2001年2月11日 顕現節第6主日 「キリストの意外なお言葉」

第1日課   創世記45:3-15

ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることが出来なかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることがないようになさらなければいけません。』さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」

ヨセフは弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

第2日課   コリント人への第1の手紙14:12-20

あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。

兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

福音書   ルカによる福音書6:27-36

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返えそうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして、貸したところで、どんな恵があろうか。罪人でさえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

説教  「キリストの意外なお言葉。」

ルカによる福音書、六章の二十七節から三十六節のお言葉でございます。

イエスさまは弟子たちに意外な言葉を使っておられます。「敵を愛しなさい。」と。また、「悪口を言う人を祝福しなさい。頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を盗ろうとするものには下着も拒まないように、求める者には誰にも応えなさい。」このような、イエスさまの意外なお言葉。これには大事な一つの目的があると思います。それを今日はちょっと考えてみたいと思うております。

まず、旧約聖書の例を取り上げてみたいと思います。

ヨセフは、十二人の兄弟の十一人目の人でした。でも、複雑な家庭でした。お父さんのヤコブは、ラケルと結婚したかったのです。その娘の親と約束をして、七年間働いたのです。そして、いざ、結婚式をしましたら、後でわかったことは、自分が好きであったラケルではなくその姉レアと結婚をしてしまったのです。知らずに結婚式をしてしまったのです。 騙されたのです。それは、彼も悪かったのです。ヤコブは後継ぎのことで父親を騙して、兄さんから取り上げたことが前にあったのです。それで彼はまた七年働いて好きな女と一緒になるのですが、そのラケルには子供が出来ないで、お姉さんには何人も出来たので、その代わりに自分の使っている女によって、子供をつくったのです。お姉さんもまた自分の使っていた者の子供をつくるのです。とにかく十人もの子供が出来たのですが、やっと、ラケルが子供を産みます。その子供がヨセフでした。ですから、お父さんにとってはとっても可愛い子供でした。その後にもう一人が生まれたのです。ベニヤミンです。このベニヤミンが生まれた時に、ラケルは亡くなるのです。なおさらお父さんにとっては大事な子供でした。だから、その思いを隠さずにその二人の子供を特別に可愛がっていたのでしょう。お兄さんたちはそれを嫉妬していたので、ある時ヨセフがお父さんのご用で、お兄さんの様子を見に行かさせられたところ、お兄さんたちがヨセフを殺そうとたくらんで、洞穴の中に一時入れたのですが、通りかかった商人へヨセフを奴隷として売ってしまいました。ヨセフはエジプトへ連れて行かれたのです。この時ヨセフはだいたい十七才であったでしょう。青年といってもまだ若いヨセフはいろいろ苦労を重ねます。ついに、ヨセフは悪い事をしないのですが、そこの家庭の奥さんに嫌われて、獄やへ入れられてしまいます。獄やでは真面目に働いて、かえって囚人の世話をしたりしていたようです。囚人として苦労があったでしょう。その中に王様の召使が二人いました。その二人がある時夢を見て、それをヨセフが解きました。一人は大変だ。死刑になるだろうで、もう一人はもとの職へ戻されるだろうと解釈をしたのです。その後エジプトの王様が夢を見て誰もそれを解釈出来なくって困っていた時に、この獄やに入れられていた者がヨセフを思い出して、王さまにそのことを話したので、ヨセフが解釈をしたところそのとおりになって喜んだ王様が彼を今日の聖書では「顧問」にしたとありますが、ある聖書ではファラオの父親としたとあります。それはファラオが自分よりも上の者としたのです。その夢の解釈は、七年間国は大いに恵まれて、後の七年間は不作でみん困るでしょうということで、その通りになりましたので、豊作のときに充分に蓄えて後の7年のために準備をすることが出来たのです。王様は喜んで、ヨセフをその係りとしたのです。そのために助かるのですが、ヨセフの兄弟はすぐ近くの、隣の隣の国という程度のところにいて、飢饉が起こって、どうしても食べる物がなくって、エジプトへ買いに来るのです。ヨセフはすぐ気がついていたのですが、穀物を充分に与えて、その上お金を一人一人の袋へ隠して入れておいたのです。翌年また、兄弟たちが買いに来た時には、ヨセフは必ず弟を連れて来させるためにたくらんだのですが、十二人の兄弟の一人は亡くなって、一番若いのはお父さんの所へ残してきたのですという兄弟たちに、今度来る時には必ずその弟を連れてくるようにと約束をさせたのです。その次の時に、お父さんは、大事な子供を亡くすのを心配して反対したのですが、兄弟たちは約束した通りにエジプトへベニヤミンを連れて行くのです。買い物をして、帰る途中に王様の使い人が後を追っかけてきて、誰かが王様のコップを盗んだと言って、みんなの袋を調べさせたのです。するとベニヤミンの袋にそれが入っていたのです。これは、また戻ってくるようにとヨセフが計画的に入れておいたものです。使いの者は「盗んだ者はエジプトへ帰って奴隷にならなければならない」と言ったので、兄さんたちはお父さんに必ず連れて帰ると約束してきたので、皆で、またエジプトへ戻るのです。そこで、ヨセフは兄弟の顔を見て、他の人を遠ざけて、兄弟だけの所で、「わたしはヨセフです。」と言って一人一人を抱いて、涙を流すのです。ヨセフは「これは、わたしに対して君たちがたくらんだことですが、神さまがわたしをみんなより先にエジプトへ来るようにご計画をなさったのです。今、この通りに、わたしが皆を救うことが出来たのです。これは神さまのおかげです」と言って、ヨセフが兄弟たちを赦したのです。二十年以上たっていたでしょう。ヨセフはエジプトで苦労をしたのです。それでも、赦したのです。このように、これは神様のご計画なさったことと彼が解釈をしたところはわたしたちが教えられるところです。

