2001年1月28日 顕現節第4主日 「神様にとって、わたしたち一人一人は大切な者です」

第1日課   エレミヤ書1:9-12

主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、或いは建て、植えるために。」主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」私は答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」

第2日課 コリント人への第一の手紙12:12-26

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手でないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目でないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体の一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中ではほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好良くしようとし、見苦しい部分をもっと見栄え良くしようとします。見栄えの良い部分にはそうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

福音書  ルカによる福音書5:1-11

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群集がその周りに押し寄せてきた。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群集に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えた。そして、猟師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。

彼らは来て、ニそうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

説教  「神様にとって、わたしたち一人一人は大切な者です。」

ルカによる福音書の5章1節から11節のお言葉でございます。

この話のうちに、主イエス様が、弟子として何人かをお招きになられたのです。

その人たちは漁師であったのです。彼らは、自分はそんなに教育があるものではないから、専門はあるのですが、それによって生活をしているので、その意味では一人前ですが、でもいろんなことは分かっていないと思っていたことでしょう。そこでイエス様が彼らよりも良い漁師であることをお示しになるのです。彼らは、ずっと一晩中漁をして何一つもとれなかったのですが、イエス様のお指図に従ってやったらおびただしい量の魚が捕れたのです。漁師の頭によるとイエス様の方が素晴らしい漁師であることがそこで分かってペトロは小さくなってしまったのです。「僕のような者と一緒にいらっしゃらないで、どうぞ離れてください。」と言って頼んだのです。イエス様はそれに対してそこにいた人たちにお頼みになるのです。「これからは人間をとる漁師になってもらうよ」ということでございました。私たちは何遍もこの話を聞かされていますが、ペトロはイエス様の弟子の一人として、この後、よく活躍します。ある教会は、ペトロが一番の弟子であると言って、その後継ぎはみな牧師であり、祭司として決めているようです。イエス様がペトロにこう頼んだことによって、ペトロがほかの人間に按手礼を授けたことで、教会の一つの規則として、また、伝統としてそれを続けているのです。そういう教会は、大きい教会で二つもあります。わたしたちの教会はそこまでその伝統に従ってはおりません。実際にはいくらかそれを続けているかも分かりませんが。別にそれを規則とはいたしておりません。

今日の旧約聖書の日課によりますと、エレミヤと言う人が預言者として神様に選ばれたのです。エレミヤは「僕はあんまり言葉が上手ではない。話がよく出来ない者です。」と謙遜に言ったのですが、神様は「私はあなたのことを生まれる前からそう考えていたのです。そして、この仕事をしてもらうことを決めていました。」と言われて、エレミヤは何も言えず、その通りに従うのです。聖書を見ますとエレミヤは、預言者としては一番長くその務めをしたと考えられます。私たちには何年かは分かりませんが、かなりの歳になるまで、イスラエルとユダの国がバビロニヤに征服されて、人々がバビロニヤの地方に連れて行かれましたが、エレミヤは、バビロニヤ軍が来て、エルサレムも壊されて神殿もなくなるということを預言していたので、エレミヤは味方だと思って彼をバビロニヤへ連れて行かなかったのです。彼はそこに残っているつもりでしたが、大分歳でしたので、強いられてエジプトへ連れて行かれてそこで一生を終わるのです。そのような体験をして、その間にエレミヤ書という素晴らしい預言書を残してくださったお方です。初めはわたしは話が上手ではないと言ったのですが、沢山の良い言葉を残してくださっています。

そこで、パウロがコリント人に話したことは、私たちはみな一つの体であると、教会はこういうものだと、その中にいる一人一人は違っていて、性格はみな一人一人の個性があって、それが大事なことです。みな同じではなく、それぞれが恵まれた特別な力を持っているのです。体にはいろいろな部分が、目や、足や、手の一部分づつの役割があるのです。一つ一つが全体ではない。違う部分によって、一つの体になっているのです。よく考えると、弱いところもあるでしょう。でもそれがあってもその部分も欠かすことの出来ない大事なものです。体全体を考えればその働きの助けをしているのだと言っています。実際、教会はそのようなものです。わたしたち一人一人はそれぞれ個性があるでしょう。

