2001年1月21日 顕現節第3主日 「わたしたちも、ナザレの人々のように思い違いをすることがないでしょうか?」

第1日課   エレミヤ書1:4-8

主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、主はわたしに言われた。「若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。

第2日課     コリント人への第1の手紙12:1-11

兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じです。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって、知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって、病気を癒す力、ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

福音書   ルカによる福音書4:16-32

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に3年6ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いて会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には、人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

説教 「わたしたちも、ナザレの人々のように思い違いをすることがないでしょうか?」

ルカによる福音書の4章16節から32節のお言葉でございます。

今日、皆さんはイエス様が故郷に帰られて最初の説教をなさったことの記事を学ぶことになっております。

与えられた聖句は、イザヤ書の61章の1節と2節のお言葉でございます。その言葉をよく見ますと、イエス様を指しているように解釈が出来ます。神様が多くの人々のことを心配して、例えば貧しい人、そして、その人たちのために救い主に油を注がれたのです。油を注がれるということは、任命することです。イエス様について、「わたしを使わされたのは、捕らわれている人に開放を、眼の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、」イザヤのこの言葉はわたしたちにとっては、ちょっと想像しなければ理解できないようなことですが、「眼の見えない人に視力の回復を告げ」はわたしたちもそうですが、罪のためにわたしたちは今の状態、この世にいる状態では十分にものを理解出来ないのです。何が正しいか、また、何が真理であるかがよく見えないのです。神様が、聖霊がわたしたちを助けなければそれは分からないのです。パウロがこう説明しております。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。」(ローマ10:17)なお、ヨハネがイエス様の仰ったことを引用して、「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネ20:29)との言葉をわたしたちは思い出します。

わたしたちは、いろいろ見たり、聞いたり、殊に最近の科学の発展、技術の発展、また、昔のことも掘り起こして勉強しているので、いろんな事を知っているつもりですが、本当にわたしたちは分かっているのでしょうか。このイザヤの言葉の『捕らわれている人に解放を』とは、昔の捕虜はひどく侮辱され、いじめられて、身体的にもかなり傷を負わされていたのです。そのように、無理やりに考えさせられたり、押し付けられている状態のことをいっている言葉でございませんでしょうか。わたしたちもそこまでではないですが、自分の思った通りにならない。わたしたちはもっと人が親切であったら良いなと思ったりするときもあるでしょう。或いは、わたしたちのすることもあんまり誉められるようなことではございません。やはり、罪人であること。そして、わたしたちに一番難しいことは、神様がわたしたちをどう思っていらっしゃるかということを学ぶ時、本当に殴られたような痛い思いをします。罪人であると。犯罪人であると。勿論、神様の法律を犯した者という意味でしょう。それで、わたしたちは罪に捕らわれている人で、救い主がわたしたちをそこから解放してくださるということです。

「圧迫されている人を自由にし。」という言葉は、わたしたちはいろんな苦労をして、場合によれば、身体的の病気で体が弱っていく、そればかりではなく、わたしたちの心もかなり疲れて弱っているところを意味して、そこからわたしたちが自由にされたということはイエスさまご自身が私たちの身代わりをなさって、十字架の上でわたしたちの罪を全部負われてそれを全部受けてくださったということが、聖書の教えです。神様がわたしたちにこれをしてもらいたいということです。昔の人たちは、旧約時代の信徒の人たちは、7年ごとに恵みの時があって、その時が7回続いて、49回の後の年には恵みの年、ヨベルという年があったのです。その時は、自分の手放した財産の権利が全部戻されたり、奴隷も解放されるのです。

50年目の年はそのように聖別されて、その一年は休息の年であるのです。人々はいつもの難しい仕事を休んで、ある物でその一年を過ごすのです。そのように、完全にその時の苦労から解放されると言うことを経験したのです。歴史をよく見ると、あんまりこれを守ることは出来なかったようです。ルールとしては聖書にあるのですが、実際には人間はそれを実行は出来なかったようです。そのようにイエス様が、神様がわたしたちの生活までも心配してくださって、わたしたちに安息の年を神様が工夫をしてくださっておられるのに、わたしたち人間はそれを上手に守れなかったように見えます。聖書を読むとそれが書かれています。レビの書物の中にモーゼが書いております。そこで、このような素晴らしい話をイエス様がナザレの人たちに話されて、彼らも感動していたようです。そして聖書にある救い主は何時来られるのでしょうかと考えていたところ、イエス様ご自身が「今日あなた方が耳にした時に実現した」、わたしがその救い主であるとはっきりと彼らに言われたのです。それを聞いて、皆喜んでいたようですが、ある人は「この人は村の大工さんの子供ではないか」と思っていたので、イエス様は彼らの考えていることを察しられて、「あなたがたは医者よ、自分自身を治せと言う諺で、郷里のここでもしてくれという。」と話されたのです。これを現代的に言うならば、それほど素晴らしいことをなさったのですが、わたしたちはうわさを聞いております。それでその素晴らしいことを実演してください。ここでそれをやってくれということです。結局、見世物にしたかったのでしょう。わたしたちの町からこんなに素晴らしい人が出て、病気を治したり、奇跡を行なったりしたということを自慢したかったのでしょう。イエス様はそれを断ったのです。さらに聖書を引用して、エリヤを助けたのはその国の人ではなく隣国のシドンのサレプタのやもめでした。また、その後に、エリシャの時代で、らい病が流行ったときに神様が癒した人は外人であったと、二つとも、イスラエルの人ではなく故郷の人ではなく他の国の人だったとイエス様は仰ったので、町の人たちは興奮してイエス様を崖から突き落とそうとしたのですが、イエス様はそこから逃れられたのです。