ルカによる福音書で、「敵を愛しなさい。」と同じように、罪人が、悪い者が、仲間を許すことは、これは当然のことでしょう。でも、あなたが悪いことをしないで、悪い者にされても、あなたがたが親切にしていたら、それで親切にされた人は考えさせられることでしょう。それによって、彼らの目を神様に向けさせるでしょう。クリスチャンはそういう者だと神様にそう教えられているから、彼らも、もっと愛することを考えるべきだと人に教えることが出来るのでないでしょうか。当たり前の事をしていたら、全然そのような思いは起こらないのですが、でも、思いがけないことをしていたら、きっと、それで導かれるのでないでしょうか。

わたしたちが生きていることは、人を神様の方に目を向けさせることが大きな役割です。わたしたちが生かされている目的です。神様が、ヨセフをエジプトへ行かせた。行くようにいろいろ工夫をなさった。結局、家族兄弟を助けることが出来たように、わたしたちも普通考えればそこまでは思っていませんが、わたしたちはクリスチャンとして、繰り返し聖書を通して教わっていることがあるのです。例えば、ローマ人の十二章ですが、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。出来れば、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:17-21)そのほかにガラテヤ書の五章に「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ5:4-5)

今日のお話のポイントは、神さまがわたしたちに意外なことをしてくださったことです。わたしたちは、世の中の他の人に比べたらいくらかはよいと思うかもわかりませんが、でも本当を言えばわたしたちはそんなに素晴らしい人ではないのですね。神さまの望まれるような人ではないのです。わたしたちは結構欠点があって、間違ったことを繰り返ししています。わたしたちの心が嫌なことを思いついたりしているのです。それで、神さまがよくわたしたちのことを憐れんでくださって、御独り子をこの世にお送りなさったことを考えさせられます。神さまが本当はわたしたちに酷い刑罰を、わたしたちは地獄へ送られるべきでしょう。そのように神さまが考えられても、わたしたちは、決して神さまを悪くは言えません。良い神さまでしたら、悪を嫌われるはずでしょう。それに報われることをなさるのが当然でしょう。にもかかわらず、神さまはわたしたちを愛してくださって、その愛は、わたしたちを赦してくださるという事です。そのためにただで赦すことが出来ない神さまですから、その身代わりとして、独り子のイエスさまをこの世に送られたのです。そこまでわたしたちは良く考えていなければなりません。神さまがわたしたちを地獄へ送られても不思議ではない。それが当たり前のことで、わたしたちは一人も永遠に生きることは出来ません。天国へ行けません。充分に良い者ではないのです。でも神さまはわたしたちに対して本当の親心を持っておられます。わたしたちを赦して、愛して、わたしたちを子供にしておられるのです。だから、このように神さまが、『その独り子を女から、わたしたち人間と同じようになられて律法の下に生まれた者として、お遣わしになりました。これは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。』と、このガラテヤ人への言葉を繰り返し申します。これを心に留めていましょう。神さまに対して感謝をして、毎日をそのようにいたしておりましょう。できれば、神さまに倣って、人が意外と思うこと、いじめられてもいじめ返すことなく、憎まれても憎み返すことをしないで、敵を愛することを、わたしたちは出来たらそれによって、その人たちの目を神さまに向けることが出来たら、本当にわたしたちは嬉しいと思います。イエスさまがそのようにわたしたちに教えてくださっております。