自分を考えれば、変わった者の一人と思いますが、でも、いくらか役に立っていると思います。私も、本当は牧師にはなりたくなかったのです。牧師だけにはなりたくなかったのです。でも神様がこのように仕事をすることをお決め下さったので、喜んでいたしてしておりますが、でも今でもたいしたものではないと思っております。そこでそれを判断するのは神様がなさることで、そして私たちがよく出来るから、自分の力が一番仕事の助けになっていると考えることもありますが、それは恐らく僅かな一部分だと思うほかありません。私たち一人一人が教会にとって大事な者だと、役割があると、それはどんなに上手にしているかはこれは自分の力でやっていることではなく、神様がその力を与えてくださって、その場所、その時を与えてくださって、無くてならないものとなっているのです。自分をそう考えるべきだというお話でございます。

イエス様も弟子たちを選ぶ時、あのように無教育な人を、全然違う仕事をしていた人を使われて私たちの教会の初めをお作りになったのです。勿論、十二人の弟子が一人一人個性があって、全部がペトロのようなおしゃべりが達者な人ではなかったようですが、それぞれの役割があってそれを果たしたようです。十二人の中のただ一人が長生きをして、歳をとって亡くなりましたが、ほかは全部殉教して、自分の信仰のために殺されるまでしたのです。長生きをしたヨハネは随分苦労をしたように見えます。一時は島流しにされて、いわゆる悪人と思われていましたが、また、町に帰ってしばらく良い仕事をしたのです。最後はだれかに手伝ってもらってみんなの前に立つことが出来て、支えられて僅かな言葉でしたが、普通の説教は二十分か、二時間かわかりませんが、最後の説教は、「イエス様を愛しなさい。」ということだけを聞かせたようです。そのように私たちの歴史を見ると、教会の歴史を見ますと、いろんな人が教会に来て、その一人一人が教会で、なくてはならない人となっているのです。一人一人が私はたいしたことをしていないと思っているのですが、実際は神様のお望みの通りに私たちはやっているのです。私たちはそれを比較できるかも分かりませんが、でも、神様が私たちにさせてくださることが、これが、大事なことで、神様が喜びなさることです。私たちは決して、自分を役に立たない者と考えてはなりません、役割があるのです。そして、それがただ一言葉であるかもわかりません。例えば、自分のことになってしまいますが、まだ小学校へ行っている頃、三年生頃であったと思いますが、親友が、「ジョージ君日曜学校へ行かないか。お母さんに聞いて良かったら日曜日の朝お宅へよって日曜学校へ連れて行きますから。」その一言葉だけでしたがそれによって、その時からルーテル教会へ通って、堅信をしてその後また、少しは迷いました。世の中を見ようと思って、カルフォルニア州立大学に僅かでしたが行きまして、そこにいる間少し世の中を見ましたが、しなければならいことがあると思って、当時はミズリー派には一人も日本人の牧師がいなかったのです。そして、日本の伝道も始まっていなかったのです。だから僕は勝手に考えたのですよ。神様がこうさせようとしていらっしゃることはよく感じていたので、その初めの仕事をしばらくやってみようと、そして、少し仕事の結果が出たら、僕はやめて自分のしたいことをしようと考えて自分を慰めて、神学校へ行ったのです。不思議なことに、この歳になっても神様がもう少し、もう少しと言ってくださるので、今も、皆さんの前にこうして立って、神様の愛を皆さんに告げようとしております。私個人としては大したことをしていないと思うが、でも、アメリカでも、日本に来てもいろんな経験をさせられてその全部を合わせて考えればとても良い機会を神様がたくさん与えてくださったと思っています。皆さんも全部同じようなことをする必要は無いと思いますが、でも、何時か、どこかで、誰かにその大切な福音の言葉を聞かせて、それによってもっと大きな事が起こることを皆さん考えていてください。

神様は皆さん一人一人のことを大切にしておられるのです。あなたがたを、個人として大事にして、皆さんの一人一人を通してもっと大きなことを神様は考えておられるのでしょう。こう信じて、今日のペトロがイエス様の弟子の一人になりましたという話を覚えていてください。