この例を見せられてわたしちもちょっと考えるところがあると思います。わたしたちの町、わたしたちの国、わたしたちの周りの人たちに良いことがあることは悪くないことですが、でもわたしたちだけののものとして考える欲望は、少しわたしたちにもあると思います。私もそうね。子供の頃の話で、例えば、昔は韓国の人たちを、朝鮮と言って、いい人ではないと言われたその一言葉が私の心に残って今でもちょっとそう感じることがあります。このように人間が差別をすることは自分が偉い、自分が一番よろしいとそう考えたいからです。自分を他の人と比較して、弱い人がいたら、自分の方が上だと思っていたいのです。本当はわたしたちは神様に愛された罪人ですから、もっと理解あるはずでしょう。わたしたちも本当は、神様のみ前でしたら困った者です。全然なっていないものです。罪人という恐ろしい言葉を聞かされているのです。もう何度も聞かされて欠点だらけだと自分で認めているのですが、それほどは悪いとは思っていない。みんな同じと思っています。みんな同じです。皆このままでしたら地獄へ行くほかはないのです。でも、神様がわたしたちを心配して、御独り子をこの世に送って、わたしたちの身代わりをさせたのです。そして、わたしたちは今十字架を飾っていますが、そのように主イエスさまはわたしたちが受けるべき刑罰を全部御自分で受けられて、完全な方が悪い者の代わりになってくださったのです。丁度、大昔アダムとエバが、最初の人々が罪を犯したからその後の人は皆罪の結果で、その報酬を受けているのです。ですからわたしたちは誰一人も完全な人はいません。そう思ってもいません。人間は欠点だらけな者です。弱みが結構あるのです。精神的だけではなく、身体的にも弱い。いずれは死ぬでしょう。寿命はどのくらいあるかは誰も断言できないのです。そう90歳以上、最近は100歳を越す人もいます。珍しくもないのです。人間は今それだけ長生きになったと誇ることができるでしょうが、でも僅か100年、神様の時間から考えれば、ほんの僅かな時です。歴史を見ても今年は2001年ですが、それを全部通してきた人は一人もいないのです。その僅かな一部分の100年を生きていた人もいるでしょう。でもわたしたちは本当は弱い者です。わたしたちは自分で生きること、永遠に生きる力は持っておりません。病気を治すそうとしてしばらくは、生きようとしますが、でも何時までも生きることはないのです。そこで神様が、わたしたちのことを心配してくださって、わたしたちに永遠の命を与えてくださるのです。それは誰かがわたしたちの悪いところを全部補って、それを治して、新しい者にしてくださることがなければ、そこまでも考えることが出来ないのです。でも、神様がそうしてくださったのですから、わたしたちはあんまり良い者ではないのですが、丁度ナザレの町の人たちと同じように、自分が気に入らないことには反対して、あの人をなくそうというようなことを考えるのです。

聖書によりますと、イエス様はナザレを離れてそんなに遠くないところのカファルナウムというところへいらしてそこで仕事を続けられて多くの人に喜ばれたとあります。人々はイエス様の言葉の権威あるのに驚いています。そこまでわたしたちはイエス様のことを思っているのでしょうか。わたしたちはイエス様の有難さを真剣に考えたいことでございます。殊に今日は聖餐式に与るのです。イエス様を頂くという大切な、イエス様ご自身が工夫をしてくださった礼典です。それに与って、神様が、イエス様がわたしたちの中にいらっしゃると言うことも覚えるように工夫してくださって、わたしたち一人一人を強めようとしておられるのです。わたしたち一人一人にとっても大事なことでございます。それでわたしたちは今日も礼拝をして、み言葉を聞き礼典に与ることです。それをして頂いて、今日の良い日を喜んでおりましょう。