2014年8月10日 聖霊降臨後第9主日 「両方とも育つままに」

マタイによる福音書13章24〜35節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

ふたつのたとえ話が日課として与えられていますが、本日は毒麦の譬え話(24~30節)から御言葉の取り次ぎをさせていただきます。

この毒麦の譬え話も、そんなに複雑なお話ではないかと思います。種を蒔く人は「良い種」だけを蒔いたのですが、人々が眠っている間に、敵が来て、毒麦をその畑に蒔いてしまったので、良い麦と一緒に、毒麦も実ってしまいました。主人の種蒔きを手伝っていた下僕たちはその光景を見て、がっかりしたことでしょう。良い種しか蒔かなかったはずなのに、どこから毒麦なんかが現れたのですかと、彼らは主人に報告します。主人は答えます。自分たち以外の敵の仕業であると。話を聞いた下僕たち当然それらの毒麦を抜かなくてはならないと考えるわけです。ところが、主人は驚くべきことを下僕たちに言うのです。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」主人は下僕たちに、毒麦を抜くなと言うのです。その際、良い麦も抜いてしまうかもしれないから、今は両方とも育つままにしなさいと。刈り入れの時になったら、毒麦は全て焼かれ、良い麦だけが実っている麦畑になるから、その時までそのままにしておきなさいと。

この譬え話はマタイによる福音書にしかない物語で、この譬え話の解説は、36節から43節に記されています。この解説は主イエス本人が語ったというより、後の時代のマタイの教会、マタイ福音書の記者が主イエスの意図を組んで、このように語られている、彼らなりに解釈しているのだと言われています。ここに出てくる下僕というのは弟子たちであり、またマタイ教会の信徒たちは彼らの姿を自分たちに重ねているのでしょう。厳しい迫害の最中にあって、教会の内部には、いつのまにか毒麦が現れたかのように、教会内にも(信仰)の混乱があった、そのような背景が語られているように思えます。迫害下の中にあって、自分たちは頑張って熱心に伝道しているのに、その結果は外にも内にも良いものばかりを生み出してはいない、有害な物も混じっているのだと。彼らは失望したかもしれません。しかし、毒麦を抜くなという主イエスの言葉に彼らはもちろん驚いたことでしょうが、それは驚きだけでなく、彼らに慰めをも与えたことでしょう。刈り入れの時、つまり最後には神様が正確に毒麦だけを抜いてくれる。神様が蒔いて下さるのは、良い種であって、決して毒麦ではないから。神様は良い種、良い物を確かに与えてくださるのだと。それは彼らの、また私たちの予想を超えて、神様ご自身の愛のご計画の中で起こっていることです。そこに毒麦の現実が同時に起こっているわけです。

マタイの教会に生きた人々のそのような苦しみと、葛藤、そして希望を抱き続けた姿が今の私たちに伝わってきます。毒麦と生きつつも、毒麦だけに目を奪われないで、神様が蒔いてくださった良い麦をこそしっかりと見つめ、良い麦畑をいずれはもたらしてくださる主に信頼して生きてきた彼らの姿であります。

けれど、聖書は、この譬え話を教会の中だけに留めることはしません。確かにマタイ教会の状況が背景にあるでしょう。ですが、解説の中では、この畑は世界であると、記しているのです。私たちの生きているこの世界全体です。ですから、この世界に良い麦と毒麦が共存しているということなのです。

さて、主人が言うように、無理に引き抜こうとすると、良い麦まで抜いてしまうかもしれないというこの毒麦ですが、麦とはパレスチナ地方では大切に栽培されていた小麦のことを指します。それで、毒麦はイネ科の植物で、菌が発生して毒を持っているのですが、どうもそれがこの小麦によく似ているそうなのです。そして、麦畑の中にある毒麦は、小麦と根が絡んでしまい、毒麦を抜こうとすれば、同時に良い麦も抜いてしまうかもしれないのです。主人が下僕たちの行動を制止したのは、こういう理由からです。

それでも、この下僕たちは心の内では毒麦を抜きたかったでしょう。非常に目のつく存在だったのかもしれません。先ほど、畑は世界を表していると聞きましたが、良い麦と毒麦が混合するこの世界にあって、私たちも下僕たちと同じように、毒麦だけを抜きたいと思うものです。抜かないと害を与えるものだと思うからです。世界全体で、毒麦を抜くために、すなわち悪の根を断つために、戦争が起こっている。テロや空爆が起こっています。そうやって、互いに毒麦を抜こうとしているのを私たちはニュースで聞いています。ニュースを通じて知る真実は、毒麦を抜こうと争っているところで、真に被害に遭っているのは、現地で暮らしている人々だということです。毒麦を抜こうとして、良い麦は無条件に引き抜かれ踏み潰されている。すなわち命が奪われています。そして、そこには「憎しみ」という新たな毒麦が生えます。

