難と十字架。それはこの世で苦しみ、悲しみ、痛みを背負い続け、最後は死に至るというプロセス。と言うのも、それはこの世という現実に生きる私たちの人生のプロセスに重なってくるものであります。主イエスが歩まれた受難と十字架の道をそのままに私たちは歩んでいるわけではありませんし、歩むことはできませんが、私たちは誰しもが苦しみ、悲しみ、痛みを負って生きています。その人生のゴールが「死」であると思うのです。死んだ後のことは確かにわかりません。だから「死以上」の先が見えない、どうしても死が人生の終着点であると考えてしまうのです。死ぬために生きているとまでは言わなくても、やはり何か私たちの人生を覆っているもの、死の支配という覆いがある。その覆いの中で生きている限られた命があります。今私たちが生きて与えられている命ですが、主イエスは、この限られた命の覆い、死の支配という覆いを打ち破るために、この世に来られたのです。
「私は命であり、復活である」。永遠に肉体の命が尽きることがないと言っているわけではありません。復活であると言われるからには、死ぬのであります。主イエスは人間として死を迎えるのです。死を迎えた先の復活の命を指しています。その福音を、死者を葬る者たちに語っているのが今日の福音です。
今日の福音書、冒頭の17節にはラザロの死が描かれています。墓に葬られて4日が過ぎたという言い方は、完全な肉体の死を意味します。ラザロの兄弟、マルタとマリアの姉妹の家には、多くの弔問客が訪ねていました。しかし、この弔問客の中に、主イエスの姿はありません。主イエスが近くまできたという知らせを聞いたマルタは、主イエスの到着を待ちわびたかのように、急いで迎えにいったことでしょう。主イエスは既にラザロの状況を知っていたのです。
この数日前、3節で2人の姉妹は主イエスに使いを送り、ラザロの病気を伝えます。病気を治して欲しいという思いもあったでしょう、でもそれ以上に、姉妹の思いは「あなたの愛しておられる者が・・・」という言い回しから、主イエスが兄弟ラザロのことに特に目を留めて、憐れんでくださっているという思いが伝わってきます。私たちが愛しているというまでもなく、あなたが、主イエスあなたがラザロのことを愛している、ラザロと共にいてくださるあなたが、誰よりもラザロの苦しみを分かってくださっている。姉妹は主イエスに、兄弟ラザロのすべてを委ねるような思いで、ラザロを案じているのです。
5節で、主イエスが2人の姉妹とラザロを愛しておられたとありますが、ここでの愛するという言葉は、3節の愛するとは違う単語が使われています。この5節の愛するは「アガパオ」という言葉で、愛するという意味の他に、「~に心をおく」という意味があります。この3人に心をおく、すなわち御心を向けているという特別な主イエスのまなざしが向けられているのです。そのまなざしはこれから死にゆく者、死を見送る者に向けられた神の愛です。
けれど、その間にある4節で主イエスはこういうことを言うのです。「この病気は死で終わるものではない」。ようするに、ラザロはその病気で死ぬということをはっきりと言っているのです。もう助からないと言っているようなものです。だけど、死で終わらない、病気で死んで、それで終わりではないというのです。死の先があるということです。それが神の栄光が顕される、すなわち、神様の御業がはっきり示されると、こう言うのです。それが後に、マルタに語った言葉、「私は命であり、復活である」という言葉と結びついてくるのです。
主イエスはラザロの死が完全なものになってから、彼女たちのところに旅立ちます。既に使いを出して、主イエスに知らせていたのに、主イエスは来てくれなかった。マルタもマリアもだからこう言うのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」主イエスにどんな期待をしていた、望みをかけていたのかはわかりませんが、しかし、そのラザロの病の傍らにあなたがいてくれたら、大切な兄弟を失うことはなかった。愛するものを失うことはなかった。このような悲しみに暮れることはないという思い、誰しも抱く思いがそこにあったのかと思います。あなたはラザロを愛していたのではなかったのか、見捨ててしまったのですか、ラザロも、そして私たちも。姉妹の嘆きが深いことだけは真実です。
その姉妹、マルタには主イエスがこう言います。「あなたの兄弟は復活する」。主イエスがそのように言われる以前に、マルタは復活を信じていました。けれど、それは「終わりの日の復活」という、いつになるかわからない、果てしなく先の出来事、それが復活。それも具体的にどのよう出来事なのか、復活の本質を彼女は理解していなかったでしょう。彼女だけでなく、ユダヤ人の中でも、復活を信じている人はたくさんいましたが、それはやはり何か遠い先のこと、今、現実に示されている死の現実には変わりがない。葬られる者も葬る者も、その只中には死が支配している、死が覆っているという事実。永遠の別れには違いないということ。
主イエスは25~26節でマルタに言います。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」今、あなたの前にいる私が命だ、復活だ。あなたが信じている、遥か彼方の復活という出来事ではない。希望があるのかないのかわからない、そのような抽象的な命でもない。もう命は顕されているのだ。復活が起こるのだ。だから、わたし、主イエスを信じる者は、この世の肉体の死を迎えても、それで終わりではない。生者と死者の永遠の別れではないというのです。主イエスこそが命、復活の命であるということ。生者も死者も、この命に結ばれている。このわたし、主イエスを通して結ばれているのだというのです。
そして、主イエスを信じるものは、決して死なないということ。肉体的な死を迎えても、死を見送る者になっても、もはや私たちの只中には、死は支配していない。死ぬために生きるのではなく、死の現実を前にして、死の先にある命が、既に与えられている、約束されているということです。だから、命の主であるイエスを信じるものは・・・もうその復活の命が見えているのだということです。
主イエスはもうひとりの姉妹、マリアに出会います。マリアも同じことを言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(32節)無論、彼女も深い嘆きのなかにあり、周りにいたユダヤ人たちも共感しています。
この時、主イエスは憤りを覚え、涙を流したというのです。私たちの悲しみ、苦しみを無視しているわけではない。むしろ、主イエスは私たちの苦しみ、悲しみの只中に立たれている。涙せずにはいられようか。私たちへの憐れみがある。「憐れみ」、その元の言葉が「腸が痛む」という意味があるように、主の涙は、ご自分の苦しみ、ご自分の痛みとしての涙なのです。
けれど、主イエスの憤りと涙が語ることは、それだけではないのです。主イエスはその只中で、はっきりと、復活の命を顕されているのです。死の勢力と対峙しているのです。死(の勢力)に対して憤りを覚えて、死を打ち破ろうと、憤っているのです。また、死の勢力は、死がすべての終わり、生のむなしさに縛られているマリアやユダヤ人、そして私たちを縛り付けます。主イエスの憤りはそこにも向けられる。復活を信じられない者たちへの憤り。けれど、この主の憤りは、私たちへの裁きではないのです。ご自身に向けているのです。死と対峙しつつも、復活の本質を顕されるために、信じられない私たちのために、主は十字架への道を行かれるのです。ご自身の十字架を通して、死の世界へと入っていくのです。黄泉にまで下り、完全な死の世界にまで降り立たれる。そこからの復活の出来事、イースターを私たちはこれから迎えます。
主イエスは信じなさいと言われます。けれど、この信じるという信仰、これは委ねるということです。命を委ね、神様との交わりを意味します。何よりも、主が私たち一人一人を愛している、心において下さるのです。私たちが信じる以前に、主の愛はめぐみとして私たちに向けられています。
死が横行する世界に、主はこられた、すなわち、死がすべての終わりだと信じている私たちの只中に、主がおられるということです。復活の命がもう既に示されています。主イエスは命の主です。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。