2014年8月3日 聖霊降臨後第8主日 「愛の種蒔き」

マタイによる福音書13章1〜9節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

マタイによる福音書13章には、主イエスの天の国の譬え話が多く語られております。5章~7章までの山上の説教に次ぐ大きな主イエスの語録集がここに記されているのです。この天の国の説教を、山上ではなく、湖に浮かべた船の上で主イエスは群衆に語られました。多くの群衆が主イエスを求めて、主イエスのもとに集まってきたからです。もはやそこには腰掛ける場所すらなかったのでしょう。

この群衆の中には、ファリサイ派の人々もいたかもしれません。前の12章で、主イエスは彼らと安息日について議論し、その結果、彼らは主イエスへの殺意を抱き始めたのです。山上の説教とは状況が異なるのです。彼らの殺意が露わにされていく途上で、主イエスは群衆に語っているのです。それは主イエスの十字架への道が開かれたことを意味します。

主イエスの十字架への行進を背景として、4節から有名な種を蒔く人の譬え話をされました。種を蒔く人が種蒔きに出ていきました。ある種は道端に落ちて、鳥が食べてしまい、ある種は石地に落ちて枯れてしまい、ある種は茨の間に落ちて、茨が邪魔をし、その種は実ることがありませんでしたが、良い土地に落ちた種は実り、100倍、60倍、30倍にもなりました。さして、難しい内容の話ではないでしょう。そして、18節から23節には、譬えの説明が記されています。それによると、種とは神様の御言葉であり、土地とは人のことであるということがわかります。神様の御言葉に対する様々な反応をする人々の姿があると言えます。ある人は御言葉を受け入れますが、ある人は御言葉を拒否したり、飽きてしまったり、聞こえなくされてしまうのです。単純に、全体の4分の3の落ちた種は無駄になっているのです。

なぜ種を蒔く人は、無駄が多いと分かっているようなこのような大雑把な蒔き方をするのでしょうか。非常に効率が悪いし、無駄に労力がかかるだけだというのは分かりきっているのに。4分の3は無駄になっているのです。しかし、この譬え話を聞いていた群衆は、主イエスのこの譬え話に親しみを感じたことでしょう。というのも、当時のユダヤの農業では、実際に種を落としながら、種蒔く人が歩いて行ったそうです。また、ロバや馬などに、穴の空いた種袋を背負わせて歩かせ、穴から落ちた種が所々に蒔かれていきました。きれいに土地を耕し、肥やしてから種を蒔くのではなく、先に種を蒔くのです。その後に耕し、肥やしていくのです。農家の人にとっては、日常の風景そのものです。種が無駄になるなんてことは日常茶飯事。良い土地に落ちた実りの豊かさに期待を膨らませるのです。

神様の御言葉もそのようにして、方々に蒔かれている。方々を歩いて回る主イエスの宣教の働きに、この種蒔きの人の姿が重なります。無駄だと分かっている所、実りがないと思っているところにも万遍なく蒔いて行かれる。この世界全体に隙間なく蒔かれているということです。無論、今この御言葉を聞く私たちの心にも蒔かれているのであります。

御言葉の種を蒔かれている私たちはこう思うかもしれません。私は良い土地なのか、悪い土地なのか。悪い土地であれば、どのような土地か。ここに出てくる道端か、石地か、茨の間か。もし、いずれかの悪い土地であるならば、どのようにしたら自分は良い土地になり得るのか。御言葉の種を実らせることができるのか。そのために、自分自身の心を自分で耕し、御言葉の種を受ける肥えた土地にならなくてはいけないと思うかもしれませんが、本当にそんなことができるのでしょうか。

主イエスは23節で良い土地についてこう言っています。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であると」。この良い土地については、具体的にこうこう、こういう土地であるという説明がないのです。道端でもないし、石地でもないし、茨の間でもないけれど、ここが特別な良質の土に恵まれた土地ということも言っていないのです。御言葉を聞いて悟る人であるというのです。つまり、良い土地の状態うんぬんではなく、蒔かれた御言葉の種に対する反応が問われているということです。ですから、主旨はこの種であって、土地の状態ではないのです。御言葉を聞いて悟るものが良い土地であり、耕される良い土地なのです。自分自身の思い、心で良い土地となるということではないのです。

そこで他の3つの土地に注目すると、土地の状態と、この御言葉の種の成長を阻むものが描かれていますが、主イエスは具体的に「悪い土地」とは言っていないのです。良い土地に対しての、悪い土地、種が育たない、無駄になるという結果から、そのような土地であると受け止めてしまうのですが、良い土地ではないということです。種が育つ環境に適していない、だから成長する機会がないのです。