もっと身近な話にもっていきますと、畑はまた、私たち一人ひとりであるということです。私たちの人生の歩みの上に、神様は良い種を蒔き続けてくださっている一方で、私たちの中に毒麦が生えているということです。そして、自分よりも相手の毒麦はよく見えるものです。相手の欠点とか、弱点、問題点、または醜いものとか。そういうのはすぐ目に付く。だから抜き取りたいと思うわけです。挙句の果てにはいじめとか起こって、「あいつさえいなければ、平和がもたらされるのに」とそんな考えを抱く。でも、そんなことしたって、平和なんかもたらされないことも、私たちは知っているわけです。さっきの憎しみの話と重なりますけれど、そこに新たな毒麦が生えてしまうだけなのです。

しかし、私たちは相手の毒麦だけが気になってしまうわけではないでしょう。自分の毒麦だって気になるのです。自分自身の中にも自分の嫌なところで、悩み苦しむのは、誰しもが経験することかもしれません。誰しも毒麦なんかないほうがいい、抜き取りたいと考えます。こんな自分は嫌だと思って、変わりたいと願う。毒麦を抜いてスッキリしたいと思う。けれど、本当に毒麦だけなんて抜けるのか。本当に毒麦だけを正確に抜ける自信があるのか。抜き続けたら、私自身の中に何が残るのか、そして私という存在をどこに見出すのでしょうか。私の中の良い麦も同時に抜かれてしまっているのではないかと気づくわけです。それは他者に対しても同じことが言えます。

この世は毒を抜くこと、制することを教えます。それはもちろん害が与えられないようにするためです。毒から守るためだから、必要なことです。しかし、同時に良い麦を抜いてしまうと実感したとき、改めて思うことは、毒ってなんなのか、毒ってどこにあるのかということです。毒だと思っているものが、実は私たちを生かしているものではないのかとふと思うわけです。今、池袋のサンシャインで猛毒展というのがやっています。私はまだ行っていませんが、行きたいと思っています。ホームぺージの紹介だけを見ましたが、猛毒を持った生態系の紹介がされています。この猛毒をもった生態系が、全部いなくなればなんて私たちはまず思わないわけです。この猛毒は私たちから見たら、毒麦そのものにしか見えないけれど、彼ら生態系から見たら、良い麦です。むしろ、私たち人間のほうが毒麦ではないかと思えるほどです。そして、大自然の中では、彼らの存在が非常に重要だということです。彼らが絶滅してしまったら、私たちも絶滅するのかもしれません。生態系のバランスとはそういうことでしょう。

私たちが毒だと決めつけてしまう、その思いの中にこそ、毒麦は生えるのではないでしょうか。毒麦だと思えるものを「毒麦」と決めつけて、毒麦ばかりを見つめるからです。そこに過敏になる、もっと言えば毒麦に対して思い悩むからです。その思い悩みの中にも毒麦がある。主が蒔かれたのは良い種そのものです。毒麦ではないということ、毒麦ではなく、この良い種にこそ目を向けるということ、思いを向けるようにと、主は招かれているのです。主の御心は、私たちの心に良い種を蒔き、私たちを良い麦畑とされることなのです。良い実りを結ばせることなのです。毒麦に思い煩うのでもなく、思いを支配されることでもないのです。毒麦によって思い煩い、時には人を傷つけ、自分も傷つけ、憎しみが増し加わってところに、主は立たれておられるのです。今まさに十字架の途上におられる主の姿そのものです。

無論、主は毒麦を無視しているわけではない。確かに敵の仕業としか言いようがないのです。良い麦をも巻き込んでしまうものなのです。そこで主人が下僕たちに言ったのは、毒麦もそのままにしておけということでした。両方とも育つままにしておきなさいというのです。毒を抜くという教えではないのです。毒を抜くのは、主ご自身の働きだからです。畑の主が刈りいれをするのであって、下僕たちの仕事ではないのです。

それでも、主はすぐには抜きとろうとはなさらないのです。両方とも育つままに。主は毒を抜くことを教えず、共に生きる道を示されました。毒麦は確かに私たちの中にあります。この毒麦を私たちが取り除くことはできません。それは主のなさることです。けれど、この毒麦の現実の中でこそ、主の福音は私たちの心を打つのです。毒麦だらけにしか見えない私の畑の中にもちゃんと命があり、主の福音はその只中で命を輝かせるのです。善とか悪とかという二元論でしか評価できないこの世に対して、主が示された天の国は、その二元論に固執せず、その二元論を超えて、良い麦と毒麦の只中に生きる私たちに自由をもたらしてくださる。良い麦も毒麦も主は生かされるのです。

だから、毒麦に思い煩う必要はない。私たちが毒麦だと決め付けるものはないのです。私たちは主が蒔き続けてくださる、良い種にこそ希望を持つのです。毒麦もあるけれど、主が私たちにもたらすものは、良い麦なのです。善とか悪とか私たちが考える以前に、主は良い麦も毒麦も育てることにされました。神様は今すぐ毒麦を抜くのではなく、良い麦と毒麦が混在するこの世界で、御子イエスを通して、赦しと愛の世界を開かれました。両方とも育つままに。両方とも育つままでいい。その只中で私たちは生かされているのだから。私たちの善悪の判断以上に、尊い価値観の中で生かされているのだから。毒麦の只中で、良い麦畑は既にもたらされているのです

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。