繰り返しますが、主は他の3つの土地を具体的に「悪い土地」であると言っているのではない、そのことを自分自身に置き換えて、私たちの土地が悪いとは言っていないのです。おまえはだめな奴だ、最初から実る価値のない奴だと言っているのではないのです。主は私たちの思い、心、その周りの状況にまなざしを向けておられるのです。主のまなざしとは飼い主のいない羊を憐れむ、憐れみのまなざしであります。御言葉を聞き、悟りなさい。確かに主はこのようにして群衆に、そして私たちを招いているのです。ここに天の国があるから、そこに留まりなさい。そう御心を宣べ伝えています。その招きに与っている私たちの思いは様々です。ある者は道端に、ある者は石地に、ある者は茨の間に「私が」います。むしろ、全部の土地に私がいるのかもしれません。私自身が今いる土地、その土地を決定づける要因は人それぞれです。私たちは様々な土地にいるのです。御言葉を純粋に受け入れたいと思っても、何よりもこの私という土地の意思が働くのです。どうすれば、主の招きを受け入れることができるのでしょうか。

土地のことを長らく述べてきましたが、この譬え話で一番注目したいのは、土地ではなく、種を蒔く人です。冒頭で言いましたが、なぜ種を蒔く人はこのような蒔きかたをしたのか、なぜなのかということです。群衆は自分たちの経験から、そのような種蒔きのあり方を熟知しています。無駄が多い、よけいな労力をかけることだって知っています。それほどまでに、種を蒔く農作業は重労働であると。

種を蒔く人は成功や失敗なんて全然気にしていないのかもしれません。また、土地の状態を十分に熟知していると思います。その土地に蒔かれたら、どんな結果になるかということも知っているのかもしれません。しかし、この種蒔く人は見境なく、欠かさず蒔き続けるのです。はっきり言って効率が悪いとしか言いようがないくらいに。この種は御言葉です。また神様の思い、ご計画、福音、命、そして愛という種です。種蒔きという神様が、この被造物全体に愛をばらまいている。あなたはどのような思い(土地の状況)でこの愛を受け取りましたか。人と対立しているところなら、和解の種として。親しい人を亡くし、悲しみのあるところなら、慰めの種として。戦地に蒔かれたとすれば、それは平和の種として、それぞれの愛の形であなたに蒔き散らされているでしょう。

様々な愛の種が蒔かれている一方で、多くの種がもみくちゃにされています。戦地に蒔かれた種など、兵隊や戦車の行進で常に潰されているでしょう。平和の種が芽生えることの困難さ、それほどまでに複雑で根深い憎しみ。一時停戦して、種の芽が出ることだってあるかもしれない。でもすぐにまた戦争が再開して、その芽は踏み潰され、育つことがない。解決に向けた和平交渉も、国同士の思惑があって、なかなか思うように平和の芽が出てこない。しかし、戦地の人々は祈っています。平和を願って祈っています。世界中の人々が祈っています。平和の種は蒔かれ続けていると。そして、平和の芽を出すようにと、行動する人たちはいるのです。

何よりも、8月は私たちの国にとって、特別な月日であります。終戦を迎えて69年が経とうとしております。本当に多くの人命、家、田畑が失われました。希望を失いました。何を信じればよいのか、明るい未来など全く想像できない状況にありました。終戦から3年後の1948年9月14日、W. J. Danker 師が宣教師として来日し、知り合った麻布の大津宅(大津円子)で聖書研究会発足しました。NRKの宣教開始記念日は9月19日です。この66年という宣教の歩み、御言葉の恵みから起こった実りの豊かさをここで語り尽くすことはできません。この歴史を歩んでこられた皆さんお一人お一人の中で、この豊かさを体現されているのでしょう。この六本木ルーテル教会にも御言葉の種が蒔かれ、信仰の先輩方が御言葉の内にある愛に生かされ、この土地を耕してきてくださり、今私たちもこの土地を耕すために、御言葉の種を蒔かせていただいています。主が良い土地とならしめるために、私たちを用いられます。

最近次世代という言葉をよく聞きますが、次世代の福音という種も確かに蒔かれています。次世代に向けた宣教の課題は困難です。でも、何よりも私たちがまず御言葉を聞いて悟るのです。様々な形で、様々な状況で、いろんな人に蒔かれている。主は御言葉を聞き、悟った土地の実り豊かさを示されました。それは主の招きの中にあるあなたという存在の豊かさです。その恵みを次世代に伝えていく、主の名をまだ知らない次世代へと。次世代への種蒔きをする私たちは、失敗を恐れることはないのです。耕して、実らせるのは主ご自身です。自分自身が実ったのもそうです。この豊かさの確信のうちに、私たちの働きがあります。種蒔きとしての働きであり、それはまた石を取り除き、茨を断ち切るということにも用いられるでしょう。結果はすぐにでないかもしれない、思い通りにいかないかもしれない。相変わらず期待を抱いた種は踏み潰されたばかりかもしれない。けれど、主は私たちの予想を超えて、そのご計画を、それが土地を耕すという出来事に示されて、大いなる実りという驚き、恵みをもたらします。私たちは悪い土地ではない、主が愛される土地であり、種蒔かれる土地であります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。